感情

一人でいるときの欠如感

一人で居る時襲ってくる欠如感

なぜ人間は一人で居ると欠如感が襲ってくるのでしょうか?一人で居ると苦しさが襲ってくるのでしょうか?このことに真剣に切り込む心理学者も宗教家もあまりいません。こんなに身近で深刻な悩むであるにも関わらずここにメスを入れようとする人がなぜいないのか?ということです。結論を言えばこのポイントこそ真実の理解を起こす最大のチャンスです。ここが自分という存在のトリックを見破るポイントなのです。

人間という最も進化した動物が一人で居ると欠如感が襲ってくる理由

人間はテクノロジーを進化させ他の動物の追随を許さないような文化を築き上げました。便利さという点においては人間のこれまでの歩みは驚くべき進歩です。そんな人間ですが一人で居る時に欠如感が襲ってきます。得体の知れない居心地の悪さが襲ってきます。なぜなのか?自分という存在はこの世界、宇宙の中で独立した存在である、、これが人間の共通認識です。ですがこの共通認識は間違っています、科学者も気づき始めていますがこの世界はたった一つのエネルギーが作り出しており、その中で独立した分離した全く変異した存在は存在出来ないのです。にも関わらず我々人間は宇宙の中で独立した存在であると固く信じています。この誤認識、誤解こそが人間、自分の欠如感を生み出す原因になっています。だからこそ自分と向き合うということが非常に苦しい行為になるのです。

全体から分離していると勘違いを起こせば、、、

全体の中の一部が全体から完全に分離していると勘違いすることであらゆるギャプが生まれ出します。その最も大きな感情が孤独感ではないでしょうか。本来は全体でしかないものがこの極小、最弱な体の中にあると勘違いすれば急激に孤独感に襲われても不思議でありません。孤独感に襲われた個人、自分はこの孤独感から逃げるために必死になって対策をし始めます。友人、家族、会社仲間、町内会、、、とコミュニティーを何十層にも重ねていき解決を図ります。ですがこれらのコミュニティーがあってすらも孤独感を癒すことはできません。それは問題の根本解決になっていないからです。

老人になると楽になる理由

悩むのはいつも若者

自分とは全体から自ら分かれた存在です。分かれたというのは錯覚ですから錯覚を起こし続ける必要があります。それには常にこの体の中に自分が居るという思考が必要になります。この思考が湧いてこないと自分の体の中に自分が居るという錯覚を維持できません。若者はエネルギーが溢れていますからこの思考を取り込むエネルギーも強烈、その分孤独感、分離感、虚無感も強くなっていきます。そしてこの感情を他人事には到底できません。だからこそ若い時期は大いに悩むのです、そこまで悩まなくてもというぐらいに悩みます、それはエネルギーが在るが故です。

不足感を解消しようという衝動も大きくなる

若者が不足感を解消するために学校のガラスを破る、モヤモヤした虚無感を解消するために非行に走る、、これが無くなることはないでしょう。悩む感情も大きければそれを解消しようとするエネルギーも大きくなります、手段選ばず解消に向きます。老人になるとこのような悩みも、そしてそれを解消しようという衝動も少なくなるのは当然なのです。エネルギーがあるということは悩みも行動もエキサイティングになっていきます。

受験勉強、部活動が忙しくなるのはそれを発散させるため

中学生になると部活動が忙しくなったり、受験競争が激化しますがこれって非常に合理的です。エネルギーを生産性のあることで発散させておかないとその分悩み、衝動的な行動をしてしまいます、若者は。国の教育機関がそこを理解してそうしているかは不明ですが実際には受験や部活には発散には最適です。そこから就職活動、婚活、妊活、子育てと、、、エネルギーを発散できるチャンスが年齢別に用意されているのは自分劇場の面白い要素です。

