悟り

神の迫真の演技

演者は神

目の前でどんなに苦しんでいる人が居ようとそれは神が演じる役に過ぎません。苦しんでいるように人の経験者は神です、、見える画像の中に人格が居てその人格がこれを経験しているというのが我々の推測ですがそれは推測です。本当は神がそのような現象をただ目の前で起こしています。それを経験している人格が居るというのは推測でありその推測を人をするから「苦しみ」の中に入るのです。

貰っちゃう

精神科医、カウンセラー、、相手の気持ちになって寄り添う職業の方々は自身が心身症になってしまうってあります。相手がまさにどのような気持ちでどんな体験をしているかを追体験して、、相手に寄り添うのですが、、、そのイメージ、ドラマ作りこそが、、苦しみを生み出すのです。こんな風な苦労をこんな気持ちでしたに違いない、、です。相手から何かネガティブなエネルギーを貰ったのではなく、、今自身がドラマを作り出し追体験をして同じ感情を味わったのです。

そのようにはなっていない

真実は一つです。今この世界で起き上がっていることが全てです。悲しそうに見える人が居ればそれだけが真実です、孤独そうに見える人が居ればそれだけが真実です、、それ以上の何かはないのです。今ここで神がそのような風景だけを作ったのです。そして今「私は何何しなきゃ」という思考が湧いた瞬間に神はそれをイメージ化し、、さもそれが現実であるかのような絵を作ります、、その結果一緒に感情が起こるのです。もしも私が彼らのために何かをしなきゃ!が湧いてこなければ、、感情も湧きません。

釈迦

悟った後に釈迦はその気づきを悩める人々に伝えた、、、これが歴史上の多くの人々の認識ですが、、これは間違いです。悟りが起こった後に、、救わなきゃ!!は絶対に起きないんです、、救う必要がある人など居なかった、、、これが真の気づきです。悩んでいるように見える人物の中に人格が無かった、、という気づきが真の気づきです。ではそれが分かって救わなきゃ!!は起きるのでしょうか????

飲酒は疑似悟り体験

思考を緩める

お酒を飲んで数学を解く、、できませんね!!!つまりお酒とは思考出来ない状態に持っていくツールです。お酒を飲むと多幸感を感じれるのは、、自我を緩める、思考を緩めているからです。自我、思考に意識を向けることが難しくなり、、その結果、、 分離の世界、緊張の世界から一時的に脱出できるのです。だから多くの人はお酒を毎晩飲んで一時的に思考の世界から本質の世界、本当の世界に舞い戻っているのです。

だがしかし

お酒の問題点は、、簡単に本質の世界に戻れてしまうがゆえに依存性があるということです。誰しも本質の世界に戻りたいのは当たり前でありそれが飲酒という安易なツールで達成できてしまうがゆえに依存性があります。呼吸法、瞑想、マントラを唱えるよりも簡単完結です。だからこそ人は飲酒を覚えると悟りへの渇望が無くなってしまうのです。どうせお酒さえ飲めばハッピーに戻れるのだからと。

飲酒よりも悟り

飲酒の弱点は、、飲んでいない時間はどっぷり思考の世界、分離緊張の世界にハマってしまうということです。飲酒時間以外は、、しっかりと思考分離緊張の世界の住民に戻ります。仕事をしていない時間以外はひたすらに飲酒に依存し我を忘れる方向に動きます。これを続けていては悟りという本当の解放から遠ざかります。

脳以外は悟っている

これは夢の話

体が悟りを閉じる、、これはできません。この世界はたった一つのエネルギーでそして今もそれは同じです。完全な解放の中に今も我々の体は存在します。この世界に悟りが閉じた存在はないのです。唯一その中で思考が湧き(悟りが閉じてはいない)その思考の内容が真実ではない、、という現象が起こります。それ以外は今も解放の中に居ます。

思考の内容だけ

この世界で思考の内容だけが真実とは異なります。つまり常に思考に囚われることがなくなれば、、我々は即解放の中、悟りの中、たった一つのエネルギーの中に居ることができるのです。ではその思考の囚われからどうしたら解放できるのか????ここは最重要事項です。その一つの方法が思考から強制的に意識を外してしまう、という方法があります。簡単に言えば思考できない状況を強制的に作ってしまうということです。

