思考

大いなる一つの思考と個人の思考

考えてみれば明らか

この私の思考というのが本当に私の思考ならば、、大いなる一つとは全く関係ないメカニズムを個人が作ってしまったことになります、、、すると大いなる一つは大いなる一つではなくなってしまいます、、、個人の思考は同時に大いなる一つの思考であることは間違いありません。すると面白いことに気づきます、、大いなる一つと自我という二つの存在が同時に思考を所有することになる???大いなる一つの中に自我というもう一つの存在がいて、、二つの存在が思考を生み出したことになります。大いなる一つは全部だから大いなる一つなのです、、つまり自我とは実在せず、、自我という思考だけが存在することが証明されます。

大いなる一つと「私が在る」という思考

大いなる一つの中で完全独立した「自我ー思考」プログラムがあるのならば、、大いなる一つは大いなるひとつではなくなってしまう、、、すると思考とは大いなる一つから湧き出し、、さらに自我も「私は居る」という思考に過ぎないことが明白になります。この世界は完全なる大いなる一つの現象しかなく、、個人は完全に思考の産物です。そして気づきが起こり続けるのは、、、空の反映が大いなる一つであり、、、空は絶対ゆえに、、大いなる一つの動きに対し、、気づきが起きるのです。

個人の活動を幻想と見抜く

個人の活動が確実に幻想で在ることを見抜きますと、、個人に対する関心が薄れてきます、、、個人というのはアイデアに過ぎず、、これを存在するという信念、価値観のみが存在します。この価値観が強ければ強いほどに、、個人あっての個人物語が強化され、、これは苦しみを生み出すのです。なぜならば真実とは全く異なることを大前提にした旅だからです。

この旅には終わりはない

個人は絶対に完全なる幸福になれません、、個人とは存在せずイメージです、、、この個人をどうやったら幸福にすることができるのか????実在するならば攻略法はあります、、ですが居ないのです。。。にも関わらずこの自我を絶対視しこの自我を満足させようとする動きは苦しみの道になるのです。

どんな思考も

関係ない

どんな思考が湧こうとどんな感情が湧こうとも、、、それを観察者になって観察します、、、なんか思考がわくなー、なんか感情が湧くなー、、、と。重要なことはこれを私ごと、私のモノ、私の大切な思考、感情と握り絞めないことです。これはただ湧いたのです、、どこかから、、、これを自分のモノと掴む事で、、ではどうしよう、ああしようという無限ループに入ります、、、そしてその行動の全ては勘違いからスタートしますから、、つまり合わない靴を履くことになり、、歩けば苦しいのです。

合わない靴

勘違いをベースに歩めば、、、合わない靴を履いて歩めば、、、、とにかく苦しい、、、歩くこと自体が苦しみになります、、、、最初の最初を完全に変えてしまう、、、、「私」が思考、感情、行動を湧かしたのではない、、ただ湧いたのだ、、、、、つまりこれまでやってきた「私」の役割を完全否定するのです、、、「私」とはただこの体に付けられた名前でしかない。自我を正しい認識に改めます。

無間地獄「自我」

あらゆる思考が湧く場所、、それが「私」この新しい認識を手に入れますと、、、「私」は出しゃばりません。ただ思考、言動、感情が湧く場所に過ぎない、、、、この「私」は。順番を入れ替えるのです、、、すると、、、私という認識が完全に変わることで、、、、見ている世界が完全に変わります。。。「私」の外と「私以外」の境目がなくなる、、、この「名前」以外に境目がない、、、、、、急に私以外に価値が生まれます、、「私」が闘う場所だった周囲が、、、そこも私になる、、、、、「私以外の周囲」は、、、、名前がついていない「私」に生まれ変わるのです。

全部が私

全く新しい感覚、、、名前が付いた「私」と名前がついていない「私」、、、境目は名前しかなく、、、事実上全くの一つ、、、、これが湧いてきます、、、、これを感じます、、「私」が感じるのではありません、、たった一つをそのままに感じるのです、、、ただ感じるが起きます。。感じる「私」はもう存在しません、、、感じるがただ起きるのです、、、、

