映画

作り、イメージし、感じる

この現象界は

この現象界はたった一つのエネルギーの変幻自在の活動が先ずあります、、これはたった一つであるゆえに、、、独立分離した存在はこの中では存在できません、、、もしも可能とするならば、、、この世界の中でイメージをするしかない、、これを可能にしたのが「言葉」です。。音の組み合わせを使って、、、この世界の中に「独立分離した風」の作品を作っていきました。この見かけ上の私も全く同じやり方です。これでこの世界には私が居て、親がいて、兄弟がいて、家があって、、学校があってと、、、分離物体が急増していくわけです。

本当は今も一つ

本当は今も完全に一つのエネルギー場です、、、この中で言葉を使いイメージ活動をしています、神が、、神が言葉が作ったイメージをこの現象界に重ね合わせ、、、独立分離した世界にやはり独立分離した私が居るというイメージ活動をしているのです。。。このイメージ活動が上手くいきますと、、、孤独感すら湧いてくるようになります、、、完全な成功、、イメージがしっかりとできている、、、私が孤独だ、、、はイメージ力の賜物なのです。。。なぜならばそんな存在は、、、イメージ上のものです、、、イメージ上の私が、、、孤独感を味わう、、、凄いことです。映画を観て泣くのと全く同じ、、、これもイメージの世界です。

神の感じるという力

このストーリーは神の完全なるイメージの力です、、、、言葉を生み出し、、イメージを想像し、、この現象界を分断し(イメージ)、、その中のやはりイメージである「私」を登場させ、、全経験をこの「私」が所有し、、時間のある世界(イメージ)の中で生きている、、、時間も言葉、、これもイメージです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、、時間はこの世界には存在していません。神はたった一つのこの現象界に独立分離した「私物語」を作り上げ、、、感じています。

朝起きると個人ではもうない

ある日突然

これが夢であるという気づきが起きますと、、、朝目を覚ました時に、、、個人ではない自分が居るのに気づきます、、通常は目覚めと同時にこの体の中の個人であるという感覚が戻ってきます(湧く)、、ですが夢であることに腹落ちしますと、、朝個人ではない自分で居るのです。。。体との同化の終焉です、、、この体の中の住人としての私ではなく、、この夢の傍観者としての私の誕生です、、この状態は静寂に包まれ、、全く焦る今までの自分が居なくなります、、何かを成し遂げたり、何かを追ったり、、何かアクションを取らなくてはならない自分がもうそこには居ないのです。

焦らない自分

焦っているのが当たり前だった自分が、、焦らない自分に変わります、、もうこの体の中の自分ではありませんからただの傍観者としての自分がただこの体の衝動を感じるだけです、、勿論、シャワーを浴びる、食事をする、、仕事の準備をするなど、、、衝動は起きます、、ですがこれは焦りや責任ではもはやないのです、、、衝動に従うだけです。

焦りたくても焦れない

これが夢であると分かってしまって逆にどうしたら焦ることが出来るのでしょうか?これが映画だと分かってしまってどうやって深刻に観ることができるのか?という話です。最初はそうはいってもこの体を生かせていかなくてはならないのだから、、いざとなったら焦るのでは??と疑問が湧きましたが、どうやら違う、、そんな生優しいものじゃない。。。これが本当の理解、パラダイムシフトです。

真我生まれ真我育ち見える物全部真我

我々は真我から一度も離れたことがなかった

我々は真我から一度たりとも離れたことがありません、、そんなはずは????こんなに苦しいのに、、なぜ???真我から離れていないのならば、、なぜ苦しい???そうですよね、信じられないですよね、、、ですが、、本当なのです、、真我から一切離れていなくても、、事実はがっつりそうなのです。真我がこの苦しくなるような動きを起こしたのです、、それが自我です、、、これは真我が生み出した創造物です、、この事実に気づくことが起きた時、この苦しには解消されます。

苦しみを作り出したのは真我

一切何も問題がないのは苦しみを作り出したのは真我そのものであること、自分でこの苦しみを作り出したのですから、、何も誰も悪くない、、悪いと言えば真我になりますが、、、真我も自由意志でこれを作ったのではなく、、ただそれが起こった、、という事実です。良い行い、悪い行い、、全部真我からただ湧き起こります、、良い悪いという判断すらも真我から湧き起こる、、、どこまでいっても真我劇場です。

