思考

思考への焦点を剥がす

思考に焦点が集中する

思考に焦点が集中しますと、、、思考との完全一体化が始まります、、すると思考していることに気づかなくなります、、、1日中思考していてもそのことに気づく存在がいなくなるのです、、、思考との完全一体化、、が起きます、、、この事実に気づき、、、思考の湧き上がりに意識的になっていきます、、、思考が湧き上がる瞬間に注意深くあるのです。たったこれだけで、、思考の渦に取り込まれなくなります、、平和が満ちてきます、、静寂に包まれます。

どこに焦点が当たっているか

私たちはコップを凝視しながらTVゲームをやることができません、YVゲームに集中すると、、コップを凝視できません、、、一度に二つのモノに焦点を当てることができないのです、、、つまり人間ゲームに焦点を当てると、、他のものが見えなくあります。。。個人というこの感覚に焦点を当てると、、他が見えないのです。今人生が大変に苦しいのならば、、この個人に焦点が完全に合ってしまっている、、ただこれだけです。

焦点を気づきの意識に戻す

焦点を気づきの意識に戻す習慣を見に付けていきます、、、思考が湧く時に、、、それを観察する存在になります、、地面を踏み付ける時に、、その経験のみに焦点を当てます、、、ジュースを飲む時に、、、その味そのものに焦点を当てます、、、目を閉じて現象を消し去り、、気づきの存在として音に気づきます、、全ての経験を個人に焦点を当てず、、、気づきの意識の気づきに焦点を移行します。。。

思考が湧いたら気づきの意識に戻る

思考はただ湧き続ける

思考はただ湧いてきます、、、エンドレスに、、、思考が湧き上がることはこの体を持つ以上当たり前のことです、、、ですがこの思考が湧くことに無抵抗のままだと独り言を一日中話す老人と同じになります、、、これは苦しい人生へのシフトです、、、思考が湧いたら、、その思考を観察する存在になります、、思考を観察する存在とは気づきの意識です。。。これを癖付けします、、これを新しい習慣にします、、気づきの意識に1日に何度もシフトします。

気づきの意識へのシフトに思考も動く

最終的には思考は、、、気づきの意識へのシフトにも動くようになります、、、気づきの意識そのものならば、、どうしたら気づきの意識そのものとして生活できるだろうか???と思考が湧き始めます。関心の全てが気づきの意識になっていきます、、、そりゃそうです、、、この体の中に自分が居ると信じ切っていたのに、、違ったのです、、、今更今までの自分のために活動していられるか???という話です。

気づきの意識万歳、思考万歳

気づきの意識にシフトが起きますと、、、思考は気づきの意識の道具として気づきの意識の衝動を支える仲間に戻ります。。。機能としてのこの体の役割を支える道具に戻ります、、次に何をしよう、これをしよう、、明晰な頭脳で、、ミッションを遂行していきます、、、もはや思考は現状維持の機能ではなく、、目標達成のための機能になります。

思考に振り回されているという、、気づきは素晴らしい

なんか頭の中の思考が大変で、、、

これは重要な気づきが気づきの意識の中で起こっています。頭がグチャグチャで、、、、本当にグチャグチャならば、、、それにも気づかない、、、思考がこの苦しみの根源であるという気づきが起きればそれはもう悟り間近です。あの人のあの発言でモヤモヤする、、、そうです、、このモヤモヤこそが苦しみの根源です、、思考と自分(気づきの意識)が一体化しています。苦しい場所(分離)に意識が向いているのです。

じゃあボーッとしてればいいんですか???

その通りです、思考に一切邪魔されない、、状態、、瞑想状態、無我状態は至福そのものです。ですがその思考のコントロールを自分がやるのだと思うと失敗します、、、コントロールできる自分が居ないことを悟るのです。思考とは湧いてくる温泉のようなもの、、、それをコントロールできてきたと思っている自分も思考です。ワンネスをバキバキに切り裂く存在思考を自分(思考)がコントロールしている(思考)という究極の思考ゲームの罠に居たことに気づくのです、気づきの意識が。

思考とは湧くもの

思考とは湧くもの、、、この気づきが起きますと、、、湧いてこなくなる、、、、面白い、、、あれだけ脳内でグチャグチャと回っていた思考が湧いてこないのです。なんという奇跡、そうです、、、思考の罠から抜けるには、、罠であるという気づきが起きればいいのです。気づく存在は誰?気づきの意識です。

気づきの意識はどこに居る?

