欠乏感

仕事中毒の解説

仕事も中毒になる

常に孤独感、欠乏感、不足感が湧き出てくるこの人間という生き物は仕事すらも中毒化してこの感情を感じないように努めます。少なくとも仕事をしている間はこの不足感、欠乏感、孤独感を感じずにいられるからです。ですがこれらの感情から逃げるための仕事は大変疲れるために結局違う苦しみになって取って代わるだけです。体力を消耗し、思考を消耗し疲れ果てていきます。仕事をしていないと不安になるのはただ不足感、欠乏感を感じないように逃げているだけなのです。

仕事に集中し切ることでそこから悟りに入る

仕事に集中し無我の状態に至りますと、即歓喜、安心、安堵に至ります。仕事に入り込むことで安堵、歓喜、安心を体験できるのです。そうなりますと人はいつでもどこでも平和、安心、安堵に至れることを学習し仕事以外にも興味を覚えますし、スポーツ、エンタメ、あらゆるところから悟りに入るコツを掴むのです。集中している時は歓喜、安心、安堵そのものになれるのです。ですからもう仕事中毒にはなりません。

仕事中毒と集中は全く違う

中毒と集中は似ているようで全く違います。中毒はただの逃避であり集中は思考を削ぎ落とし歓喜、平和、安堵そのものになる行為です。中毒である逃避は一時的なごまかしを延々と続ける行為です。中毒行為に至る人はやればやるほどに疲れ果てていき、集中に専念する人は元気そのものです。なぜならば無我とは元気そのものだからです。

女性の買い物中毒のメカニズム

女性が買い物好きな理由

人が買い物を好きな理由はなぜでしょうか?買い物というのは何かしらの欲しい対象です。海であることを忘れた波は自身が本来は広大無辺な存在であることを覚えていますから常に渇望感、不足感を抱えています。海の代替品、全存在の代替品を求めて日々生きています。その代替品の一つが買い物です。買い物で次から次へと買い続けるこの行為は大なる存在の代替品を得続ける行為なのです。ですがこの代替品は大いなる一つとは全く違い規模が小さいですから直ぐにお腹が空いてまた買い続けることになるのです。

男性がタバコを吸い続ける理由

タバコを通じて人間はニコチンを摂取しているわけですがニコチンはこの大いなる一つの代替品です。ニコチンでハイになりたがるのはこの欠乏感、欠落感を埋めるためです。ニコチンのような興奮剤は全て脳内に幸福ホルモンを分泌するわけですがこのホルモンで欠落感を一時的に埋めているわけです。ですがこれも分泌が終わればまた吸いたくなるということです。多くの方が一度タバコに手を染めると死ぬまで喫煙し続ける理由がこれです。

男性がお酒を飲み続ける理由

男性がお酒を飲み続ける理由も同じです。大いなる一つが自身をちっぽけなこの人間であると勘違いすることから欠落感、孤独感、喪失感が湧き出てくるわけですがこれをお酒が一時的に埋めてくれます。お酒も飲むと幸福ホルモンが分泌されるため飲み始めると多く場合死ぬまで飲み続けます。人間である以上お酒をやめることはほぼ不可能です。「人間やめますか覚醒剤をやめますか?」というキャッチコピーのスローガンを一度見たことがありますがこれは皮肉にも真実です。人間を辞めない限り基本中毒というものから逃げることは不可能です。自身は人間だという勘違い、そしてこれが全て夢だという腹落ち以外に不足感、喪失感、虚無感はなくなりません。それは自身が本当は完璧な全存在だからです。

ただひたすらに湧いてくる欠乏感を自分のモノとして生きていく登場人物

ストレスが溜まっている日の夢は悪夢になる

凄いハッピーな1日を過ごした日に悪夢を見ることはあまりないです。ストレスフルな1日を過ごした日は悪夢を見るパターンが多い。ストレスフルだった日はなぜか夢の登場人物に災難が降りかかり悪夢にうなされます。つまり夢を見ている張本人のストレスによって夢の展開は変わっていくわけです。夢の登場人物はストレスを自分のモノとしてこのストレス解消のためにあらゆる行動を起こし夢が展開されていくということになります。

