孤独感

記憶との同一化

記憶=自分

自分という個別意識、分離意識を維持するために重要な要素になっているのが記憶です。記憶があるからこそ自分、自我という存在を維持することができます。記憶なくして自分なしです。この体が体験した経験、それに伴って反応する思考、感情を全部自分のモノとして記憶していきます。この体、思考、感情そしてその記憶の全てを含めて「自分」というものをこの世に誕生させました。これは自我のメカニズム、記憶との同一化です。

年齢を重ねれば重ねるほどに記憶が積み重なり自分も強化されていく

自我は大いなる存在の記憶との同一化ですから記憶が大きくなればなるほどにこの同一化は強化されていきます。つまり年齢を重ねれば重ねるほどに自我は強化されていくことになります。自我が強化されるということは違和感、居心地の悪さ、退屈感、孤独感もより湧き起こりやすくなっていきます、そしてそれを思考で解消しようと思考も湧き上がります。これによって益々自我は強化されていくことになります。再度説明しますが自我、自分とは体、思考、感情、その記憶です。全部が増大されていくことになると同時にどんどん苦しみも感覚も増大していきます。

記憶がお互いの自我を強化する

人間は皆記憶を持っていますから人に会えば会うほどに相手の記憶にこの「自分」という存在が刻み込まれていきます。相手が思っている「自分」とはこの体、思考、感情、記憶のことであり人間関係とはこの認識をお互いに強化する行為なのです。多くの方から名前を覚えて貰えば貰うほどに自我は強化されていきますから苦しくなるのです。自我とはどこまでいっても錯覚、思い込み、勘違いですからそこから負の感情が湧き出してきます。

意識の体体験が動物、意識の体・思考体験が人間

動物と人間では意識の同一化が異なる

意識が体体験をしているのは動物です。意識が思考体験をしているのが人間です。思考体験は人間でしかできません、なぜならば思考は人間にしかないからです。思考の基本は言語です、言語を使いこなす脳を持つのは人間だけです。人間は言語を操ることで思考というものを使いこなすようになりました、これにより意識は思考に同一化したのです。思考が湧くと意識はそこの成り切り思考が見せる世界の中に入り込んでいきます。我々人間が見ている世界は実は思考が作り出しています、その証拠に人間は名前をつけたモノに意識をフォーカスし、名前が付いていなものをフォーカスできません。渋谷駅で知り合いを見つけた時、知り合い以外が見えなくなります。知り合いとは名前がついた存在です。

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることで新しい体験を積むことに成功する

意識は人間の脳、そして思考にフォーカスすることでそれに成り切ることに成功しました。人間が見る世界は思考が作り出した分裂した世界でありその中を人間を通じて生きるという体験を積むことに成功します。意識が意識そのものであることでは絶対に味わえない経験をすることに成功したのです。人間が見る世界は実は全員違います、それは思考が違う、そしてモノに対する名前の付け方も違うからです。名前が違うということは見ている世界が違うのです。人間は名前がついたものをよりフォーカスして見るようになっています。

どの思考の世界を生きようとこの世界が苦しいことに変わりはない

人間は一人一人独自の思考を持つので、独自の世界を生きています。誰一人同じ世界を生きていないというのがこの人間の特徴です。全員が違う世界を生きているのですが、全員が生きるのが苦しいという点は共通しています、皮肉にも。なぜならば自分はこの心身、人間であるというこの考え方認識が勘違いだからです。具体的にはどういう勘違いかと言えば大いなる存在、全体がこの心身に同一化しているという勘違いです。広大無辺な全体がこの有限の体、思考を自分自身であると勘違いすればどうなるか??強烈な閉塞感に苛まれることになります。これが人間のスタンダード、地獄、苦しみ、生きずらさ、孤独感の根源です。

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。

目の前に神(全体)が居るのになぜ居心地が悪いのか?

今目の前に神が顕現している

我々の目の前に広がる世界は神の顕現です。神が顕現化しそこに現れています。どのように見えていようとも神の顕現でないわけがありません。ですが我々は神の顕現を目の前にして居心地の悪さを常に感じています。不足感、孤独感、退屈感、喪失感などです。我々の前に神が広がっているにも関わらずこれらの感情が湧いているということ事実にもっと違和感を感じなくてはなりません。人間とは神を目の前にして退屈を感じる生き物なのです。

もっと先に満足できる世界が広がっているはずだ

我々は神の顕現を目の前にしながら、もっとこうなれば自分は幸せになるはずだ、もっとこういう家に住めれば幸福に、もっと良いパートナーが見つかれば充実するはず、、、と欲望を起こします。ですが今目の前に広がる世界は神の顕現です。神の顕現を目の前にしてなぜ不満が起きるのでしょうか?ここに今回のポイントが隠されています。我々の問題点は神の顕現を目の前にして自分はこの顕現とは違う存在であると確信していることです。なぜか神の顕現を目の前にしてこの自分だけは神の顕現とは別物であると宣言しているのです。これによって居心地の悪さが発生しているのです。