さっきから気づきの意識、気づきの意識言ってますがそれはどこに居るんですか???今ここで気づいている存在です、、、光、声、温度、視界に気づいている張本人です。。いやいやこの体が感じているんですよ、、違いますか???違います、、、この体が感じているという錯覚はたまに起きます、、、夢中になってラーメンを食べているときに、、、自分が食べているなんて思いませんよね???ラーメンを感じ尽くしているのが気づきの意識です。

思考が全開になるのはもっと良い方法があるのでは??と思考するから

絶対に損をしなくない、、、

一円でも安く買い物をしなくては。。。。あそこのスーパーでは2割引だった、、、だから絶対にそれよりも高くは買わない、、なぜならば損をしたくないから、、、これが思考の特徴です。絶対に損をしない、、、個人に「成り切った」全体はその時点で大変苦しい、、だから思考はこの苦しい「個人」を得をさせるために起き続けます、、思考が悪いのではなく、、、、思考とはそのようなエネルギーであるということです。

全体に触れる習慣が

無我になる習慣がある人は、、、この損得に興味が無くなります、、、だって損得より無我、全体が断然気持ちが良いからです、、、、損得に興味が起こる=自我全開、、、無我に興味が起こる=自我の終焉です。でもそんなことをしたら個人は生きていけないのでは、、、、、違います、、、、無我に入れば至福ですからそこには何も要らないのです。無我になるのにお金が一円もかからないのです。

無我に入れば入るほど、、、何も要らない

来週は旅行に行こう、来週あれを買おう、来週友人と花見に、、、こうやってスケジュールを埋めたがる人は、、、この個人にいかに喜びを与えるかに必死になっています。この個人は今苦しいから、、、ご褒美を与えてあげているのです。。ですがこの方法を続けるのが苦しい、なぜならば、、、それでは一時しか幸福になれないから、、、

このブログの意味

このブログでは、、、自我がどういうメカニズムで苦しみをこしらえているか詳細を記載しています。何度も自我のメカニズム、全体のメカニズムに触れますと、、、自我の自動反応に対し、冷静になる全体の姿が湧いてきます。「鼻を触る癖があるよ」これを言われた人はその後鼻を触る回数が減ります、少なくとも増えることはない、、なぜならば、、冷静に見つめの自分が誕生するからです。これと全く同じです。

思考がこの「私」を時間の中に閉じ込める

思考が悪いのではない

今日はこれやって、あれやって、明日はこれやってあれやって、、、昨日はこんなことしなければ良かった、一昨時はあんなこと言わなきゃ良かった、、、ストーリー上の私は毎日こうやって思考します。思考の特徴は将来のために、、もしくは過去を振り返って、、、を繰り返すのですが、、、、このことがストーリー上の「私」を絶対的なものにするのです。「私」ありきというのが思考の特徴なのです。だから思考を自分のものだという勘違いが続くと苦しくなっていくわけです。

思考はただ湧く

思考はただ全体から湧き上がります、、、明日雨だから傘持たなきゃ、、、が湧きます、、、その後にいや持たないで行ってもしも降ったら買えばいいか、、、湧くのです。その時にこれって全体からただ湧いてるんだなー、、、という気づきの意識の感覚、事実をただ眺める感覚を持つと、、自分劇場に入り込まなくて済むのです。

そして行動も湧く

どれほど思考しようとそれとは全く関係なく行動が起きることがあります、、これが事実です。行動も思考とは全く関係なく起こっています、全体から。ですからこの私がこの行動に対し出る幕はないのです。将来は絶対に軽井沢に住むぞ、、と決めていても、、いきなりアメリカに住むが起こるかもしれません。そうです、事実はこうなっているのです。

思考が湧いた瞬間、全体になれる

思考が湧く瞬間を見逃さない

思考が湧く、、この瞬間に注意を向けます、、思考が湧いたら、、今全体からその思考が湧いたことに気づくのです。思考は完全にこの自分(蜃気楼)ではなく全体から湧いてきます、、ここに完全集中するのです。「スタバに行きたい」これが湧くのを感じます、、今全体から「スタバに行きたい」が湧いたぞ、、「ラーメンを食べたい」、、、、今全体から「ラーメンを食べたい」が湧いたぞ、、この連続です。