江原さんもビックリ!自分の生存戦略

自分を存続させるためなら死後も操る

自分とは全体から自らを分けた状態のことです。この全体から分かれた自分はこの自分をどうしても存続したという衝動があります。なぜかと言えば全体から分かれた状態は実は不足感、不快感、喪失感の塊になるわけですがこれが自分の感情として起き上がる時にもっと食べたい、もっと安定したい、もっと有名になりたい、もっと人気者になりたい、もっと自分として認められたい、もっと自分を築き上げたいと、、、違う欲望に変換されます。これによって分離という状態を結果永続させることになっていくのです。これは何という皮肉、ブラックジョークです。ということでこの欲求を持たすべく自分は自身の永続を願うようになっていきます。ただしこの体は永続ではないためいずれ死が訪れます、これが自分の消滅になるはずでした。ところがこの自分の思考は諦めません、自分というのは死後も永続できるという思考を持つことに成功したのです。そもそもこの体の中に自分がいるというのも「思考」です。この思考にオプションを加えて死後も永続できるという思考に切り替えました。この思考が肉体の死も全体から湧いてくることで「自分」は次の体を確保します。

江原さんのように思考のエネルギーを見れる人がそれをみると、、、

霊能者と呼ばれる人々は感情や思考など一般人には視覚化できないエネルギーを視覚として見える人々だと思います。この思考「自分エネルギー」を視覚から読み解いて人に伝えているのだと。これには欠点があり死後も自分が永続できるというアイデアを持った自分は必ずこの思考を自分に取り込むようになります。結果輪廻転生が自動的に行われるようになります。この部分に関しては自身もまだ調査中でいずれしっかりと解明したいと思います。

釈迦は言った、良い輪廻転生をしようではなく「解脱しかない」

お釈迦様も全体の表現でしかないので人間という実在ではありません。ですがこの全体の表現(釈迦)は良い輪廻転生をしよう!とは言っていません、「人間が苦から解放されるには解脱しかない」です。この自分劇場を終わらせる以外に苦からの脱却はないと説いています、これは刹那的、逃避的意見に聞こえるかもしれませんが私は真実を突いた優しいメッセージだと思います。もっと頑張ろう、いずれ幸福になれる、夢を持とう、、、というのは自分が大好きなメッセージであり的を外しています。これをイエスキリストは原罪と称しました。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

全体は自分に疲れた時だけ全体に戻る

全体は頻繁に全体に戻っている

自分で居ることは疲れます。自分とは自らを分けると書きますが、これは全体から自らを分けているのです。実際には分けることはできません、全体は一つのエネルギーですから。一つのエネルギーが全体を形成し、その中で諸行無常、様々な形態を表現しています。ということで自分とは全体から分かれているという錯覚(思考)が湧いている状態ということになります。実際に自分活動をしている最中は思考、感情が湧いてくると、、それはこの体、自分の感情であるという思考が同時に湧き、自分というプラットフォームを維持します。これはなかなか骨が折れる仕組みです。そして全体の中から自分として分離し続けている間、全体は狭苦しいこの状況を楽しんでいる一方苦しんでもいます。子供がTVゲームに夢中になっていても2時間ぐらいで力尽きる感覚を想像ください。ということで全体は自分で居ることに頻繁に疲れるためTV,映画、SNS、ネットフリックス、など没頭できること、無心にできることを使って全体に戻ります。その時だけは自分を辞めます。

全体はたまに全体に戻りながら自分を継続する

全体はたまに、もしくは頻繁に全体に戻ることで自分を継続していきます。何かしらの没頭できるアイテムを利用しながら自分を継続します。自分という存在はエキサイティングである一方で大変疲れるのです。とは言え全体はこの自分体験を愛しています、全体が全体のままでは絶対に経験できないことを自分が発見してくれるからです。だからこそ全体は常に自分を大切にしているのです。自分が地獄の苦しみを経験している時ですらも、自分体験を重宝するのです。