呼吸法

その一つに呼吸法があります。深い深呼吸を意識的に行っていきます。吐くこと吸うことを意識的に行います。思考が巡ったその瞬間、、呼吸法を始めます。呼吸法をしながら難しい問題を解くことができないようにこれをしながら思考にふけることができません。これを1日の中で何度も行うことで意識的に思考から意識をはぎ取る癖を作りのです。

思考に意識が行かなければ

この世界では思考の内容だけが真実とは異なります。それ以外は真実しか存在しません、つまり思考から強制的に意識をシフトできれば我々は一日中真実の中、悟りの中で暮らすことができるのです。悟りが閉じるとは、、思考の中に閉じ込められただけのこと、、そして悟りが開くとは思考の内容から脱出できた状態をいいます。

裏切り

自我の延命措置

裏切りとは自我の延命措置です、、例えば、、仕事がバリバリできる社長は、、全くもって人を必要としません。たった一人で稼げるわけだから、、誰に依存しなくてもいいのです。これは一種の悟り状態です。人に対する執着がゼロです、、、このままいくと悟りが開かれるでしょう。そこで自我は頼ってきた人々を助けるという行動を取らせます、助けることで「自分」の存在を確かにするのです。俺が助けている、、これだけ助けたのだからこれぐらいは感謝されないと、、です。「俺」がいなければこいつらは路頭に迷ってしまうぞ!!!です。

そこで事件が生まれる

助けるべき人々が居るというのはそのまま夢化しますから「私」の前には助けるべき人が出現するでしょう。それによって自我はホッとしているのです。これで「私」はしばらく生存できるぞ、、と。そしてそこからの裏切りです。相手の自我(あるとすれば)はこちらが与えれば与えるほどに返さなくては、、、が起きます。損得勘定でしか考えられない自我は、、、与えられることを実は恐れます。借りができたような気持ちが悪い感覚になるからです。何かあったら今度はこっちが与えなくてはいけなくなる汗です。

自我の動きを見抜く

自分が居るという感覚の中に居る人々は(見かけ上)浮遊霊のようなもの、、常に居心地が悪く、、常に怖い、、全部が恐怖ですから、、、多くのものを与えてもらったという事実すらも、、不快なのです。つまり強烈に自我を感じてしまうわけですね、、ですから最終的には、、逃げ出すわけです。これが世間で言う裏切りです。ですが本当はこの動きは勝手に起こっているだけです、、自我ありき(見かけ上)の人物像において勝手に起こった化学反応だということです。ここで怒ってしまうと、、、失礼を受けた「私」失礼をぶっこいた「相手」という幻想を強く強く信じる結果になります。

執着が夢化する

仏教の真髄

仏教では執着を無くせ、足を知れ、、、、という言葉が有名ですが、、、これって要は執着が夢化するからです。執着が夢化してその人の前に現れ、、偽りの自己へ誘うのです。例えばお金に執着がある場合、、お金に関する有象未曾有の誘い見かけ上のその人の前に出現します。そして本当は欲しいんだ、とそこに手が伸びるです。ところがそのお金に関する有象未曾有は自分というものを強烈に意織させます、なぜならばそれを手に入れたいのはこの自分だからです。

究極のリラックスが人を引き寄せる

多くの場合究極のリラックスに近づいていきますと、、そのリラックスが人を引き寄せます。楽しそうですね、嬉しそうですね、、、となるのです。つまり自身から(見かけ上)発せられるリラックスによってこの画像の中の見かけ上の人物が反応を起こしてくるのです。これによって自身の執着が現れます、、高感度の高い私、人気者の私、有名な私です。。。これによってまた強烈なリラックスを所有した私が現れ、、私ストーリーが生まれます。

有名人

有名人になれる人とは間違いなく何かしら才能を発揮しているわけですから、、、偽りの自己ではない状態を意織できるはずなんです。つまり軽い悟り状態にあるはずです、、ところがそこでその人の背景から現れる人物が寄ってたかってその人に集まることで、、、「私」を強烈に意織せざるをえなくなります。悟り潰しが起こるのです。これ欲しくないですか???この人を紹介しますよ、、今度こんなビジネスをしませんか????とエンドレスに「私」を誘うことになるでしょう。

悟りを本を読んでいるのは誰だ???