同級生全員の前で自分だけは違う学年である

同級生全員の中で自分だけは実は違う学年ではないか?こんな疑問を持った生徒がいたらその生徒はさぞかし居心地が悪いでしょう。なぜこの学年で一緒になって学んでいるのか?こういう気持ちが常に湧いてきます。これが全体の中の自分です。神の顕現を目の前にしてこの私だけは別物なのだと真剣に勘違いする存在、それが自我、エゴです。この勘違いが酷ければ酷いほどに生きづらい、、これだけです。この勘違いが少なければ少ないほどに生きやすい、、これだけです。エゴ、自我は自分だけは特別であると絶対的に思いたい存在ですがこれが苦しみを生み出しているのです。

目の前の存在が神でないとしたら一体何?

我々の目の前に映る存在、これが神ではないとしたら一体何でしょうか?宇宙、地球、空間、、、なんとでも名称をつけることはできますがではそれらは一体何を起源にして生まれているのか?そう考えると目の前に写り出す現象は唯一のエネルギーでしかありません。唯一のエネルギーを神、ワンネス、大いなる存在、無我と表現します。これが今私の目の前に広がっています。もしも目の前に広がる神が燻んで見えるとしたら燻んでいるのは神ではなく見ている存在の方でしょう、つまり私です。

観察することを「考え」ても無駄

今にあることは思考ではない

負の感情が湧いてきた時にそれを観察する、ただ集中してその感情を見つめる、、、これは思考して理解できるものではありません。むしろ思考こそが観察の邪魔になります、思考を削ぎ落とすために観察に集中するのであってそれを思考すれば本末転倒です。今にある、大いなる一つになる、真我になる、無心になるとはどういうことか?ここに思考で行き着こうとすれば矛盾が発生するのです、ここは絶対に思考では入れない世界だからです。じっくりと負の感情、ペインボディーを観察することで思考を削ぎ落としそこから無心、無我、大いなる一つに入っていくのです。そこには歓喜、平和、安堵があります。

周囲の人間に振り回されている、、、

自分自身は今にあることができても周囲の人間がそれができていない、、だから難しい、、、これも頻繁に聞く話ですがこれは論点がズレています。自分自身が感情を観察できていて周囲の人間の感情を観察できない方が不思議なのです。自分の感情こそ自分ごとでありこれには過剰に反応するのが人間です、逆に周囲の人間の感情など容易に観察できるはずです。観察することに集中するのです、そしてそこから悟りに入ります。そこから無心、無我に入り込みます。自分の体から湧いてくる負の感情観察が一番難しくだからこそそこからの悟りは強いのです。

自分関係に比べたら人間関係など楽勝

自分自身の感情、不足感、孤独感、欠乏感、退屈感、、、、この感情の対処には非常に敏感になります。真面目な方はこの感情を無視することができずこの根絶に命を燃やします。ですが解決をすればするほどに負の感情はより勢いを強めて攻め込んできます。真面目な人がうつ病になるのはこのためです。ネガティブな感情、ペインボディーの解消は真面目に思考を働かせれば地獄を見ます。そうではなくただ見つめます、ただ観察します、観察に集中します。これによってそこから無心、無我、真我に入っていくのです。

「最強のメンタル」は存在するか?

存在しない

本屋さんに行けばこのようなタイトルの書籍が数多く並んでいます。最強メンタル、メンタリスト、土壇場メンタル力、朝からフルコミッションメンタル、タスク処理メンタル術、、、これが人間がまだまだ思考というものの本質を理解できていない証拠です。思考というものは使えば使うほどに自我(これが自分であるという思考)が強化されていき負の感情を湧き出させます。思考をフルスロットルで使い倒せばそのまま負の感情が湧き出てくるのです。思考というのはナイフのようなもので確かに効果があり目の前の問題、負の感情を一刀両断できる力を持っています。ですがその思考こそが自我を形成し得体の知れない違和感を湧かすのです。人間として生きていて感じる孤独感、喪失感、不足感、欠乏感を生み出す真犯人こそが思考に基づく自我です。

目の前の負の感情を蹴散らすからこそ人は思考中毒になる

目の前に起こる負の感情、負の問題点を思考はバッサバッサと切り倒し蹴散らす力を持っています。そのため人は思考を一番の友とします。特に思考が回る人ほどに思考を使い倒すことになる、思考と一心同体、思考と心中するかのようです。ですがこの思考を心の友、中毒化した関係を継続しますとまさかの負の感情が増え続ける結果になっていくのです。思考とは自我を作り出すエネルギーでありそれはそのまま自我の肥大化を起こすわけです。

