気づきの意識

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。

物質も精神も幻想

物質も精神も同じ

物質は常に移ろい変化していきます、精神もこれと同じ常に揺れ動き変化していきます。この二つは全く異なるようでいて移ろうという意味では全く同じなのです。そしてこの移ろうものは固定化されて確かなものではないのですから完全に幻想です。そしてこの物質、精神という幻想に気づくことができるのは幻想ではありえないわけですから我々の本質は自我という幻想ではなく、、絶対、根源であることが見えてきます。つまり移り変わらない完全な存在なのです。

移り変わるようでは絶対ではない

絶対には変化がありません、絶対はそのままで絶対であり、、そのままで無限でありそこには変化は起きようがない。なぜならば絶対に変化が起きてしまったら、、この幻想界、現象界の出来事に気づくことができないからです。つまり先ずは絶対的な存在があり、、その鏡の中に映る絶対の現れ、無限の顕現化があり、、それにただ気づくが起きているわけです。この気づくも絶対の中では起きておらず、、気づくは絶対の外で起きます。この気づく存在を神、真我、気づきの意識と呼びます。

色と空は最初から一つ

空があって色は次に現れたのではありません、、、最初からこの二つは同時に現れました、、空には時間など存在しませんから、、色即是空、空即是色がある。、、これで終わりです。そして空が延々であり、色が永遠であり、、気づくが延々に起き続けるのです。空の中には変化は一切起きず、、色は無限の現れとして変化が起き続ける、、そこに気づくという現象が起き続けるのです。空の中に最初から色があったのです。

マニュアル

本質を完全に忘れる

本質を完全に忘れてしまった状態、、この状態での自我反射システムは、、マニュアルを求めます、、パワー(本質)というものがこの体内に在るという認識は全くありませんからマニュアルに支配されて安心したいわけです、、マニュアルを完璧にこなすことに意識が向きます、、、ですからどの組織でもマニュアルが重宝され、、個人はマニュアルに安住するのです。

本質に気づき始めると

本質に気づき始めますと、、、本質とはパワーそのものですから自我反射システムに緩みが生まれます、、本質を信頼する自我反射システムが働きます、、、外の何かを求めなくても内側に大きなパワーがあることを意識した自我反射システムが働きます。。。自我はこの強力なパワーを発見した自分という役回りをします、、、そしてこのパワーをこの夢の世界の中で自我拡大に利用するのです。これは苦しい状態です。

本質のパワーの悪用

本質のパワーに気づきが起きたことで、、自我反射システムは、、、このパワーを利用した自我拡大を行なっていきます、、このパワーをこの体の維持に有効利用しようとします、、、疲れない私、仕事ができる私、判断力がある私、、などなど、、、自我が拡大します、、、自我反射システムが強化されていきます。ですがこの状態を続けても苦しみは解消しません。

このパワーって本当は何だ??

気づきの意識を強く意識していきますと、、、徐々に自我そのものを疑うという動きが起き始めます。この苦しみを生み出しているのはこの自我記憶システムではないか???本当はこのパワーはパワーそのものであって、、自我はそれを自分のモノという勘違いを起こしているのではないか???という気づきが起き始めます。そして突然、、実はこの自我はパワー、本質が生み出した、、体を守るための防御システムに過ぎないことに気づきます。

自我が存在しないと時間も存在しない

本当の理解が起きますと、、ここには時間が存在しないことが明白になります、、、自分も他人も確実に存在しないという理解は同時に時間も解消させます、、そして自分、他人が存在をしないが理解できますと、、空間すらも実はないという理解が起きます、、時間、空間、自分という実在しているはずだった存在が一瞬で消えます。ですがそれでも何も問題がなく生活が続きます。

自我とは自分を守るために形成された

本当の自分からの自我形成

真我そのままの体の状態が子供の状態です、、彼らは何も考えずあるがままに動き遊びまくっていました、ある日親からこれはやってはダメ、これもダメだと、、言われ続けるようになり、、、真我は自我という偽りの自分自身を作り出し、、親に食わせてもらうように自我を作り出しました。つまり自我とは、、生き延びるために、、、親にとって都合の良い形であると言えるのです。。子供は嫌に嫌われてしまったら生きていけませんから、、そこで偽りの自我を作り出したのです。

全員の自我は偽り

自我とは偽りの存在です、、真我が真我のままでは生き抜く事ができない時に、、体に偽りの自我を形成させ生き延びようとした起こりです。ということで自我の状態で生きるのは辛いのです、、本質が本質のままではないからです。自我という偽りの存在を信じて生き続けるのは苦しみの人生なのです。だから人生とは=苦しみなのです。

自我が実在しないことを見抜く

自我はこの体を守るために形成されているわけですから、、この自我は偽り、嘘、無いと信じるのは大変怖いことなのです、、、自我が無かったら生き延びてきていないのですから、、、大変な危険、リスク行為なのです。悟りが非常に難しのはかつての命綱、かつての生命線、かつてのセイフティーネットを捨てることだからです。ですがこの恐怖心のメカニズムが理解できますと、、自我の緊張が緩みます、、もう必要ないことの理解が起きます、気づきの意識から。。。