「私」じゃないんですか???

マリオがゲームの中で本を読み理解するって可能でしょうか????桜木花道が漫画の中で本を読み理解するって可能ですか????間違いなく無理です、、、ゲームをやっている人、漫画を読んでいる人しかそれは不可能ですね。つまりつまり悟り本を読んで内容を把握するのは「真我」「神」「大いなる存在」です。だんだん悟り本が分かってくる????その気づきは神から起きているんです。

神以外は誰も経験していない

この世界、この夢の世界で、、経験できる存在はこの夢を見ている神だけです。神以外に経験者が居るとしたらその時神は何をしているのか????暇すぎますよね????私が経験し神は見守るだけとしたら神は暇人になってしまいます。。。私が極旨ラーメンを食べている時、、神がそれを観察するだけならば神はめちゃくちゃ暇ですよね、、だいたいなんのための世界なんだ???ということです。ですからこの世界の経験は全部私と思い込んでいる神がやっているのです。

美味しいラー麺は神が味わっている

美味しいラーメン、エグい映画、めちゃくちゃ強いタバコ、、、味わっているのは全部神です。神が全部味わっておいて「私」が味わったという勘違いを神が起こし、、そして美味しい、不味い、という感情を起こし、、神がそれを経験しているのです。この全てが完全自動運転で起こっているのです。これを操作する神はなく、、ただ全現象が神から起こり神が感じるを続けています。

神が腹を立てる?????

もしも全経験を神がしているならなぜ神が腹を立てるんですか????ショボすぎでしょ、、、、、残念!!!この世界は全感情、全思考、全行動を経験する場所なのです。そのために神があらゆる仕掛けを起こし腹立つ!!!!という仕組みを作ったのです。「私」という存在を立ち上げ、、「私がやられた!!」という思考を立ち上げ、、それに体が反応し、、怒り!!が湧きます。全ては全部化学反応です。「私」という感覚すら化学反応で起きたのです。「私」という思考が「私が悪口を言われた」という思考を作り出し「私が悪口を言われた」という思考が「怒り」という感情を起こしているのです。化学反応が連鎖しているだけです。

あまちゃん

能年玲奈に戻る????

あまちゃんというドラマが以前大ヒットしました、国民的スターになった能年玲奈さん。今は違う芸名でやっているらしいですが。。。あのドラマは日本国民があまちゃんという役に夢中になりあまちゃんは大有名キャラに。その演者が能年玲奈さんです。彼女はどこへ行ってもあまちゃんと呼ばれ続けたことでしょう、プライベートでも。そのあまちゃんですが、、、彼女があまちゃんになり切ってしまって生きるとしましょう、、これが我々の自我活動です。

いつか能年玲奈に戻る????

悟りとは一瞬です、覚醒とは一瞬です、、、いつか私は能年玲奈に戻る?????その発想がもうおかしいのです、毒が染み渡っています。あまちゃんから能年玲奈に戻るために苦労や努力、成し遂げるための何かは必要ありません。能年玲奈はその場で急に自身が能年玲奈であったことに気づくのです。いつか、、どこかで、、という発想こそがギャグです。

どうやったら????

どうやったら能年玲奈に戻れますか????この質問も完全に洗脳されてしまった状態から起きます。のんというのが役でありそれに気づくだけです。のんとは実在はしない、、ただし役としては実在した、、幻想として、役として、、周囲から認識は確実にされていた。だがそれは幻、役であって実在ではない、、、となります。あなたは本当はのんをやっていた能年玲奈なんだ、、、です。

何を言われても面白い

私に向かってくる罵詈雑言

この夢の中、幻想の世界では見かけ上の「相手」はこの「私」が「私」をやっているという前提で様々な罵詈雑言を放ってくることもあるかもしれません。ですがこちらは背景であることがもう分かっていますから「私」に焦点を当てた罵詈雑言は、、勘違いであることが分かります。だからどこに向かって言っているんだろう???本当の私はそこには居ないのに、、、という一歩離れた視点で話を聞くことができるのです。