真我総指揮自我物語

この世界は真我総指揮自我物語です、、ですから喜怒哀楽の全ては真我が作り出しています、自我があってこの物語があって喜怒哀楽がある、、、この全てを作り出しているのが真我です。。今私は映画を観て楽しくなった、、この経験の全てを作り出したのが真我です、、、神です、、そしてこの活動が起こるスペース、これも真我です、、もしくは空、絶対などと言います。だからなんだ???この疑問すらも今真我から生まれました。だったらもう深刻に考えなくていいな、、この感想も今真我から生まれました。

思考が過去と未来に向けて

思考とは過去のこと、未来のために起こる

思考というものを注意深く観察してみてください、、全思考は過去についての内容か未来についての内容になります、、、過去、未来の存在を全肯定した内容になっています、、将来のためにこうしなくちゃ、あの時あれをしなければ良かった、、、ばかり、、、本当は今しか存在しないにも関わらず、、なぜか過去、未来についてのメッセージなのです、、、これによって我々の意識が過去、未来に焦点が合います、今に焦点が合わなくなるのです、結果静寂、平和が離れます。

思考との同一化は、、過去、未来への同一化

思考の内容が過去、未来に向けてであることから、、、ここに意識がフォーカスされますと、、、今に居れなくなります、、今この瞬間の森羅万象の現れに意識が向かなくなります。。。。本当は今しか起きておらず、しかしなかが思考に飲み込まれれば、、過去、未来という幻想の中に入り込むのです、、、これが今映画、TVゲームに夢中になっている状態です。過去、未来は本当は存在しないのですから幻想です。

でも今見える世界も幻想ですよね???

そうです、今見えている分離した世界も幻想ではあります、、ですがこの幻想の世界で体感する経験は幻想ではありません、それはリアルです、経験だけは大いなる一つ、根源、神そのものです、、、そこが静寂、至福、平和なのです、、、今ここで思考にふけるということは幻想に意識がフォーカスしていう状態です、、今に居ながら、、幻想に意識がフォーカスされているのです。これが苦しみを生み出します。

幻想はこの現実で十分

画面の世界に夢中になる滑稽さ

この現実は完全なる幻想です、、、我々は現実と呼ばれるこの幻想の世界にどっぷり浸かり生きています、、するとこの幻想の世界は現実的に見えます、、、この幻想の世界に疲れると、、、人は画面の中に吸い込まれていきます、、映画、TV、ゲーム、YOUTUBE、TIKTOKなどなど、、、これらはこの幻想の世界の中でさらに幻想の中に引き込んでくれる道具です。今既に幻想の中に居るにも関わらず、、、さらなる幻想に逃げ場を求めているのです。

この幻想をもっと楽しんでみる

ここがまさに幻想ど真ん中です、、この幻想が最高峰のクオリティー、この幻想が、、究極のサバイバルゲームです、、、なぜここを楽しまないのか???です。。。これを幻想と完全に見抜き、、この幻想を楽しみ尽くすのです。この幻想に後悔は禁物です、、、後悔できる自己は存在しません、、自由意志もないのです、、、本当は。。ゲーム中は勿論自由意志をフル発揮するればいい、、、本当はないけど。。

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分が存在します、、、この体です、、、この体を機能として、、いかにこの幻想ゲーム上で楽しみ尽くすかです、、、宇宙の機能として、、楽しいを追求していきます、、、神としてこの体をフル回転させていく、、楽しいを追求していきます、、こんな役として世の中に貢献したいな、、こんな機能として世の中にサービスを提供したいなーの連続です。自己超越して楽しみます。

影響を与えているという実感

ヤカンに火を入れると沸騰する

我々が自身の自由意志にどっぷりハマってしまう理由は個人の行動の全ては結果に集約されるからです。ヤカンに火を入れれば沸騰する、、、洗濯機をオンにすれば、、洗濯が終わる、、、全部が全部選択には結果が伴うのです、、、だから人間関係にもこれを応用し、、、言動を選択し、、、、関係を構築していると勘違いしています。