この現実社会も全く同じ、この夢を認識するモノのストレスを登場人物である私は自分のモノとしてただひたすらに行動していく

この夢を認識し、かつこの夢そのものである気づきの意識、大いなる一つは「私」がいるという錯覚をお超すことでこの夢を展開していきます。この心身こそ私であるという錯覚を持ち続けた主人公である私はなんともいえない欠乏感、孤独感、欠落感を解消するべくこの夢の中で活動し続けています。この夢の凄いところは個人がいるという勘違いが強くなればなるほどにストレスが増大するようになっていることです。ストレスを自分のモノとして解決しようする責任感が強い主人公であればあるほどによりストレスは増大していきます。

夢をただ認識する気づきの意識は主人公の行動に奔走されることは全くない

あなたが昨晩見た夢の中で、、主人公が全く意に介さないような行動をとったとしてもそれを後悔することはありません。夢の中での主人公の行動が失敗続きだったとしても所詮夢の中の行動でありそれ以上でもそれ以下でもない、、ただそれだけです。この現実社会も気づきの意識がみる夢ですから気づきの意識が主人公である私の行動に右往左往することはありません。私を主人公に置いてただ夢が展開されていきます。気づきの意識が展開する夢ですから主人公の私が取る行動の結果は全て気づきの意識が勝手に決めるということです。因果応報はあるようには見えますが無いといえば全くないです。所詮夢ですから。

海であることを忘れた波は疲れている

海であることを忘れると思考フルスロットル状態になる

海であることを忘れた波はなぜか不足感、欠落感、孤独感が半端なく中から湧いてきます。朝起きて寝るまでこの欠落感、欠乏感、孤独感をひたすらに埋めるために思考フルスロットルで動き回るのです。そして動けば第二波、三波の感情が次々に湧いてきますがこれらは先ほどの欠乏感、孤独感が形を変えたものであることは間違いありません。なんとかしてこの感情解消のためにあらゆる手を尽くし、頭を尽くし動きますがこのイタチごっこは半永久的に続くために徐々に疲弊してくるのです。よって人間はどこかで中毒対象を見つけ出し中毒行動でこれを乗り越えようとするのです。それが恋愛だったりTVだったりゲームだったりギャンブルだったりお酒だったりです。

なぜここまで何かに中毒になるのか?

この夢物語の中では常に不足感、欠落感、孤独感が襲ってきますからいかにこの感情を沈めるかに思考はフルスロットルになります。結果多くは何かしらに中毒になることでこれを乗り越えようとします。それをしている間思考を削ぎ落とせるような何かを求め続けるのです。人間にとって中毒とは現実逃避ではなく全く意味がわからないこの欠乏感、喪失感、孤独感を感じなくさせてくれる助け舟なのです。そしてこの思考の削ぎ落としを中毒ではなく全ての人間活動の所作からそこに入れますと夢物語から常に抜け出た次元にシフトできているので欠乏感を感じずにいられるのです。どのタイミングでも意識、気づきの意識に戻れる人は中毒とは無縁で生きられます。

この夢物語では湧き上がる欠乏感を中毒ではなく、思考フルスロットルでもなく、見抜くことで解決する

もしかしたらこれは誰かが見ている夢なのか?そのような疑問が湧いてきたらこの夢から覚める準備ができています。夢を見ているのは主人公ではなくこの夢をただ認識するものです。これまでこのただ認識するものにあらゆる名前をつけてきました。神、ブラフマン、キリスト、仏、空、、、名称は多くの場合この夢の登場人物達によって誤解されていきます。このただ認識するものがこの夢を見ています。湧き上がる欠乏感を主人公のモノと勘違いさせ主人公を右往左往させ時に積極的に時に消極的にこの欠乏感を埋めることを目的に動き続けさせてきました。何かに中毒になっても相決するわけでもなく、思考フルスロットルでも解決はしません。これが夢だと見抜き俯瞰することで深刻さを根本から無くしていくことでこの夢物語から認識するものが覚めるのをただ待つのみです。

苦しみ、欠乏感、孤独感から逃げるのではなく、、

なんとか誤魔化してこの夢物語の欠乏感、喪失感から逃げ続けるのは至難の技ですからそうではなくこれに向き合うこうことが重要です。準備ができた登場人物はこの喪失感に向き合うことでそこから無心に入る、無我に入る、全存在に入っていきます。喪失感の根源は自分自身そのものであり外にこの解決を求めても無駄です。自分自身が全存在であることに気づく以外この戦いは続きます。