自分体験最大の喜びは自分が実は全体だったという気づき

自分体験とはエキサイティングだが疲れるという全体の経験です。この自分体験は喜怒哀楽、七転八倒、あらゆる感情を味わえる全体にとっての最高のエンターテーメントです。映画を5本連続で観ると疲れるようにこの人生ドラマ、自分劇場は楽しいが非常に疲れるわけです。ですがこの映画の最も面白い、最大のクライマックスとは何か?それは自分体験を行なっている全体が実は自分は居ないということに気づくことです。自分はなく全体だけがあったという大オチ、これです。だからこそこのブログは史上最低のネタバラシブログでもあります。勿論このようなブログに興味を持つ人間は既に準備ができているエンディング待ちの人々になります。

自分をやることに疲れた全体が取る行動

分離体験は最高で最低

自分とは自らを分けると書いて字のごとく全体からこの体を引き剥がす行為です。実際には一つのエネルギーしかありませんのでこの体を全体から分離させることは不可能です。とは言え今現在このブログを書いている「私」はこの体の中に居るではないか?こうなります。ですが私が居るというのは思考であってこの思考がこの体の中にあるという証明は絶対にできません。思考もエネルギーと捉えるならばそのエネルギーが体の中で発生したという証明はいまだにできていないはずです。感情も然りです。ではもしもこの体の中に思考も感情もエネルギーとして湧いていないならばどこに湧いているのか?ということです。

もしも体の中に思考も感情もないならば

もしもこの体の中に思考も感情もないならば、、この体の中には自分というものが存在しないことになります。この体の中に自分が居ないならばどこにいるのか?どこにも居ない、もしくは全部に居る、、ということになります。今もこのブログを書いていますが私は今だってこの体の中に居るように感じます。ですがこれが思い込みです。全体が私の体を借りてこのブログを書いているのです。そして出てくる感情、思考は全体が認識しています。書道家はなぜ毎日書を書くのか?花道家はなぜ毎日花を生けるのか?茶道家はなぜ毎日お茶を入れるのか?それは何かに没頭することでこれが自分であるという思考を湧かないようにして全体に戻っているのです。全体に戻ると歓喜、平和が湧いてきます。全体への一時帰還をしているのです。

全体への一時帰還で仕組みを理解する

人は何かに没頭すると全体へ一時帰還できます。この体の中に自分が居るという思考が湧いてこない時、自分はこの世にいません。全体だけがあります。この状態を何度も味わいたくて自分はTV,YOUTUBE,映画、ギャンブル、お酒、恋愛、SNSにハマっていきます。何かに没頭すると思考が湧いてこなくなることを知っている自分はこれを利用します。自分で居ることに疲れた時に自分はこれをやります。本当のことを言えばそれをやるのは自分をやることに疲れた全体です。

最大のタブーに切り込む

この体に自分が居ないならどこに居るのか?

この体の中には自分が居ません。浮かび上がる思考、浮かび上がる感情がこの体の中で発生しているという錯覚、認識があるだけです。この体の中で思考、感情が浮かび上がっているという証拠はどこにあるのか?勿論脳に何かしらの磁気を当てて調べれば思考、感情と脳の関係はデータとして上がるでしょう。ですがそれによって思考、感情はこの体のものだという考え方は極論です。思考と感情がこの体とは一切関係ない場所で湧いている、、そう捉えて見てください。不思議な気づきに襲われます。例えば思考と感情は別次元に起こっていてそれをこの体がキャッチしているという捉え方です。すると突然この体の中に自分は居なかったという気づきが起きます。

思考と感情は違う場所で発生しているとしてもこの体主体であることは事実ではないか、、、

仮に思考や感情が全くの別次元で発生しているとしても、この体が関わっているならば結局は自分は体ではないか?それは当然の見解です。感情、思考が湧き出る場所がどこだろうと体が主体になってそれが起こるならば何も変わらない、、、ここが重要なポイントです。全体が体に成り切っているのです、だからこそこの体の動きに反応して思考や感情が湧いてくるのです。この体はスーパーマリオのマリオのようなものスーパーマリオゲーム自体がマリオに成り切っているのでマリオを操作するとあらゆる感情、思考がゲームの中に湧き上がるという仕組みです。思考や感情がマリオの中に湧いている必要はないのです。

