欠乏感

人間関係のコツ、無我になる

人間関係とは自我と自我の交流

人間関係とは自我と自我の交流です、これが一般的です。自我と自我の交流、これを釈迦は地獄界、餓鬼界、畜生界、、などと説いて人間とは苦と説明しました。自我とは不足感、孤独感、欠乏感製造機です。この自我同士が交流すればどうなるか?交流を通じてお互いの不足感を補おうとします。つまりそこには利害がベースになるのです。人間関係は疲れる、これは当たり前のことです。自身の不足感を補うための人間関係ですからそこは苦しみの世界です。

その場で無我になれる人は人間関係が楽になる

無心、無我、無思考、完全燃焼、、、、行動でその状態になれる人は、、人間関係を使って不足感を埋めるという欲望が減ります。無心になって何かに取り組める人は、人間に頼る必要がなくなっていきます。そこには損得が発生しないのです。あえて言えばいかに無心に入るか、完全燃焼できるかの情報交流だけが楽しみになります。自我と自我の交流とは利用しあい、損得、孤独感の埋めあい、これがどこまで行っても土台になります。

年齢を重ねるほどに無心、完全燃焼に入る感覚を掴む

自我を大きくしていけば人間関係は地獄界、餓鬼畜生界のままです。自我を小さくしていく方法を学んでいけば人間関係は悟り仲間になります。いかに無心、無我、完全燃焼(自我)になれるかをコミュニケーションの基本にしていきます。自我の影響とは孤独感全開です。無我を知れば孤独感も減っていきますから人間に対する渇望も減っていきます。

夢への没入はこの夢物語の醍醐味

苦しんでいる人は神制作映画を堪能している

これは神の見る夢です、一つのエネルギーが見る夢です。この夢は主人公(人間)である私が神であることを忘れることが最重要になります。せっかく夢を見ているのに神であることを忘れていなければ台無しです。映画を見るときに主人公の友人だったら映画にのめり込めません。映画とは作り物と分かっていてものめりこめるから面白いのです。ということで自身を神であるということを忘れ去った私は大変孤独、不足感全開、欠乏感全開になっていきます。この世の不幸を全部背負った状態になります。これは自身が神であることを完璧に忘れた状態のことです。知識を得れば得るほどにこの見える世界が夢ではなく現実であるかのように錯覚できます。つまり分離感覚全開、孤独感覚全開です。この状態に陥ることができた人はこの夢、映画に没入できている証拠なのです。優秀な人です。

苦しんでいる人は正しい方向に全力で走れている

この夢物語はこれが夢ではなく現実だと信じれば信じるほどに苦しめるようになっています。出てくる登場人物は全て脇役ですがそれが本物だと信じれば信じるほど苦しめるようになっています。つまり錯覚、洗脳が進めば進むほどに苦しめるようになっているのです。本人が本気になって欠乏感、不足感、孤独感を解消しようとすればするほどに知識を増やし、経験を増やしていくことでこれが夢であることを忘れていきます。自身がちっぽけばこの人間であるという錯覚が強化されていきます。それを共有する脇役との関係も強化されていきます。

どこかで気づく、無心、無思考、無我の状態が気持ちいい

しかしどこかで気付いてしまいます。自分の幸福を願って全力で生きてきたが、、その自分が居ないときに歓喜が襲ってくることを、自分を忘れて何かに没頭しているときに平和が襲ってくる、自分を忘れて人助けをしているときに安堵が襲ってくる。おかしい、、自分が居ないと至福になる。このカラクリが突如理解できる瞬間がきます。1日の中でどれだけ自分を忘れることができるか、、ここが至福のコツです。無我、無心、完全燃焼、無思考、、、この夢の中では自分がいない時は至福、自分全開、思考全開は苦悩、、なぜならば神が苦しむために作ったのが人間です、その人間になり切っていなければ苦悩を味わえないのです。人間(自分)でない状態はいつでも神(至福、歓喜、安堵)です。気付くと出てくる言葉「愛」しかなかった、、これは真実です。愛の中で無理くり苦痛体験をしているのが人間(自我)です。

都会とは何か?