親は意図的にそれをしていない

親の自我も完全に偽りです、、そしてそこから出てくる思考、感情、行動も完全に自我ではなく真我から起き上がっています、、ですからそこには何も意図がないのです、、ただその人を支える観念からこれらは飛び出してきました。。それに反射されるように、、子供の体の中に偽りの自我が形成されたのです、、、全部が全部自動反応です。

ネガティブな感情から逃げる動き

思考をするのはネガティブな感情を嫌うため

体にネガティブな感情を溜め込みますと、、、それを感じるのが辛いため、、思考を繰り返してそこに意識を集め、逃げるという動きが起きます、、、、一日中思考を繰り返してしまうパターンはこれにあたります。自我とは全記憶から形成されていますから、、、この自我は過去と共にあります、、、目の前で嫌なことが起きると、、そこが記憶と連動し、、溜め込んだ感情が溢れてきます、、この際に思考が爆発的に湧き出し、、そこに意識を向けることで感じるのを避けるのです。

ネガティブな感情を直接癒す

毎日マッサージをする習慣を身につけます、、、毎日体に溜まったネガティブなエネルギーを吐き出します、、するとエネルギーの通りが良くなりますから、、、元気な状態に。さらに今目の前の事件が起きても感情の湧き出しが減るために思考の湧き出しも抑えることができます。自我という収縮したエネルギーが解放され、、、気づきの意識の状態が落ち着くのです。

成功とは、、経験のこと

経験こそが成功

一般の成功とはこの私が私が望む生活をすることです、、、経済的成功、精神的成功、、、などなど、、、ですが本当の成功とは、、経験が起きた、、これだけで十分に成功です。この世界は無限の存在である神が自身が無限の存在で在ることを体感するゲームです、、、ゆえにあらゆる経験を無限に積み、、、自らが無限の存在だったという気づきを起こすためのものです。。我々はその経験を積むために用意された反映です。経験はこの体だけでは絶対に起きません、、体と対象がなくてはダメ、体と環境がなくてはダメ、、、よって私(主体)対象物(客体)を神が用意し、そこに経験が生まれたのです。

だから、、、

だからこそ、、、、我々は大金を稼ぎ、全てを手に入れても全く幸福になりません、、、個人は幸福になるように設定されていないからです。個人が幸福になったら経験を積まなくなります、、それは無限なる神が無限の経験を積むことと矛盾します、、、ゆえに我々が考えるゴールは実在しないのです。ゴールなどあっては、、経験が終わってしまいます。私(無限の存在)はやはり無限だったという気づきが起きるまではエンドレスに続きまます。

個人が幸福になるという嘘の世界から抜ける

個人は幸福になれません、、、個人はただの経験を生み出す道具です、、、そこを早く見抜き、、個人を機能として経験を積んでいきます、、、その経験とはこの私(無限なる存在)は無限だったという気づきが起きるように。。。。主語を全体、神に戻すことで経験を変えていきます、、、個人としての経験を神の経験に戻します。経験は全て気づきの意識に回収され、、、その気づきが起きるのは絶対の存在、空、たった一つの存在、無限なる存在が在るからだという気づきが起きます。

鏡に入り込んだ神

これは神が見る鏡の姿

この世界は現象界、この現象界は幻影、反映、実態のない世界です、、ですがこの中での経験は確実に在る、感じる、、この感覚は間違いのない実在。この世界は鏡の世界にも関わらずなぜ、、経験という実感が確実にあるのか、、、気づきという間違いのない感覚が起きるのか???反映でしかないのに。それこそが神と、神の鏡が一体である証拠です。。。ただの鏡であるならば、、、経験は存在しない、、気づきもない、感覚もない、、全てないということになります。ですがその鏡の反映と神が一体で在るからこそそこに気づきが生まれます、経験が生まれます。色即是空、空即是色だからこそ、、気づきが湧くのです。

色の中で気づきが起きる、、そうかこれは空が作り出した世界だ

色は色だけでは気づきは起きません、現象は現象のみでは気づきはおきません、、そのままだからです。ですがなぜその中で気づきが起きるのか???それは空がそこに在るからです、、、空、神、絶対がそこにあるからこそ気づきという感覚が生まれます、、、この気づきの中で、、、この体が触れる全てに感覚が生じるからこそ、、空の存在が再確認されるのです。空(神)があるからこそ色(現象)に気づく、、色の世界で気づきが起きた時に、、なぜこの気づきが起きたのかという思考が湧く、、、そこでそうか空が在るあるからだという気づきが起きます。

色だけでは気づきは起きず、空だけでは気づきが起きない

色と空が完全一致しているからこそ、、気づきが起き続けています。。。気づきは先ずは起きました、、、この色の中での動きは完全に空が在るからこその気づきが起き続けます。。。その気づきの中で、、、この体が起こり、、この体の全五感が気づかれます、、気づきの意識の、、、これによってこの私の中に私が居るという思考が起き、、この思考に気づきの意識が気づきました。。。そして時間という思考が起こり、、私がこの時間、空間を歩むというストーリーが起こったのです、、それに気づきの意識が気づきます。