湧いてくる感情、湧いてくる思考をマリオの中だと認識する思考がゲームの中で湧いてくる

そろそろ気づいてきたと思います。スーパーマリオというゲーム本体がマリオに成り切ってこのマリオ人生を歩んでいく、マリオに起きる事件、事故によって思考、感情が湧くが、、、それはマリオの中で湧いたとする思考も同時に湧く(自我)ということでこの勘違いは延々に続いていくのです。人間というのは集団でこれを行なっている民族であるということです。

人生の勘違い

テクノロジー進化の秘密

人間というのは面白いものでこの体の中に自分が居るというこの感覚に絶対的な自信を持っています。なぜかと言えば、、、友人も親も、会社の同僚も、TVに映るタレントも、町内会のおじさんも、、みんなそう信じているからです。大統領も、ノーベル賞受賞者も、日本国宝者も、マザーテレサもです。みんなが全員そう信じて疑わないのだからそれが真実である、、、これが人間という動物の中の一種だけが頑なに信じることです。この体の中に自分が居る、、、一方他の動物はどうでしょう?鶏も猫も、ライオンも、魚も、虫も、、、どの種もこの体の中に自分が居るとは信じていません。断言できます。なぜかと言えば信じるには言葉が必要だからです。言語を持たない(発達していない)種に何かを信じるという芸当はできないのです。ということで地球の頂点に君臨する人間様だけがこの体の中に自分が居ると信じている、ということになります。一方、体の中に自分が居るというアイデアはこの人間という種の発展に貢献しました、他の種では絶対的にできないような繁栄を極めました。テクノロージーを発展させ地球に人間の住めない場所はない、、というところまで居住空間を広めていったのです。

その一方で人間のストレスは何も解消されていない

この体の中に自分が居るというアイデアは、人間に脅威の発展をもたらしました。ですがその一方で人間は果たして幸福になったのか?ということです。人間は確かに年々文明が進化し産業革命、IT革命と便利を極めています。ですが幸福度という点に関しては実はあまり変わっていない、、、ここを追求する科学者は中々いません。国家をあげて国民の幸福度調査に乗り出すということも今後ないでしょう。なぜか?調査をすれば壊滅的なデータがでてしまうからです。結論から言えば「人間が発展できたのは人間が不足感製造機だから」ということになります。人間とは不足感、孤独感、分離感製造機なのです。この体に自分が居るという誤認識は常に居心地の悪さを生み出します。それを解消すべくあらゆるテクノロジーが発展しました。

最大のタブー「この体の中に自分がいない」

人間は脳が発達して言語を操るようになりました、その結果この体の中に自分が居るという認識をでの人間全体で保有するようになりました。これは言語がなくてはできません。その証拠に生まれてきた赤ちゃんはその後何年にも渡って「太郎くん」と呼ばれ続けます、これはこの体の中に太郎という全体から分離した存在が居るという洗脳です。そこには勿論悪意はありません、言語を使いこなすことで人間という種はそこまで進化してしまったのです。つまり自分という存在をこの体の中に作り出すほどに進化したということです。湧いてくる思考も感情も、、この体の中で起こっているという認識を作り出したのです。スーパーマリオというゲームの中でクッパが進化を独自繰り返し、、突然意識を持ったようなものです。そしてクッパはまさかのマリオの邪魔をしなくなるという結末、マリオと一緒にピーチ姫を救うと言い出す始末。

辛くなったらこの錯覚を解いてみる

自我の成り立ちを見れば何もないことが分かる

自我ができる前、誕生した赤ちゃんには何もありません。自分と自分以外という区別はないどころか、全てのモノに名前すらないのでただ全体があるというだけです。一切の分離がない世界です。徐々に言語を覚えこの体の中に自分というモノが居るのだと教わりました、実際はそんなモノはなく自分とは全体そのものです。ですが全体がこの体の中に入っているいう錯覚、認識を持つことで本当にそう信じるようになるのです。この体の中に自分が居る、、、これで自分と自分以外が初めて誕生するわけです。分離の誕生、分離意識の誕生、孤独感の誕生です。