人間の欲望を叶えてくれる場所

いつの時代も若者が目指すのは都会です、都会とは人間の欲望を叶えてくれる可能性を感じさせてくれる場所です。多種多様な仕事、多種多様な人々、多種多様な生き方、多種多様な遊びを可能にしてくれる場所です。一方でこれは夢です、神が見る夢です。神が人間扮する主人公を演じる夢です。それゆえ人間は欲求不満を抱え自身の欲求を満たしてくれるだろう場所を目指します、それが都会です。都会は確かに若者の欲求を満たしてくれる要素はあります、あらゆる可能性を提案してくれます。ですがここでいかに欲求、不平不満を満たしても満足することはありません。目の前の欲求を満たしても直ぐに次の欲求が襲ってきます。それは神が人間に扮しているからです、人間の狭さ、弱さ、小ささに神は辟易しています。これが人間の欲望のメカニズムです。

都会であらゆる欲望を叶えたら

一方、都会はあらゆる欲望を積極的に叶えれる場所でもあります。地位名誉、仕事に異性、あらゆる欲望を叶えることができる場所であることに間違いはありません。ということは逆に言えばあらゆる欲望を叶えても人間は至福に至れないことを体験できる場所でもあります。あらゆる可能性を達成できるということはその時の人間がどのような感情に至れるかを体験できるのです。これは釈迦が王様から山に籠ったことに近い状況です。釈迦とは一国の王であることに辟易しそこから悟りに入りました。都会は釈迦の境地に至るのに近い状況を作れます。

欲望を叶えた後に分かること

神が人間に扮している限り欲望に限りはありません。神は神に戻る以外に欲求不満が癒ることはありません。神が人間に扮していればあらゆる不足感、欠乏感、孤独感、欲求不満が襲っていきます。都会とはこの欲求不満に正々堂々と向き合える人が集まる場所とも言えるでしょう。勿論それも夢ですが。欲望を否定して無いものにするよりも欲望を欲望と捉え満たしていくことで無限地獄の仕組みに気づきそこから夢から覚めるのも一つです。釈迦はそれを行いました。

神頼みが無駄に終わる理由

誰が神頼みするのか?

いざとなった時の神頼み、ピンチの時の神頼み、、では神頼みするのは誰か?それは人間扮する神です。人間になり切っている神が神に頼みごとをします。これは滑稽な行為です。なぜ神が神にお願いすることがあるのでしょうか?神が人間になり切っているからこそ欲求不満、不平不満があるのであってそこを解決しなければこの問題は解決しません。神が自身を人間であると信じているからこそ不平不満が湧くのであってこに不平不満を神に頼んで叶うのならば意味不明です。そしてもしもこれが叶ったところで不平不満は延々に続きます、神が人間であると勘違いしている限りは。

頼みも願いも見当違い

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って夢物語を送っています。この夢物語は神の不平不満が爆発します、神が人間という狭苦しい存在であると勘違いしているのでそれは当然です。その人間活動中の神が不平不満の解決を神に頼ること、これが神頼みです。意味不明です。神がわざわざ人間になって不平不満体験をしているのにその解決を神に頼るというこのジョーク。神社でこの事実を公言したら命はないでしょう。

パワースポットとは何か?

この夢の中ではパワースポットと呼ばれる場所が登場します。その場所に行けば幸運が訪れる、開運する、ラッキーが味方する、、、まー色々あります。そしてこの夢の中ではそれも起こるでしょう。夢の中ではあらゆることが起きます。ですがここでも厳しいことを言うならばそれによっていかに目的が叶っても夢が叶っても不足感が無くなることはありません。欠乏感が無くなることはないのです。なぜならば神が人間に扮してこの夢を生きている限り無限大の不足感が湧いてくるからです。そのことを理解するためのパワースポットならば大歓迎です。

これが夢なのは分かった、だからどうすればいい?