思考は100%全体がら湧き出ている

この現象界において何かを湧かせることができるのは全体だけです、自分という蜃気楼(現象)に湧かせる力はありません、蜃気楼(自分の体)はあくまで湧き上がった存在です、、現象です。湧き上がった現象が何かを湧き上がらせてしまったら、、それはもう全体の監督不行届になってしまいます。全体の面目丸潰れです。ということでこのルールは実は単純明快なのです。スタバに行きたい、ラーメン食いたい、パチンコ行きたい、、は私という蜃気楼を経由はしますが、、全体から湧いているのです。

私という蜃気楼を経由しているだけ

思考というのは私という蜃気楼ありきで様々起きます、私という蜃気楼ありきでフル回転している時、、苦しいマックスです。全体から苦しい苦しいが湧いてきます、、ですがこの苦しい瞬間、、思考の湧き上がる大元を見るのです、、今どこから湧いたっけ????全体です。全体を見つめるのです、、するとまさかのその場で静寂に包まれていきます、、、全体の存在に常に注力するのです、、、全体の仕業であることを見抜くのです。全体が思考を使ってこの蜃気楼にリアリティーを与えていることを見抜くのです。

今が輝かなくなるのは先(思考)を自分(思考)が見ているから

いつからか世界の輝きが無くなった

小さい頃は世界が輝いて見えていたのがいつの間にか曇って見えるようになり重苦しい世界に住んでいるように感じるようになりました、中学生ぐらいになる生徒の表情から純粋無垢な輝きが失せ重く背負ったような表情をするようになります。将来のために勉強しなくては、将来のために我慢しなくては、将来のために良い学校に行かなくては、、、こうして自分(思考)は将来(思考)というファンタジーを見て生きるようになります。どちらも思考であり実在がない世界に入っていくのです。今しか生きていないのに将来(思考)を見て生きているのですから苦しいのです。そして将来を見ているのも自分という思考です。

自分というのはアイデア

自分という存在はこの世界には実在しません、自分という存在はどう考えてもないのです。あるとすればそれはアイデア、概念です。ですがこのアイデアに固執するということが根源から起きますと見える世界を「自分」が見ているということが起きます。アイデアである自分がこの世界を見ているが起き、起きる現象は全て「自分」にとって有益か無益かで判断する(思考)が起きます。完璧しかない世界が不完璧に見えるが起きます。それはありのままの世界を思考というフィルターを通じて見るが起こるからです。

苦しいが起きたときにそれがどこから起きたかを感じる

完璧が不完璧に見えるが起きた世界に居れば苦しいが起きてきます。この苦しいは根源の現れですからこれも根源の表現、愛の表現です。苦しいが湧けば苦しいのですがそれも愛の表現であることを感じます。こうやって事実を思考を入れずに観察していきますと常に根源の表現に触れていくことになります。一日中が事実の確認になっていきます、事実は全て根源の表現でありそこに至福があります。

思考が先か、行動が先か

全ての思考も全ての行動もただ湧き上がるのみ

本当のことを言ってしまえば行動が先でも思考が先でも実はどちらでもいい、なぜならばどちらもただ湧き上がるだけだからです。ただ湧き上がる思考、行動に委ねるしかなく人生とはこれを堪能するだけなのです。思考も行動も湧き上がるだけならば我々はそれに従うしかありあせん。ではその思考と行動に因果関係はあるのか?ということですが実は何もありません。湧いてくる思考も適当、湧いてくる行動も適当、、ということになります。

湧いてくる行動に先んじて思考が湧くこともある

アメリカに旅行に行く、その行動が湧いてくる時に、、、その前にアメリカに行こうが湧いてきます。思考は好き勝手に湧き続けますがそれが行動に繋がるか否かは何も分かりません。ただ行動が決まっている場合にはそれに合わせて思考が湧く場合がある、、これだけです。どちらにしても「自分」にはこれを決める力などあるわけがなく、、そして自分など居ません。居ないのだから「決める」などあり得ないのです。