この夢物語は不足感、欠乏感がひたすらに湧いてくる

湧いてくる感情を自分のモノとしてこの物語は続く

全存在が思考を使ってこの夢物語を誕生させているわけですが、この夢物語は不思議なほど感情がどこからか湧いてきます。物語上はこの主人公の感情ということになっていますが実際はただ感情が湧いていてそれを自分の感情と主人公が捉えるという流れです。自分のモノとするという自動反応が起き続けるのです。感情が湧きこれを自分のモノにするというメカニズムが起き、それによってまた不足感が変換された感情が湧き続けるのです。こういう流れでこの波物語には感情が頻繁に登場するのです。

この心身こそ自分自身と勘違いすることで不足感が湧きそれを思考で解決しようとすることで他の感情に変換されていく

思考と感情はセットです。もちろんそれもただ湧いてきているだけですが。全存在がこの心身こそを自分自身と勘違いする思考が現れることによって不足感が湧き上がり、見かけ上全存在ではなくなったことで全存在の代替品を探すことにまた思考を使います。ところが思考が探してきた代替品はこの夢物語の中にあるモノから探し出してきますからこれは全存在のやはり一部でしかないのです。そうなればその代替品の賞味期限は瞬時に尽きることになるのでまた違った感情が湧いてくるのです。この感情は全て不足感の変容パターンでしかありません。この感情を解決しようとまた思考が湧いてきて全存在の違う代替品を探し出していきます。

ゆえにこの夢物語の中に至福を探すのは疲れる

自分自身(全存在)自分を分離させ渇望感を味合わせ、自身(全存在)の代替品を追い求めさせるのがこの夢物語の基本構造ですかなかなかしんどいゲームであることは間違いありません。ですがあらゆる感情、不足感、欠乏感、孤独感、虚無感、焦燥感、、、これらは全存在が全存在のままでは味わうことが決してできない感情ですから全存在はこの感情を味わえていることに感動します。全存在(感動)が焦燥感を意識することに感動(全存在)しているのです。全存在(感動)が焦燥感を一時的に解消できることに感動(全存在)するのです。ですからアジャシャンティーはこの状況を全てうまくいっていると表現します。

海であることを忘れた波は本能に翻弄される

湧き上がる欲求は欠乏感が変異したもの

海であることを忘れた波は欠乏感が溢れてきます。自身を波だと勘違いすればするほど欠乏感が溢れてきます。これは当然のことライオンが自分は弱いと勘違いすればストレスは相当なものです、本当は強いことをどこかで覚えていますから。この不足感、欠乏感が波こと人間の欲望、本能の根源です。こん欲望の形状が個人によって全く異なるため個性というものが生まれました。あの人は目立ちたがりや、あの人は見栄っ張り、あの人はマイペース、あの人は恥ずかしがり屋、、、などなどです。これらは全て不足感、欠乏感が変異したものです。

本能を昇華する

この本能を無かったことにする、この本能を抑えていくのがこれまでの宗教の多くのです。キリスト教では十戒、仏教では八正道、断食や、禁酒などです。ですが現在の資本主義経済全盛の時代においてこれらのシステムは合わなくなってきました。そこからは欲を肯定していくような大乗仏教的な思想が広く拡散しています。ですがこの欲を肯定しながらも苦しみをなくしていくという大乗仏教的システムもなかなか上手くいっていません。どのような状況であっても自我は必ずその中から抜け道を探し出し延命措置に成功するからです。欲望を無心になって見つめそこから悟りに入るか。欲望をきっかけにして所作に入りそこから無心に入る。こういった本能の昇華が必要です。

欲望を無心になって見つめる

エックハルトトールはこの欲望を無心になって観察しなさい、欲望、思考が起こったらそれを冷静に見つめそこから悟りに入りなさいと説きます。思考、欲望を観察する意識そのものでありなさいと説きます。思考が起こると同時に海、全存在、大いなる一つになってしまうということです。このアイデアの素晴らしさは自我が出しゃばることで意識になれるということです。悟りに自我を逆に利用するということ。思考の湧き上がりこそを無心、無我、大いなる一つに戻るきっかけにしてしまうということです。

海であることを忘れた波は依存傾向にある

自分自身を弱いと感じる波は何かに依存したがる

広大無辺な海が自らを波である分離した存在からこの波物語はスタートします。広大無辺な海であったことを微かに覚えているため波は常に自身を弱い存在と勘違いします。そのため波は何かにすがりたい、何かに依存したい、何かに頼りたいという欲求が強く湧き出ててくるようになります。これは子供よりも自我が完成した大人の方がより強く依存傾向にあります。そのため大人は子供に向かって「このままではどこにも就職できないよ」とどこかに依存しなくては食べていけないことがデフォルトのような発言をします。そして他の大人も同じような意見であることからそれが真実であるとさらに錯覚を強めていくのです。