元々は何もないのだから、、、

自我が芽生える前はここには何もない、もしくは全体だけがあったのですが自我が形成されることで自分が誕生し自分以外が誕生しました。さらに自分以外にあらゆる名前をつけていき全体をバラバラに切り裂いていきました。自分はこの分離しよって生活が大変便利になりました。自分の寝床、自分の食料、自分の衣服、、、などを所有することができ生活が便利になっていきます。その一方で全体から切り離された自分自身は常に孤独、分離感、不足感を味わいます。全体であった記憶は間違いなくあり、そことのギャップに苦しむのです。何を得ても何を達成しても何を手に入れても満たされないこの感情に一生苦しみ続けることになるのです。

自我とはアイデア

自我とはアイデアです。この体を生き伸ばすためのアイデアです。全体の発生後、後からできたアイデア、発想でしかありません。なぜならば言語がなければ自分とは存在しないのですから。言語が地球上から消えれば自分はいなくなります。これってギャグですよね。「はじめに言葉あり」聖書にこのような言葉がありますがこれって真実です。言葉が生まれて自分が誕生したのです、言葉がなければ自分というアイデアはないのです。

この分離自我は便利だが辛い

全体の中に生まれた自我、このアイデア、発想は大変便利ですが辛いモノです。この体は自我のお陰で生き延びやすくなり助かりますが辛い、孤独、不足という感情がひたすらに湧いてくるというまさかの副作用があります。この副作用、感情に耐えられなくなったならば再び全体に戻ることも有効です。というよりもこの自我のカラクリを解いてしまう、本来は全体でありこの体は全体の一部でしかない、なぜこの体に全意識を委ねなくてはならないのか?ということです。この体は全意識の一部でしかありません。

先ずは全体があった

そこから自分が起こった

先ずは全体しかありませんでした、これ、あれです。視界に広がるこれ、あれだけがありました。動物、自然、花、太陽、空、雲、これ名前は元々ついているわけがなくただ目の前に映る諸行無常、変化する何かがありました。そこにこの動く体というものを発見します、お腹が空き、排泄が起こる、そして寒いと感じるこの体を発見します。ただこの時点では自分と自分以外という感覚はありません。やがて視界に広がる中にこちらに話しかける物体(人間)が登場します、その物体は食事の面倒を見てくれたり排泄の処理をしてくれる、そしてどうやら何かをこちらに向かって話しかけています。音だけがします。その物体はなんと7年間近くをかけてこの動くモノには名前があり、それがどうやら自分という存在であること、そして自分以外の存在があること、、そして目に見える動く、もしくは動かない何かに一つ一つ名前があることを教えてくれました。

一番近くに常にある動くモノを「自分」と呼ぶ

これによって自分と自分以外が誕生しました。自分はこの見える世界で最も大切であるらしく、この自分を大切にしなさいと。そしてこの自分の中には思考というものが起き上がりそれも自分のものだと、さらに怒りや悲しみなどの感情もたまに湧いてくるがこれも自分のものだよと教わりました。不思議なことに自分という存在を理解すればするほどにこの感情が沢山湧いてきます。その感情は多くの場合心地が良いモノではなくだから自分はそれを消したくて他の人間と一緒にいたくなります。全体は最初からあったし今もありますが今の全体は自分と自分以外に分かれています。

自分ができてから空間ができた

自分という存在が誕生してから空間ができました、自分がキノコを取りに行く際にそのキノコは向こうの山にありました。自分が向こうに行かなくてはならなくなりました。すると向こうの山に行くには距離があり、その距離を行って帰ってくるまでに時間というモノが誕生しました。本当は空間も時間も存在しないのですが独立した「自分」というモノが誕生し自分が「自分以外」と接触することで空間と時間が誕生したのです。