欲望

海であることを忘れた波は本能に翻弄される

湧き上がる欲求は欠乏感が変異したもの

海であることを忘れた波は欠乏感が溢れてきます。自身を波だと勘違いすればするほど欠乏感が溢れてきます。これは当然のことライオンが自分は弱いと勘違いすればストレスは相当なものです、本当は強いことをどこかで覚えていますから。この不足感、欠乏感が波こと人間の欲望、本能の根源です。こん欲望の形状が個人によって全く異なるため個性というものが生まれました。あの人は目立ちたがりや、あの人は見栄っ張り、あの人はマイペース、あの人は恥ずかしがり屋、、、などなどです。これらは全て不足感、欠乏感が変異したものです。

本能を昇華する

この本能を無かったことにする、この本能を抑えていくのがこれまでの宗教の多くのです。キリスト教では十戒、仏教では八正道、断食や、禁酒などです。ですが現在の資本主義経済全盛の時代においてこれらのシステムは合わなくなってきました。そこからは欲を肯定していくような大乗仏教的な思想が広く拡散しています。ですがこの欲を肯定しながらも苦しみをなくしていくという大乗仏教的システムもなかなか上手くいっていません。どのような状況であっても自我は必ずその中から抜け道を探し出し延命措置に成功するからです。欲望を無心になって見つめそこから悟りに入るか。欲望をきっかけにして所作に入りそこから無心に入る。こういった本能の昇華が必要です。

欲望を無心になって見つめる

エックハルトトールはこの欲望を無心になって観察しなさい、欲望、思考が起こったらそれを冷静に見つめそこから悟りに入りなさいと説きます。思考、欲望を観察する意識そのものでありなさいと説きます。思考が起こると同時に海、全存在、大いなる一つになってしまうということです。このアイデアの素晴らしさは自我が出しゃばることで意識になれるということです。悟りに自我を逆に利用するということ。思考の湧き上がりこそを無心、無我、大いなる一つに戻るきっかけにしてしまうということです。

相手の要望を叶え続けるのが不可能な理由

海が自身を波だと勘違いしている時点で、、

自分のことを波だと勘違いしている海の要望を叶え続けることなど不可能です。なぜならば波が多少大きくなっても、豊かになっても、高くなっても、どんなに頑張っても本来の大きさになることなど不可能だからです。付き合ってるパートナーの要望を叶え続けても絶対に最終的に破綻がくるのはそのよの欲望は自身が波ではなく海であったことを思い出さない限り延々に続くことがわかっているからです。仏教で言う足るを知るなど自身を波だと勘違いしている存在にとっては一生理解できない言葉、戯言です。

巨人軍が何回優勝しても満足できないオーナー

ナベツネで有名な巨人軍オーナーですが巨人が何回優勝したって満足できないのは彼が海ではなく自身を波だと勘違いしているからです。自身の野球チームが何回優勝したって自身が海に戻るほどの感動を覚えないのは当然です。この欲望は尽きることがないのです。どこまでいっても無限地獄、人間の欲が歯止めが効かないのは当たり前のこと、程々で満足しているなど戯言です。

要望をなかったことにして生きていても絶望が襲ってくる

人間が中から湧いてくる欲望は自身が実は海だったことの記憶が作り出していますからそこを無視したり、抑えても絶対に上手くいかないのです。無視すればするほど、抑えれば抑えるほどにそのエネルギーはコップに溜まっていきいずれは爆発します。そうではなくこの欲望を使って無我夢中に入る、もしくはこの構造を俯瞰して理解し自身が海であることを腹落ちさせること以外にこの無限地獄から脱却する方法はありません。無我夢中になってそこから海になるか、、欲望をしっかりと見つめこの欲望がどこから出てきたのかを見定めるのです。出てきた場所は海です。

非二元ブームはなぜ起こったか

この現実がどこまで行っても苦しいことに大勢が気づき始めた

自我は先ず経済的満足を追求します。腹が減っては戦ができん、では無いですが自我は先ずは経済的満足を追求します。収入の良い仕事、将来性のある仕事、恋人、家、結婚などなど、、そして多くの満足を得たにも関わらず全く満足できない自分自身に驚愕します。得た直後は満足感はありますがその後にくる喪失感、退屈感の襲撃、この感覚にほとほと疲れ果てたのちに次に求めるのが精神的満足です。地位や名誉、プライドをみたし精神的満足を得ていきます、しかしここでもまた挫折が、、、どこまで行っても全く満たされない心、欲望の存在です。そこで次に登場するのがスピリチュアルと呼ばれる精神世界への探究です。ここではオーラ、チャクラ、ハイアーセルフとこの世界ならではのヒエラルキーが登場しそこを着実に登る山登りが始まります。この探究、この山登りこそが本当の幸福、至福に自分自身を目覚めさせてくれると。ところが、、このスピリチュアルの探究でもやっぱりダメ、どこまで登っても全く至福に至れないのです。ここまできて初めて人は非二元、悟り、というアイデアにたどり着くのです。そう、自我の探究、自我の山登り、自我の向上では至福にが至れないということを。自分を自分と思い込むこの自我こそが不幸、不足、枯渇、孤独を生み出してきた張本人であることに気づいてしまうのです。これが非二元、ノンデュアリティーです。