はい、、全部神羅万象の現れです

ヤカンに火を入れるのも、、、友人との会話の内容も、、、全部が全部神羅万象の現れです、、、と言ったらどうなるでしょうか????今までの苦悩が全部吹っ飛びます、、、、重さが全部吹っ飛びます、、、ただ同時に功績も吹っ飛びます、、、、全部がダイナマイトでぶっ飛ばされます。。。。そしてその後静寂が続くのです、、、、この静寂こそが、、、、素晴らしい、、、子供の頃に感じていた静寂。。。。

神羅万象の劇場として楽しむ

我々は言語を記憶することが出来るようになることでこの神羅万象に、、、独立分離した存在をたくさん作り上げました、、、、、本当は神羅万象ですからそこに分離は絶対にないにも関わらず、、、間違いなくあるかのように、、、見ることができます、、、、アメージングな才能です、、、、これをそのまま楽しめます、、、、独立分離しているように見える、、、この世界が神羅万象によって動き続けるという大映画をそのまま楽しめるのです。もしかしたらもう深刻にはなれないかもしれませんが、、、もう十分でしょう。

松本人志が映画監督に???

なぜ???

10年ぐらい前に松本人志が映画を作りました、、、大コケしましたが、、、あれは大変重要な活動なのです、、、松本人志ぐらいに有名人になると失敗が許されない、、、全ての活動には大予算が付けられますから、、、、どうしても慎重になっていきます、、、ですが本人からすれば、、、、、売れたのだから好きなことやらせてくれ!!!当然です、、、、そしてそれは大変重要なことなのです、、映画が売れる売れないよりも彼の今まで隠してきたパーソナリティが燃焼したのです、、日の目を得たのです、、、顕現化されたのです、、、ここが重要です。

隠してきた才能が、、、世界を分離させる

隠してきた部分は、、、自身の否定してきた部分です、、、、この部分は見える世界を分断します、分離させます、、分離した投影を作ります、、、その分生き辛くなります、、、この部分を認めてあげて、、癒すのです、、、松本人志は映画自体は大コケしましたが、、、その後見える世界が変わったはずです、、生きている世界が変化したはずです、、再統合されたはずなのです。これが真の目的なのです。

やり方は自由

なにも才能を人に披露しなくてもいいのです、、なにも隠れた性格を人に披露しなくていいのです、、、これは自己完結でいいのです、、、自分が自分を絶対肯定していく作業だからです、、、やり方は何でもいい、、、体を動かしていくことで、、才能を開いていくのも良いでしょう、、、学校に通い、、そこで開くのもありです、、重要なことはその成果ではなく、、、隠してきた自分の部分の顕現化です、、、自身の分離を終わらせ、、、見える世界の分離を終わらせます、、、この事実が腹落ちしますと、、、、我々は変幻自在の世界に居ることに気づきます、、、神羅万象の世界に居るこちが腹落ちします、、、

先ずは「苦しい」を終わらせる

悟りを求める人々の大勘違い

なぜ覚者と質問者との間のコミュニケーションは食い違うケースが多いのか???質問者は自分が幸福のなる方法を聞きたがります、、ですが覚者は、、自分が居ないということ回答し続けます。その回答を聞いて、、自分が居なるための方法を質問者は問いてきます、、覚者はもともと自分が居ないから自分を無くす方法が無いと答えます。質問者はでも自分が居る感覚は確実にある、、どうすればいいか?と問いてきます、、覚者はどうすることができる自分が居ないと回答します。

これは非常に難解な問答になる

今まで生きてきて、、この体の中の自分が居ない、、、などのメッセージを聞くことは皆無です。総理大臣、国連事務正長ですら、、体の中に自分が居ると信じて疑わないでしょう。だからこそこの世から苦しみを解消することは不可能なのです。つまり大前提の勘違い、、ここに全ての根本理由があるということです。ですがこれを理解するのは至難の技、、なぜならば一歩外のでれば今もその前提で世界は回っています。TVを観ても、小説を読んでも、映画を観ても全部が全部このパターンです。

気づきの意識がこのカラクリに気づくまで続く

このカラクリに気づくのは個人ではありません、個人が居ないということを個人が気づくということは不可能です。マリオにのめり込みすぎてしまった子供がハッとゲームを止める瞬間が悟りです。個人に意識し過ぎてしまいこの世界にのめり込むことに、カラクリを発見し気づき直すことが悟りです。悟りとは気づきの意識の気づきのことです。この気づきが起きますと「苦しい」は消えます、、するとこれからの人生の課題や、人生の目的、、など今まで重要課題がどうでもよくなります。今までくるしかったから色々な課題を見つけては改善していたことに気づくのです。

全体(至福)が怒りを感じる

神が怒りを感じる???