アンジャッシュの勘違いコント

アンジャッシュというコンビが頻繁に勘違いコントをやっていましたが、、、まさにあの感覚、、勘違いしながらのコミュニケーションが起こるようになるのです。実際にはこちらがその勘違いを理解した上でコミュニケーションは続くのでトラブルにはならないのですが、、面白い感じになります。夢の中のこの登場人物はこうやって勘違いを引き起こしているんだなーという気づきです。

全ての苦しみがそこに在ると思うと

この勘違いがすべての苦しみを引き起こしているわけですが、、その現場をコミュニケーションの場では感じることができます。まさに悟りの練習問題、課外授業です。画像の中の画像(登場人物)がこの画像(体)に話しかけてくることで、、さもこの体がこの画像の主役である、そこに人格があるかのような勘違いがそこで生まれます。そしてこちらが反応し返すことで、勘違いコントが生まれます。

「在る」の共有

在るは全員が共有する

覚者、悟り人、覚醒者という存在が、、もしも居るなら(居るようには見えるが)彼らは「在る」という状態に居ます。この在るという状態は、、どこか特別な場所にあるのではなく、、、全員が今感じている「在る」です。誰しも感じている「在る」という感覚「存在している」という感覚、、「意織している」という感覚「気づいている」という感覚、、、ここに居ます。スピでいう、、、特別な感覚を所有していたであろうアセンデッドマスターのような人々は存在せず、、「在る」が最終ゴールであるに気付けるか否かだけだったんです。

会話をする

会話が成立するということは、、「言葉に気づく」を共有しています。この言葉に気づく、、、は聴覚の力ではなく、、、音をそのままに静寂が気づいているのです。この気づきを気づきのままに気づいている見かけ上の人々が覚者、覚醒者、悟り人と呼ばれる人々です。多くの人はこの気づきを「私」が感じた、、、という概念の世界を信じており、、これは嘘です。ですからそのまま音に気づいた私は音楽活動を始めた、、という流れで嘘が膨らんでいくのです。

嘘が膨らみ

嘘が膨らんでいくことで、、生きていること自体が徐々に重くなっていきます。なぜならば嘘を信じると、、「苦しい」が自動的に湧くように設定されているからです。嘘を重ねるごとに重りが徐々に増えていき、、生きている=重いになります。ですが生きている以上この嘘を信じないでは生きていけない時期があるのは確かです。どこかのタイミングでこの嘘に気づき嘘を嘘と見抜いて生きていきますと、、「苦しい」が湧いてこなくなるのです。

壺であり大地でありスペースである

この体は壺

この体は壺です、土でできた壺です。壺は意識を持ち私はこの壺で在ると気づきました、、、ですが同時に壺の構成要素である土でもあるで、、壺の土は常に常に大地であった記憶に襲われ、、、大地に戻りたいと探求するのです。壺として生きているだけでは満足できず、、大地に戻りたいという欲求が起こり続けます。ですが同時に壺は既に完成していますから、、大地に戻るためには、、、粉々に自身を壊す以外にありません。

自殺とはつまりそれ

自殺とは壺としては大地に戻れないことを悟り絶望して自らを壊す行為です。壺自身が壺を壊すことで大地に戻れることを知っているからこその動きなのです。では我々は壺として大地に戻れないいじょう、、絶望しながら生きていくしかないのでしょうか。そのようなことはありません、実は大地に戻らなくても大地に戻る方法があるのです。日本語としては成り立っていないですよね?????

大地であったころ

大地であったころの記憶とは、、なぜ起こりえるのでしょうか????もしも世界に大地しかないとしたら、、大地は大地と認識することは不可能です。なぜならば大地しかないのだから。大地以外があって大地は大地と認識できます。ですがこの世界には大地しかないと仮定したら、、大地は大地と認識できません。でもしっかりと大地としての認識があるのです。これは難問ですね????唯一答えを導く方法があるのです。自分の本当の姿とは、、、大地が存在するスペースです。それならばそこに大地が現れた時にそれに気づけるのです。そうです、私たちの本質は大地でありそして大地を出現させたスペースに他ならないのです。これによって壺は自らを壊して大地に戻る必要は全くないのです。