私物語で起こる思考を重視しない

どうせ夢だから

私物語は夢です、、、この夢の中での出来事、、、から起きる感情、思考を重視しますと、、物語に飲み込まれます、、、どうせ夢、、、この感覚が起きると、、、深刻さが薄れていきます、、、「私を軽く扱いやがって」「私を馬鹿にしやがって」「私が利用されているのでは」。。。。全部夢です、、、、そして今起こる出来事は、、、残念ながらこれが現実だ!!!と思い込みやすくなる、出来事が起きます、、、つまり、、、構わずにはいられないような、、出来事、、、が起きます。

だからこそ

だからこそ、、、そこを冷静に観察してください、、、、、見かけ上の「私」が経験した全てが観念化し、、その観念に沿った出来事(夢)が起きますから、、、これは現実だ!!!と信じ込んでいれば、、、これは現実だ!!!と思うような出来事が起きるんです、、、、これはどう考えても現実だろ????という出来事です。

これは現実だ!!!から抜ける

この生きる世界を現実だ!!!と思っていますと、、そう思いたくなるような出来事に満たされます、、、、私の観念がイメージ化された出来事です、、、、今映る現象は全て私の観念が作り出している、、この事実を徹底的に認めます、、、すると起こる出来事に反応しない私が現れます、、、全部観念だから、、、そこに反応しても意味がない、、ただ観念を強めるだけ、、、、反応するということは「これは現実だ!!!」と信じているからこそです。

思考の産物から脱出するには??

思考の産物から脱出する

じゃあ具体的にどうしたらこの思考の産物の世界から出ることができるのでしょうか???これが思考の産物だと思って最初は生活してみるのです、、思考が瞬時に作りだした、、イメージの世界、概念の世界に居るということを強烈に意識します。。。意識に意識させるのです、、、これが思考の産物であることを、、、すると徐々にそれを経験できます、、、確かに!!が出てきます。。。

経験するまで学ぶ

悟りとは根性です、、、悟りとは忍耐です、、悟りとは根気勝負です、、、つまり感じるまで学び続けるのです、、、どこから入ってもいい、、覚者は其々全く違うことを言っているように感じます、、、、ですがそれはこちらが気付いていないから、、、全く違うように聞こえるという事実だけです、、、全く違うように感じるという階段を登っているのです。先ずは理解が起き、それが絶対的理解になった時にそれを経験する状況が起きます、、すると経験が気づきを起こします。

この携帯がアイフォンだと理解すると

アイフォンを知らない人の世界にはアイフォンは登場しません、、、、この格好良い携帯、、、アイフォンって言うんだ、、、へー、、、、から突然、、、、その人の人生にアイフォンがガンガン登場します、、、悟りも同じ、、悟りってそういうことなんだ、、、、へー。、、、が起きると悟りの体験がガンガン起きる、、、先ずは悟りってそういうことなんだねーへーが起きなくてはならない、、、そこまでは根性です。

思考の産物

我々は思考の産物の中に居る

私たちは実は思考の産物の産物の中に存在しています、、見えるモノ全て思考の産物です、、信じられないかもしれませんが知らないうちに思考が作り出した世界の中に閉じ込められているのです。。右を見た瞬間、まだ物を脳が認識できていないこの瞬間、、この瞬間だけが、、本当の世界です。。。逆に言えば、、この一瞬以外は我々は思考の産物を見ているのです。そして見ている私、、これも思考の産物です。

なんのことはない

なんのことはない、、我々は自分が作った思考の産物を見ているのであって神の現象そのものを全く見ていなかった、、本当はいつでも見れるのですが、、、思考が作り出した世界を真実、現実、リアルだと勘違いが起きているので、、、、もう本当に現実にしか見えない世界が登場しました。この夢は現実的過ぎるがゆえに完全に騙されます、、そして現実だという観念がさらにこの夢を現実的にするのです。本当の現実はまさにここに横たわっていますがこれがもう絶対に見えな代物に映っています。