怒りを感じる神(至福)、、怒りを感じる全体(至福)、怒りを感じる空(至福)、、、なんかしっくりきません。それはそうです、なぜ至福が怒りを感じることができるのか????という話です。ですが実際には本当にこの現象が起き続けています。ストーリー上の個人は怒りを感じることは絶対にできません、感じることができるのは気づきの意識(至福)、全体(至福)、神(至福)だけです。そうなりますと至福と怒りを同時に感じることになってしまい、、これはおかしいのです。ですがこれは全然おかしくない、、、、ゲームをやっている際の怒りは楽しんでいます、映画の中での怒りは楽しんでいます、、、そうです、、怒りを至福の中で楽しむことができるのです。

ただのめり込んだだけ

我々の正体は至福ですからこの至福が怒りで手が震えて苦しいというのはおかしいのです。主語が至福なのですから、、、もしもこの至福が怒りにどっぷり浸かることができるとしたら個人に成り切るという憑依をしなくてはなりません。憑依芸レベルののめり込みをした際にだけ、、、怒りに酔うことができます。だから小学生よりも中学、高校、社会人と、、、怒りを押し殺して生きている人が増えるのです。

怒りを感じたら、、、

怒りを感じたら、、、、今この怒りを感じたのは誰か???と問うてみてください、、、それは気づきの意識、全体、神です、、至福です。至福が怒りを感じたんだなーと思っているうちに怒りが消えていきます。なぜならば至福は至福でしかないからです。主語を私から全体(至福)に戻すのです、、、怒りを沸き起こすには「私」の存在がどうしても必要であり、、、ですがこの「私」は捏造された存在ですから事実ではないのです、、だからいつだってどこだって全体、気づきの意識、至福に戻れるのです、、、そっちが本当だからです。

私以外の全ての人間はエージェントスミスになってしまう

周囲の人間関係は全部エージェントスミス

エージェントスミスとは映画マトリックスで主人公NEOを攻撃してくる適役です。彼らの真の目的はNEOを覚醒させないこと、、NEOをNEOの体の中に閉じ込めておくことです。NEOが覚醒に近づけば近づくほどに彼らは束になってそれを阻止しようと企てます。この体の中に「私」が居るというのは全体の大いなる勘違いなのですが、、この勘違いを引き起こす大きな要因が周囲の人間関係です。周囲の人間はこの体に向かって間違いなく話しかけています、この体の中に「私」が居るという前提で話しかけてきます、、すると思わず全体は「私」になり切って話をするわけです。私に成り切る千本ノックが始まります。星一徹ばりの猛練習です。

話かけられると全体から「私」に戻る

我に返るとは面白い言葉で何かに集中してうると我を忘れて物事に打ち込んでいます、この我を忘れるというのが全体に帰っている瞬間です、、ところが人から話しかけられると、、、「私」に瞬時に戻ります。我に返ります。周囲の人間関係はどうしてもこの作業の連続になります。集中して小説を読んでいたら「お客様、ご注文は何にしますか?」で我に返ります。集中して映画を見ている時に「ピンポーン」のチャイムで我に返ります。本当の私は全体なのだという感覚が芽生えてきますと、、「我に返る」のが面倒になります、我に返る苦しさを強烈に感じます、、人間関係こそ苦しさの原因であることを悟ります。

では人間関係から逃げるのか???

では人間関係から逃げるのが正解なのでしょうか??違います、、人間関係をエンタメに変えてしまうのです、人間関係を遊んでしまうということです。周囲の人間はこの体の中に「私」に話しかけるというお遊びをしかけてきていると捉えます。その瞬間私を演じて楽しむのです。人間関係とは所詮3D映像同士の戯れ、蜃気楼同士の遊び、と感じていきます。その関係の良し悪しは絶対幸福、至福とは何も関係がないことを悟るのです。帰る場所は全体です、ここを強烈に意識します。我に返るのではなく全体に返るのです。