夢だろうと事実だろうと生きていかなくてはならない、、

これが夢なのはわかりました、ですがだからといって今後どうすればいいのか?夢の中かもしれないが、、生きていかなくてはならないという事実は何も変わらない。ということになります。不足感、欠乏感が続くのも同じではないか、ということです。人間の悩みの9割は人間関係だと言われています、そこにはしっかりとした独立した人間が居るという大前提で人間関係が行われるわけですが実はその人間は夢の登場人物に過ぎません。ということは主人公である私がいかに相手との関係に努力をしたとしてもその努力がどのぐらい報われるかは全部夢を見ている張本人(大いなる一つ)が決めています。そこの人間としての努力が及ぶわけがありません。つまり人間関係が上手く行くかいかないかは全部神が決めているということです。この事実だけでも人間関係を上手くいかせようとする気持ちは半減するはずです。

生きて行くのは事実だが悩みは確実に減る

なぜ自分のことを分かってもらえないのか?なぜ自分の努力を見てくれないのか?なぜ自分の配慮を感じてもらえないのだろうか?これらの悩みは「これが夢だ」という確信で全部ぶっ飛びます。夢の中での相手の行動は夢を見ている存在が全て決めているからです。その存在は本当の方の自分です。本当の方の自分が決めた決断を、とりあえずの自分(人間)が攻めても仕方がないのです。悩みっていうのはどこまでいっても自分(人間)の思い通りにならない、、ということですから、、、実は本当の自分が全部思い通りの決めているのならばこの悩みはぶっ飛ぶのです。

それでも残った目標、悩み解決には無心になって取り組む

これが実は夢だったという事実を目の前にすると、多くの悩みはぶっ飛びます。ですがそれでも不足感、欠乏感、孤独感は湧き続けるでしょう。この感情に対しどうするか、、、その目標達成、悩み解決になって無心になって取り組むのです。花道のように、茶道のように、武道のように全部をルーティンの所作、練習によってそこから無心、無思考、無我に入って行くのです。その目標達成のために歓喜、平和、安堵に入って行くのです。

夢の中のこの主人公こそが混沌と破壊の原因

まさか主人公が混沌を作り出しているとは?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間という主人公(私)を作り五感を使ってバーチャルリアリティー、リアルドリームを作りました。さらにそこに感情、思考を加えてよりリアルな夢の世界を構築したのです。神が主人公ですからこの人間という役柄は大変ストレスがかかることになります。性格には不足感、欠落感ということになります。神と人間のこのギャップ、神が人間に成り切ることで生まれる違和感こそがこの人生を覆い尽くすストレスになります。なんとかしてこのギャップを埋めたいと動き回るこの喜劇こそが人生と呼ばれるものです。

釈迦は王様で全てを手に入れたのち、山に籠った

釈迦はインドのある地域の王様でした、王様ですから朝から晩まで遊べ踊れの生活、何の不自由のない生活をしたのち人間とは何なのか?という謎を解くべく山に篭ったのです。全部を手に入れた状態でなぜさらに次を求めるのか?これが人間活動の答えです。人間活動とは不足感を感じ続けるものなのです。一国の王様が突然国から脱出してしまうわけですから周囲はたまったものではありません。この夢の主人公とはそういうものなのです。主人公がこの不足感、欠乏感を埋めようとすれば周囲は混沌、破壊につながります。ですが主人公はこの不足感を見て見ぬふりはできませんから仕方ないのです。この夢において悪者は誰もいません。

人間ゲームは長い、、、

人生はあっという間、、気付けばもう終盤、、これも事実でしょう。ですがこの不足感湧き出しゲームの構造を理解してしまうと安泰がないことは分かります。静かな老後がないことも分かります。そう思えば長い、あまりにも長いのがこの人生です。神がこの人間になり切っているだけですから意識は常に鋭敏です、辛い、しんどい、悲しい、孤独、嫉妬、、全部死ぬまで感じ続けることになります。私は30歳ぐらいの時に辛さや、苦しさに対し見て見ぬふりをするのを辞めて見ました。周囲がそれを我慢しているのだから自分もそれを受け入れようを辞めました。徹底的にこの苦痛を直視することに決めました。このブログもその活動の一つです。