たった一つのエネルギー

今現象界は空の反映、空の鏡です、、、、空の目の前に現象界という鏡が突如登場し、、気づきが起きました、、これが気づきの意識です、、、、我々は綺麗な花に出会った時にそれに気づきますが、、、気づきとはこのことです。現象界に気づくとはそういうことなのです。空が反映されたこの現象界とは「気づき」が同時に起きる世界です。空、色、そして気づきです。現象界に気づく、、つまり空という存在にも気づくが起きます。

我々の日常生活

我々の日常生活はまさにこの連続です、、、「私」が居て「対象物」があって「見る」が起きます。「空」があって「色」があって「気づき」が起きます。。。気づきが起きることで「色」と「空」の存在に気づきます。空即是色、色即是空を毎日やっているのです、実は、、、、空と色は一つです、、、空という存在と色という空の鏡、、そして鏡に何かが映ることで、、、空の存在が確かめられている、、、「私」が居て「鏡に映る対象物」があって、、、体験が起こるから、、、体験をした「私」という存在を確認しています。

対象物がなければ

対象物がなければ、経験が積めず、経験をつめなければ「私」は存在できません。。。逆に言えばこのサイクルで「私」を作り続けているのが今です。体験を積むというのは、、「私」を作り出す作業のことです。我々はなぜ毎日せっせと動き続けて頑張って生きているかといえば、、、体験を積むことで「自分」を確認しているのです。ですが本当は空が在って、、その鏡としての現象が起こり、、そこに気づくことで、、、空という存在を認識している、、、そのサイクルの中にこの「私」が現れただけです。

このことが分かると

全てに気づいてください、、それはこの私ではなく、、、ただ気づくのです、、鳥の声、鳥という名前など本当はなかったことを思い出して、、、風の感覚、、風という名前などまるでなかった時を思い出して、、、ただ気づく、、、気づく、、、気づく、、、空が在り、、、色が現象として鏡として現れ、、それに気づく、、本当にたた気づく時、、、、空があってその鏡が在るというこのメカニズムが腹落ちします。

体からの解放

体を空の通り道と捉える

人間には気というエネルギーがありますがエックハルト曰く「気は空から物質を作るためのエネルギー」だということです、、、私は毎日体のマッサージをしていますが気を通していくと空からエネルギーが湧いてきているという感覚を得ます、、、なぜか自信がある、、この自信はどこから来ているのか????空から気を通じて元気が来ているということです。この体は空からの現象化であることは間違いがない、、、体をマッサージすることでこれを感じます、、

気を解放して空からの起こりを促す

全経絡を解放し、、空から気を通すことを積極的に行なっていきます。もちろんこの動きは全自動ではありますが、、、どの部位が気が通っていないかを観察しながら感じていきます、、この感じるは誰がやっているのか????気づきの意識です、全体です、真我です、在るがそれを感じます。マッサージとはこの体の気の流れを直接解放し空との回路を開くことになります。

空の認識がさらに気を通す

空の認識が深まっていきますと、、そこに意識が向きます、、すると、、空からこの色(体)への現象化が強化され体が強化されていきます。。この体が本当の意味で空と色との通り道になるのです。マッサージで体の中に隙間を作り、、気の巡りを良くすることで、、空を直接体感する体であり、色を体感する体にしていきます。

学べば食えるという気づきの重要性

学ぶというのは気づくということ

学ぶとはなんでしょうか???学ぶとは今まで知らなかった言葉、概念を覚えていくことです、、知らなかったことに気づき、、学習をしていきます。。。りんごには実は100種類の名前がある、、、このことを知らなかった人はそこに気づき学びます。。。学ぶということは新しい概念に気づき覚えていくことです。基本的に人間は多くの知識を持っている方が生きやすくなります、、肉体としては、、、例えば就職先を一社しか知らない人よりも100社知ってる方が入社成功率が上がります、、知識とは生き延びるための選択肢を増やします。

「私」にとって学ぶメリットがあることに気づく

この私はイメージですが、、このイメージの世界の中で学ぶことは生きるための選択肢を増やし生き延びやすくなっていきます、、、この気づきが先ずは学ぶことで起きます、、、学ぶというのはこの体を生き延びやすくするので、、、学ぶことに抵抗が起きにくいのは当然です、、そして学んで学んでよりこの体を安全領域に持っていきます、、

この延長線上に悟りがあれば、、、

学べば食いやすくなる、、これに気づきの意識が気づきますと、、学び続けることができます、、、ストーリー上の私を通じた思考もこれに抵抗せず、行動もこれに抵抗をしません、、、学べば生き延びやすい、、という気づきがあるからです。。。悟りとは自我の消滅にも関わらずこれらのメッセージを比較的抵抗に遭わずに、、学び続けることができます、、、学べば食えるという気づきが大きく作用します。自我が消滅してもこの体は食えるという気づきが気づきの意識にあるからです。