宝の上に現れた代物達

今目の前に宝が凛として佇んでいるにも関わらず、、我々は観念によって作られた宝の代物を見ていますから、、何を手に入れても全くお腹がいっぱいになりません、、飢餓状態、餓鬼状態、畜生状態です、、この空腹感はなんだ???というぐらいに空腹です、、それはそのはず、、視界を変えたその一瞬だけ宝が見えているのですが、、その一瞬しか、、至福に気づかない、、残りの時間は観念が作り出した物語の中に閉じ込められてしまい、、常に宝に飢えているのです。

思考は真実を発見できない

思考はこのストーリーの中で起きる

これが夢であり私物語であり、幻想であることを見抜く、、これが悟りです、、、そしてこの夢を作り上げたのが言葉です、思考です、、、ですから思考とはこの夢の建設請負人です、、、それゆえ思考は真実を発見できません、、むしろ思考がこの夢を絶えず建設し続けています。思考、価値観、観念こそが、、この夢の土台を作る屋台骨なのです。

気づきとはこの思考がいかに夢を作りあげるかを俯瞰すること

この個人という存在が実在する、、そしてこの個人があらゆる経験をしている、、、という圧倒的な大誤解が、、、観念を築き上げ、、、その観念に沿った現実が作られます、夢として。多くの場合、、この個人が居るという前提で思考が起きますから、、思考はこの大誤解を助長することになるのです。観念が新たにリニューアルされていきます、、するとそれに沿った現実という夢が形成され、、イメージとしての個人はそれを経験します。

夢だと気づき始めると

これが夢だという気づきが起き始めますと、、、もう思考はこの私ストーリーを助長する動きを止めます、、私という存在ありきの思考が止まるのです、、これまではこの私が実在しているという大前提で思考が湧き続けましたが、、この私はイメージ、概念、幻想であるという気づきが起きますと、、もうその延長線状の思考が止まります。

TVとは別の思考へのフォーカス

TV中毒

TVを見るのがストレス発散になるのは、、、自分という存在を忘れることができるからです、、、この自分ストーリーから一瞬外れることができます、、、、映画もこれと同じ、、、見ている期間は、、、見かけ上の私ではなく、、映画の主人公になりきり、、そのイメージに同化できます、、、だから多くの人は一日中TVを見たりするのです、、、ですがこれが苦しみを根本から解決できないのは、、、私の人生というイメージへのフォーカスから他人の人生へのフォーカスに一時的に移り変わっただけだからです。。夢の世界に居るという意味では何も変わっていないのです。

映画の世界に逃げる

映画に夢中でいれるのは、、、見ている間、、、この私の人生という映画から目を逸らすことができるからです。映画が終わればまた私の人生がリスタートします。。。そしてそのことを知っているからずっと映画を観続けようが、、、起こるのです。。ですがこれはどこまで行っても、、、イメージの世界です。。このイメージの世界には絶対幸福は存在しません。

映画の主人公がピンチに

映画の主人公が絶対的ピンチに、、、でも楽しい、、、これが映画の良いところです。。これが映画であって幻想であってイメージであることに気づいています。。。。これが答えです。。。この世界、現実の世界も言葉というラベルを貼ったイメージの世界です、、つまりこの見かけ上の私もイメージなのです。。これが分かるともう焦りがなくなる、、怖さがなくなる、、どうでもいい、、、だってイメージですから。。。イメージ上のキャラとしてのこの私は、、、このストーリーの中では絶対に幸福になれない、、、という気づきが起きます。

思考とは何か???