神は夢の中で有名になろうとする

神がなぜ有名になる必要があるのか?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間を創造し五感を与えこの夢を完成させます。人間に成り切った神は人間の五感を使いこのバーチャルショウを形成します。人間に成り切った神はこの夢の中で有名人になろうとします。芸能人、タレント、著名人などはこの主人公が憧れる一つです。本来神であるものがなぜ人間に成り切ると有名人に憧れるのか?という話です。それは本来神だからこそこのちっぽけな存在、弱い存在ではないことを知っているからです。存在感で言えばこの夢の創造主であるわけでそこを動く人間(主人公)のレベルではないのです。だからこそせめて周囲から注目を集めたい、そう思うわけです。

芸能人になってもタレントになっても人間という枠からは出れない

もしも主人公(人間)が有名人、タレントになって周囲から注目を集めれるようになったとしてもそれは人間としての人気であって神に戻るわけではありません。よってこの不足感、欠乏感がなくなることはありません。本来であればこの夢の創造主である神が注目を集めるぐらいのことで満足するわけがないのです。タレントランキングで一位になっても神には到底及びません。自分が人間であるという錯覚を外さない限りこの苦悩は延々と続くのです。

神ってる、、

神ってるという言葉はYahooニュースでも稀に見ますがこの意味が実は深いものがあります。人間が異次元の活躍をした時にこの神ってるという言葉で称したりしますがまさにその通り、異次元に突入する人間は神に戻ります。思考を抜け落とす、何かに集中する、一所懸命になる、、要は自身の意識を人間から脱却できるとその時に神に戻ります。夢から一時的に覚めます。物事に集中できる方々が芸能界などに興味を持たなくなるのは自身で神に戻る感覚を掴んでいるからです。

神は夢の中で両親を作るがこれも夢

最重要脇役ですら夢の登場人物に過ぎない

これは夢です、神が見る夢です、神が人間(私)を主人公にして人間に成り切る夢です。人間の五感を利用してバーチャルリアリティーゲームを構築します。目がなければ見える物体は存在せず、耳がなければこの世に音楽は存在しません、触覚がなければ硬質の石も存在しません。つまり五感の存在=世界の多様化です。そこに思考、感情を加えることでバーチャルリアリティーショーに多様性を加えました。思考が変わるとリアルにこのバーチャル世界も変容します。神が作った夢、ゲームは複雑怪奇、多様性の鬼です。主人公として生まれてきた時に両親が存在しますがこれも夢の中での登場人物に過ぎません。両親という個別の独立した実在はいないのです、これは夢です。実在しているように間違いなく見えますが夢の中でという条件付けです。

両親絶対説の誤り

両親すらもこの夢の登場人物に過ぎません、登場人物ですからそこには個別性や独立性などあるわけがありません。夢の中の登場人物がもしも実在しているならばあなたが毎日みる夢にその実在は毎回現れなくてはなりません、ですがそのようなことは絶対にありません。これは神がみる夢ですからここの出てくる登場人物に実在はないのです、体に触れようが、話しかけれようが、声を聞こえようが、、、です。どんなに愛情深く、理解力のある両親に恵まれてもいずれその場所を離れたくなるのは本当のリアリティーがないからです。

溺愛してくれる両親がいて溺愛する子供に恵まれても、、、

この夢は神が見る夢であり神が主人公である人間になりきって人間活動をする夢です。神が人間になった時点で不足感全開、欠乏感全開です。だからこそ溺愛してくれる両親がいても、溺愛する子供たちに恵まれてもそれでもこの不足感は無くならないのです。妻からもっと理解されたい、子供たちからもっと評価されたい、会社でもっと出世したい、、愛人も欲しい、、、こんな調子で不足感は変幻自在に感情として出現します。

神が作ったこの夢の中で主人公(私)は他の登場人物の心配不要

スライムの心配をする勇者はいない

ドラゴンクエストで昨日退治したスライムを心配するプレイヤーはいません。マリオカートで二位に蹴落としてしまったクッパを心配をするプレイヤーはいません。ポケモンで退治したモンスターを思いやるプレイヤーはいません。もう分かりましたよね、この夢物語、現実社会で主人公である私が攻撃してしまったので相手のことを何ヶ月も心配する必要は一切ないのです。残念ながら主人公以外に自由意志や隠れた感情はありません。とてつもなく傷ついたと言ってきたとしてもそれはそいう表現が生まれただけです。クッパが本当に傷ついたとマリオにゲームで伝えてきてもその状況は事実でも本当ではありません、ゲーム上そうなっただけです。ですから我々は他人の心配は今後一切する必要がありません。そんなことよりも私のこの不足感、欠乏感、孤独感を埋めることだけを考えればいいのです。