何かに依存しても苦しみは解消しない

自我が完成し自身を弱い存在、何もできない存在と錯覚した人間は何かしらに依存して生きていくことになります。それは会社だったり、親だったり、国などの大きなな組織、もしくはパートナーです。依存が成功し表面的には平和が訪れますが自我はさらなる不足感を湧き出し続けますからその解消方法を探し回ることになります。それはギャンブルだったり、お酒だったり、子供だったり、エンタメです。何かに依存することで弱さを感じることを避けれても不足感が湧き出ることを抑えることはできません、それは自身が海だったことを波は覚えておりゆえに何に頼っても本当の強さを手に入れることはできないからです。二元の世界で対象を手に入れて感じる強さは全てマヤカシです。総理大臣の妻になったとしてもこの不足感が消えることが絶対にないのです。

依存すれば依存先の顔色を伺わなくてはならないという第二の苦しみにシフトするだけ

会社に依存すれば会社の顔色を伺い、結婚相手に依存すれば相手の顔色を伺います。クライアントに依存すればクライアントの顔色を伺うことになります。こうして弱さ克服のために手に入れた依存先によって次の苦しみが湧き上がっていきます。ひたすらに苦しみが変容してシフトしていくだけです。これが人間ゲーム、波物語です。重要なことは自我から湧き上がる不足感、恐怖心、欠乏感、退屈感を対象を見つけてそこで解決しようとするのではなくこのメカニズムを理解することで波から海にシフトすることです。自身が海であったことを思い出すことです。それは決して難しいことではなく掃除に集中することで無心になる、仕事に集中することで無心になる、読書に集中することで無心になり、思考である自我を抜け落としていきます。体の感覚に意識を集中することで思考が入り込む余地を無くしその場で海、全存在、神にシフトしてしまうことです。人間はいつどこでもどんな状況でも実は無我になれます。それが本当の強さ、安堵、平和、歓喜です。そして1日のほとんどの時間をこの状態で過ごせた時にこのメカニズムが腹落ちします。波は幻想でこの世には海しかない。つまり強さしかないということを。強さが弱さを演じているだけです。

海であることを忘れた波は評判を気にする

他人(波)にどう思われているかで自身の幸福度を決める

周りから「あの人は凄い会社に入ったね」、「綺麗な彼女を持っているね」「凄い家に住んでいるね」これらの評価をされることで、、このな評価を受けているならば自身(波)は幸福なんだろうと結論づけます。逆に「自分が入った会社はダメな会社らしい」「評判が悪い人をパートナーにしてしまった」「自分の趣味はセンスが悪いらしい」と周囲から低い評価を受けていると、、ということは自分の幸福度は低いと結論づけます。自我は他人との比較で自身の幸福度を決めるのです。これはなぜかと言えば圧倒的に不幸だからです。不幸だから周囲に言われて幸福か不幸かを自身で決めつけているのです。圧倒的に幸福であれば周囲に何を言われても自身の幸福度が変化するわけがないのです。不幸の中でどのぐらい不幸かの基準を作っているだけなのです。自分自身が海であることを忘れ波だと勘違いしている時点で常に不足感、欠乏感が湧いてきますから基本は不幸です。このメカニズムを理解しないと不幸同士でランキングをしてお互いを縛りあっているという地獄絵図が始まります。

インスタグラムで周囲から高評価をどれだけ受けれるかを気にする

インスタグラムなどSNSにハマっている人は周囲からどのような評価を受けるかを気にします。周囲からいいね!がたくさんつけばどうやら自分は充実しているらしいと判断し、いいね!が少なければ最近の自分は充実していないなと判断します。海であることを忘れた波は欠乏感、不足感が常に溢れてきますから海であった時の満足感、安心、安堵の代替品として周囲から評価を餌にしようとするのです。ですがこれらの餌は一瞬で消えてなくなりますからまた次の日も人の評価を取りに行くのです。海の安心、安堵、歓喜の代替品を延々と求め続けるのが波の誤解、間違い、原罪(的を外す)です。