思考とはこの「私」ストーリーの脚本作り

思考とは、、、、この「私」と周囲との関係について最適な行動を取るための作戦会議、脚本作りです、、、思考の中心にはこの「私」が必ず居て、、、私の母の悩み、私の子供の悩み、、私の悩み、、私の友人の悩み、、私の父の悩み、、、と私に関係する全てについての作戦会議になります、、、これは私が居るという感覚を強烈に高め苦しくなっていきます。

学校でステージに立たなくてはいけない、、、苦しい

急に学級委員に選ばれ、、全員に前で挨拶をすることになった、、、苦しい、、、何が苦しめるのか???それはこの私を強烈に意識するからです、、、私がこう見られてしまったら、、私が失敗したら、、私に話下手がバレてしまうのでは????となります、、、この私は実は居ないのに居るという想像行為をしますがこれは真実とはかけ離れていますから苦しいのです、、、家なき子の脚本を書きながら苦しんでいるようなものです。

自分が居ないという絶対的理解の後は全く苦しくない

自分が実は居ないという完全な理解が起きますと、、思考はただの思考になります、、、この自分をどうするか???の思考は消え落ちます、、夢の中の登場人物に対してただ淡々と機能として思考を使うだけになります。個人ストーリーの改善に思考がもう向きません。ストーリーを作り上げる思考ではなく、、ただ機能として思考が湧きます。。

感情を感じないように思考が湧き出す

感情を感じたくない

体にはあらゆる感情が隠されています、、これはその時に感じないように体に一旦ため込んだ感情です、、この感情が湧いてきた時に、、、思考でこれを感じないようにする動きが起こります、、、思考がフル回転してこの感情に蓋をするのです、、この動きが活発ですと、、思考に飲み込まれます、、思考していることすら忘れます、、まさに無我が自我に取り込まれた状態になります、、、無我が消滅します、、、

積極的に体の感情を溶かす

このスパイラルを打破するためには、、体に溜まった感情エネルギーを積極的に解消します、、東洋医学ではどこにどのような感情が溜まるかを明記しています、、、各経絡とはその流れです、、体中をマッサージしたり、太極拳、ヨガ、、などをして体を緩めていきますと、、この感情が解放されていきます。すると感情を隠すための思考の動きが止まります。

思考の動きが止まれば、、、

思考の動きを止めることができればそこから思考に取り込まれるというパターンを壊すことができます、、思考に取り込まれずに、、思考を観察する存在を作れます、、一日中瞑想状態に入れます、、一日中無我でいれます、、思考はそれでも湧きますが、、それは感情を隠すためではなく、、明晰さ(無我)の中で機能的に湧くだけです、、、感情を隠すための湧き上がりではありません、、ここは最重要ポイントになります。

思考が湧いたら無我になる

思考が湧けば自我になるはずが、、、

自我とは思考に取り込まれ、思考していることすら気付いていない状態です、、、無我が思考に取り込まれ、一体化し自我という幻が出現した状態です。これは幻ですから苦しいのです、、、この幻を幻と見抜くには、、思考を観察するしかない、、、思考に二度と取り込まれない習慣を獲得するしかありません。すると常に無我の状態でいれます。

自我同士の人間関係

思考に取り込まれた無我(自我)同士の関係においてトラブルが起きないはずはないのです。。。なぜならば思考に取り込まれているということは思考を観察する存在(無我)が消滅しているからです。何を思考し何を行動しているか、、、全く確認する術がないのです、、、、これが自我のコミュニケーションです。自身が何を言動しているか気付いていない、、、これでトラブルが起きないはずがない、、、

思考が湧くたびに無我に入る

思考が湧くたびに無我になって思考を観察します、、思考が湧くたびにそれを観察する存在(無我)になります、、、すると一日中無我でいれます、、、、この状態が最高に気持ちが良い、平和、安堵、歓喜そのものです、、、思考を使って無我に入られてしまったら自我は出現できない、、、思考に取り込まれ思考していることに気づけない状態こそ自我だからです。無我が思考と一体化した状態、無我不在の状態、、これが自我です。