スライムは悪意があって勇者を攻撃したのではない

逆に言えばあなたがどんなに酷い扱いを他人から受けたとしてもそれはあくまで夢、ゲームの中であってそこに悪意はありません。信じられないかもしれませんがゲームと同じですからそうなります。勿論その相手に真意を尋ね、なぜこのような扱いをしたのか?と聞き倒せば何かしらの感情を吐露するでしょう、相手は。ですがこれもゲーム上そう言っているだけであってそこには実は何もないのです、夢ですから。多くの方はなぜ?このような扱いを?なぜあいつはこんな性格なのか?なぜ?と三日三晩考えてしまうかもしれませんがそれはスライムに攻撃した理由を聞き続けるのと同じぐらい愚かなことです。

スライムが嫌いならば遠ざけるそれだけ

勘違いをしてはいけないのはだからと言って他人からの攻撃を無抵抗で受けろということでは断じてありません。ガンガン抵抗しやり返せばいいのです。重要なことは相手のその攻撃に理由がないということです、これは夢です。夢での行動に理由はないのです。夢の創造主が勝手にそうしただけです。人間のような高度な頭脳を持った存在であって相手はスライムではない、、このように思う人もいるかもしれません。ですがこれは神が作った夢です、神のコントロールなしにこの夢が進展するはずがないのです。神の許可なく動ける登場人物はいません。

神は夢の中で天使や守護霊を創造しこの夢をエキサイティングにする

天使や守護霊は本当にいるのか?論争

これは夢です、神が作った夢です。神はこの夢の中に主人公(人間)を作りその人間に成り切ることでこの夢をスタートします。ただし神は神ですから人間に成り切っても本当は神です、そのため人間に成り切っている期間は不足感が滝のように流れてきます。欠乏感が嵐のように吹いてきます。これが人間という生き物の人生が苦と呼ばれる所以です。神の人間活動は苦しいので神はあらゆる欲望を叶えていきます、特に若い時期は現実的欲望を叶えていきます。ファッション、スポーツ、恋愛、受験、就職、、、と目に見える世界で欲望を叶えていくことでこの不足感を埋めようとしていきます。これらの欲望を叶えても不足感が埋まらないと気づいた人間が次に精神的欲求を叶えていきます、信頼、人格、承認欲求、好きなことで食べるなどです。それでも不足感が埋まらないと感じた人間は次に異次元のことに興味を持つのです、守護霊や、天使、などなど。

それらが居るという情報を心底信じた時にそれが現れる場合もある

これは神が作った夢です、夢ですから何が登場してもなんら不思議ではありません。天使や悪魔、守護霊に、天狗、、と異次元の存在を人間の目に見える形で表現することもあるかもしれません。ですがこれらも結局は神の夢の創造物に過ぎずこれらを信じても欠乏感が埋まることはないのです。何度も説明しますが神が人間に成り切っているからこその不足感を天使や守護霊、天狗や竜神が埋めてくれることはないのです。この不足感を埋めることができるとしたらそれは神が自身が神であったことを悟ることです。これしかありません。

高い壺、高い水晶、高い厄除

壺、パワーストーン、水晶、厄除、、、、これらの高価なアイテムが効果がないとは言いません。もしも自身がそれらに精通すれば効果を出すことは期待できます。ですがこの効果でいかに何かを達成したとしてもそれで人間の不足感が満たされることはないのです。それによって人気が出ても、それによって収入が増えても、それによって恋人ができても、、、全部これらは一時的な欲求達成でありそれでも人間からは不足感が吹き出てきます。不足感を生み出すメカニズムこれを理解することなく延々とお金を使って解決を求めれば無限地獄が続きます。