もう山登り、自分向上は辞めたい、、

あの人は素晴らしい、あの人は悟っている、あの人は何かが違う、、、この人を称賛する自我の動きは実は苦しみのメカニズムです。人を持ち上げるということは人を見下すことでもあるのです。つまり人間を階級で考えているのです。この考え方は世の中には人間という個別の存在がありそしてそこには称賛できる人もいれば逆に見下げるべき人もいるという山登りを証明します。自分よりも先に登っている人、自分よりも登れていない人がいるというこの強烈な錯覚こそが人を苦しめるのです。もうそろそろ気づかなくてはなりません、世の中に称賛すべき人も非難すべき個人も存在しません。全ては存在の顕れ、存在の現象化、存在の人間活動です。全て全く同じ粒子で構成されています。上下比較できる対象ではないのです。人を称賛すればそこに至っていない自分自身を見下すことになります、無価値観を強めます。人を見下せばその時は悦に入れますがそれも一時期、そのあとはただのプレッシャーに変わります。人間同士の比較も、人間という存在のカラクリも見破る時期が来ました。

夢の登場人物を比較する無意味さ

あなたは自分自身が毎晩見る夢の中での登場人物に優劣をつけることに意味を感じるでしょうか。自分自身で作っておいてそこに優劣をつける意味はありません。もちろんゲームとして優劣をつけることは自由ですがそこに何か価値はありません、ただの遊びです。これはこの現実社会も同じです、夢の登場人物に優劣をつけそこに自分自身も入れて比較しプレッシャーで苦しんでいるのが人間ゲームの苦しさの一つの原因です。どこまで山登りして自分自身を高めてもそこには答えがないことをそろそろ気づく時なのです。夢の登場人物として自身を高めていくことと至福とは何も関係がないことを悟る時が来ました、これがノンディアリティー非二元です。比較する対象は何もないということ、自分と他人も、自分と対象物も何もない、、ただそこには夢の登場人物がいるというだけです。

有名人の自殺に思うこと

有名俳優、有名女優の自殺について

コロナに入り有名人の自殺がニュースになりました。名実共に評価を受けるような役者さん、女優さんの自殺は一体なぜ起きるのでしょうか。顔も良く、スタイルもよく、かつ収入も良いといった世間的には全てが勝ちゲームの状態でなぜ有名人は死を選ぶのでしょうか。この事実に自我はどう答えを出すのでしょうか。自我は常に不足、欠乏で欲求が起こります。自分がこんな小さな体一つで体以外の世界は全て自分以外。とてつもない小さな自分と、とてつもなく大きな自分以外、、これで自我は孤独、欠乏という感情を生み続けるマシーンになります。本当は存在そのもの、神そのもの、が自我というこの体の中こそが自分というメカニズムに乗っ取られてしまった結果強烈な無価値観に苛まされてしまうわけです。結果地位も名誉もより良きパートナーも、子孫も、見た目も全部欲しいという欲しい欲しいマシーンになっていきます。

最初から諦めて絶望と共に生きていくか、チャレンジを繰り返し最後に絶望をするかの二択

人生には二択が用意されています。最初から人生を諦めてこんなものだと絶望して生きていく生き方と、あらゆるチャレンジを繰り返し、地位や名誉、収入を手に入れながらもやっぱり何も永遠に満たされることはないと最後に絶望するかです。どちらも最後は絶望というところが同じです、つまり自我のプログラムが起動している状態で永続する満足を手に入れるのは不可能ということです。ですからそのことを若くに悟り何も目指さないと決め込むか、徹底的にチャレンジし自我が欲する欲望を満たし続け最後に疲れ果てるかの二択が用意されています。亡くなってしまった有名人は私からすれば後者になります。

もう一つの選択肢、夢から覚めてしまう

そして最後の選択肢があります。それがこの世、夢から覚めてしまうということです。今見ている夢から覚めてしまえば絶望感を味わないですみます、そしてこの夢から覚めるのは誰か、それは人間活動を行っている自我ではありません。存在がこの夢、自我を通じて見ている夢から覚めるということです。渇望ゲーム、不足ゲーム、快不快ゲーム、刺激退屈ゲームであるこの夢から覚めてしまうということです。これで絶望を味わなくて済みます。