もっと良い方法があったのでは、、という苦しみ

人生とは後悔の連続です、あの時もっとこうしとけば良かった、、あの時あの選択をできていれば、、、常時このパターンです。ですがこれはありえないのです。先ず大前提として全ての行動は根源からの現れでありそこに自分は完全非関与です、そしてその決断に関してあらゆる思考が湧きますがその思考すらも非関与です。つまり全ては根源の成すがまま、、個人などそこには何の関与もできない、、そして個人は居ない、、これが答えです。我々は個人の人生に関して責任を持って運営してきたという自覚を持っていますがそれは大きな勘違い、、何一つ個人は関与していないのです。これを絶望と取るか無責任と取るか、お気楽と取るか、、それすらも根源から湧いてきます。

思考が湧いても無視する

思考に巻き込まれればファンタジーの世界へ

ここはファンタジーの世界、全体が自分を遊ぶ場所、、、それは勿論その通りです。ですがこれを維持するためには思考に入り込む必要があります。思考こそがこのファンタジー世界を維持するためのプログラム言語だからです。逆に言えば思考が無ければこのファンタジー世界を維持できない、そして最も影響を与える思考が「自分が居る」です。この思考こそがこのゲームをスタートする絶対条件です。何千万回名前を呼ばれることで「自分が居る」が染み込みこのゲームがスタートしました。そしてこのゲームの中では幸福にはなれません。「自分が居る」が思考、空想、妄想だからです。事実(至福)ではないからです。

思考が湧いてきたら、、、

思考が湧いてきたら、、、そんなものは捨ててしまえばいいのです。思考は事実、現実は何も関係なくわき続けますがこれは事実、現実とは何も関係がないのです。考えることが事実、行動に関係するならば大いに考えることに意味がありますが何も関係がない、、ならば考えれば考えるほど損なのか?そうです。大損です。事実、現実は思考に関係なく淡々と進んでいきます。そして思考も淡々と湧き続けますがその思考は事実には何の影響力も与えないのです。

そんなはずはない、、、毎日思考が行動に繋がっている

ここは最大のポイントです。行動は思考がこれを行わせている、、、これが大嘘なのです。大誤算なのです。行動が起きることが最初に決まりその前に思考が湧くのです。大阪に旅行に行くことが最初に決まりその後に「大阪に行こう」が湧くのです。だから思考が行動に影響を与えると99.999%の人が勘違いしているのです。事実は逆なのです。つまり思考とは全く無視していい代物なのです。思考に価値は全くないのです。思考とはこの人生ゲームを堪能するための道具に過ぎないのです。そしてこの人生ゲームに住んでいる期間は絶対に幸福になれないのです。思考が人生に何も影響を与えていない、、ここを先ずは押さえるべきです。

景色が重いならば思考の世界に入っている

この完全な世界に

この完全な世界がもしも重く映っているならばそれは思考の世界に入り込んでいるからです。自分という存在を圧倒的に信じその自分を幸福にしようとうするゲームに入り込んでいます。この場合はこの自分は全く幸福になることがなく浮き沈みを繰り返していきますから地獄の世界に突入します。この自分が居るいう大前提こそが=地獄なのです。サーフィンをしている時、美味しい料理を食べている時、音楽に浸っている時、、、自分など絶対に居ないはずです。ほとんどの時間自分など絶対に居ないはずなのになぜかこの自分を強く意識この自分を損させないようにするから重くのしかかってくるわけです。

自分が居るか白黒つける

美味しい料理を食べている時、その時に在るのは、、食感、味覚、嗅覚、喉越し、視覚のみです。自分など全く居ません。友人と話をしている時、友人の映像、声、匂い、触覚のみです、、そこには自分など絶対に居ません。スポーツをしている時、、、ボールの感覚、ぶつかる体の感覚、芝生を踏み込む感覚のみ、、そこには自分など絶対に居ないのです。いつ自分というものが現れるのでしょうか?????そんな瞬間は生まれてこの方あったことがないのです。

自分というものが絶対に居ないことが分かったら

自分を見つけることが出来なかった時、絶望が湧いてきます。自分を見つけることが出来なかった時にその絶望はどこから湧いてくるのでしょうか?自分ではありませんよね笑そうです根元からです。自分を見つけることができなくて自分から絶望が湧いている思ったらこれはギャグです。自分を見つけることができないのならば次に湧いてくる思考はどこから湧いているのでしょうか???そうです、根元です。これがこのトリックの見破り方です。