SNSを楽しむべきではないのか

ではSNS流行るべきないのか?そうではありません。SNSも遊びの一つですから嫌悪するべきではありません。ですがなぜ人がSNSにハマるのかというメカニズムを理解してその上でやるならば問題はないです。SNS、友人付き合いにおいて人の評価を得ようとするメカニズムを理解せずに延々とそれに興じても常に虚しさが残るのはそれらが海(全存在)の代替品であること、そしてこの代替品は代替品ゆえに海(全存在)の穴埋めにはなっていないことを理解することです。ですが周囲から評価された時に一瞬の満足感、周囲から称賛された時の一瞬の安堵感、、、これらは本物です。目的(対象)を手にした時(波)に一瞬自我が消えてなくなります。この瞬間の安堵は本物です。自我が消え一瞬海(全存在)に戻ります。ですがこの一瞬をひたすらに追いかけても虚しいし疲れます。この一瞬で得た海(全存在)の安堵、歓喜、至福を延々とするための理解が重要になります。

身体で感じると思考は共存できない

書道や茶道は究極のワンネス体験

人間が体全身を使って何かを感じる時、思考はそこに入り込むことはできません。お茶を飲む、食事をする、筆を走らせる、、スポーツをする、、、身体で感じきている時思考は外にいます。思考が存在していないということは「自分はこの心身である」という自我も欠落しています。この時人は無我になっています。無我だけがあります。至高、完璧、平和だけがあります。膝が壊れても走ることを辞められない、、これは走ることで無我を体験している証拠です。

思考ではなく感じることを優先してみる

サバイバルするために人は思考をやたらと使いたがりますが、思考を使えば使うほどに自我が強化されて不足感、欠乏感はより湧き出してきます。そうではなく感じることを優先する、身体で感じることを優先していきますとそのまま無我に入れます。究極の至福、安心、安堵、歓喜が現れます。スポーツをするとストレス発散になるのは体が感じることを意図的に行うことで思考を排除し無我に入っている証拠です。この感覚を日常生活に応用させていきます。

所作に入り込む時自分は存在できない

書道や茶道など所作に入り込む時、思考は完全に停止していますから同時にこの心身は自分だという自我の動きも停止しています。するとその所作を行なっているのは人間ではなく全存在ということになります。体で感じて所作を行い始めた瞬間、そこに自我はいませんから全体がそれを行なっているのです。思考を使わずに感覚でこれを行うということは全体を引き起こすテクニックです。波が書道に入り込む時に自分を波と思い込む自我ありません。周囲から見れば波が書道を行なっているように見えているだけで波に見える海が書道を行なっています。

大人の思考は子供の思考よりも優れているのか

波であるという分離意識の究極が大人

人間社会での大人とは自分の心身をしっかりと認め、この心身を自分自身で面倒見れる者を言います。他人に頼らず、親を頼らずに生きていける状態を指します。独立した人間同士のルールをしっかりと覚え自分の面倒をみれる状態です。自分と他人の境界線をはっきりとさせ周囲に迷惑をかけずに自身が生きていくための金銭を取得していきます。自我が確立した状態とも言えます。この状態は子供に比べ生存能力に優れていますから生存能力という意味では大人の思考は子供の思考よりも優れていると言えるでしょう。ですがこれは同時に分離意識が究極の状態でもあります、つまり自分が海であることを完全に忘れた波の状態です。欠乏感、不足感も最大値になります。

子供は大人よりも生存能力は劣るが分離意識が低い分不足感、欠乏感も低い

子供は大人に比べて知識が少ない分生存能力は低くなります。狩の方法、栽培の方法を多く知っているのは大人です。ですが知識が多い分大人ははっきりと自身を他者とは別個の存在であることと錯覚しています。思考がなければ自他の分離は理解できません。子供は思考が少ない分、分離意識も低いため生存能力は低いがその代わり欠乏感、不足感も低いということになります。子供時代から宗教やスピに興味を持つ子供が少ないのは不足感、欠乏感が低いからです。大人になると分離意識が進み、根拠のない不安、渇望、欠乏を感じます。この苦しみをいかに解消すればいいか分からずスピ、宗教に傾倒するのです。

大人は不足感、欠乏感を知識、思考を使って埋め続けようとする

大人は不足感、欠乏感を知識、思考をフル活用してなんとか埋めようとします。家を買ったり、家族を増やしたり、買い物をしたり、町内会の会長をしたり、旅行に頻繁に行ったりです。ですがこのほとんどが表層の解決にしか至らずそのため次から次へとタスクが増えてくるのです。そしてもうこれ以上タスクを増やすことはできないと諦めたときに、実は何もしなくてもそれほど欠乏感は変わらないことに気づきます。タスクをこなし続けている時だけは一時的に欠乏感を忘れていただけなのです。