思考中毒から抜け出すには

思考中毒から抜け出す方法は何か?思考を野放しにしないことです、思考の活躍を応援しないことです。朝から晩まで思考をフル回転させないことです。これらを行えば行うほどに負の感情が湧き出してきて負のスパイラルに突入します。そうではなく負の感情が湧き上がったらそのままそれを観察します、感情が起き上がった状態をしっかりと観察し集中し無心になります。今無心という言葉を書きましたがそこに集中すると感情が消え去って無心状態、無我状態に入るのです。負の感情から逃げるのでもなくそれを臨機応変に処理する必要もない、ただそれを見つめます。ここが神、真我、大いなる一つの入り口です。

気晴らしのレジャーは必要ない?

人間が行うレジャーとは退屈、不幸を感じさせないための予定の詰め込みがほとんどです。何かしらの用事を詰め込んでしまえば退屈、不幸、孤独、寂しさを感じないで済みます。だからこそ皆必死になって予定を詰め込むのです。何も予定を入れなければ死んでしまう、、それほどまでに人は負の感情の扱いに困っているのです。負の感情は逃げても常に追いかけてきます、負の感情は逃げてもまた次の日には起き上がってきます。ですからこれと戦うのはもうやめましょう、これから逃げるのではなくそこを観察し集中し、無心になって無我に入ります、悟りに入ります。

思考に絶対的な信頼を寄せる人間の愚かさ

思考はこの世の王者

思考とはこの世の王です、絶対的な権威です。その証拠にノーベル平和賞に選ばれる多くは最高権威の大学を卒業しています。ですが実際にはその思考が生み出したテクノロジーはこの世界を平和に導くどころか混乱を生み出しています。これに多くの方は驚かないのですが実はこれは思考の本質を見抜くチャンスです。思考とはあくまでもこの世界を構築する一つのエネルギーでしかなくそれ以上でもそれ以下でもないのです。思考というたった一つのエネルギーを絶地的王に据えることで人間も世界も不幸に至らせてしまいました。

思考=感情

思考と感情を完全に別に考える方は多い、、、女性は感情的で男性は思考的、、、、感情と思考は別物、、これが世間の一般常識でしょう。ですが実際は違います。思考のエネルギーが感情のエネルギーを生み出しています。私はこの世界でたった一人の存在だ、、これが自我ですがこの自我システムこそが人間に孤独感、分離感、喪失感、不安感を生み出し続ける元なのです。感情豊かなライオン、感情的なシマウマ、など自然界において感情が溢れておかしくなっているような動物はいません。皆淡々と生きています。苦しみという感情は生物のデフォルトではなく人間というこの自我を形成した動物だけがこれを所有します。

人間を辞めよう

野生動物は穏やかで人間は不幸、、こんな悲しい事実を人間は絶対に認めなでしょう。知能、思考というものを手に入れた人間様がなぜ野生動物よりも不幸なのか?あり得ない、、ですが真実です。人間様だけが負の感情を常に生産し続け全世界の不幸を一手に抱えています。人間様だけがこの負の感情を思考によって即座に解決しますが直ぐにまた負の感情に襲われ終始緊張感を漂わせているのです。これが人間の本性です。思考というものを絶対的に信頼しその思考によって裏打ちされた自分を絶対視することで負の感情を生み出し続ける存在、それが人間です。この人間を一瞬で辞める方法があります、それは感情を観察することです、思考を観察することです、湧いてくる感情、思考に、思考を被せてこれを解消するのではなくそのまま観察者になります。そのまま気づきの意識、無心、無我になるのです。自身から湧いてくる感情を自分のモノとして所有しこれをなんとかしなければと思考フル回転になるのではなくそこから悟りに入るのです。その時人間はいなくなります。

感情の真相を知ると感情が湧かなくなる

不思議な現象が生まれる

感情とは本当に不思議なモノでこれは自我の餌です。自我を食いつなぐために感情は生み出されそれを自我が食べて生き残っていきます。そして自我が肥太れば太るほどに空腹感も上がっていくのでより感情が生み出されるというメカニズムに突入します。そしてその感情の基本はネガティブです。違和感、孤独感、不足感、倦怠感、喪失感、、、これらの感情が湧き続けることで自我は生き延びていきます。このメカニズムを理解しますと不思議なことに感情の湧き出しが静かになります。感情に対する自我の反応、思考の反応が自動反応で起きなくなることで感情が湧かなくなるのか、もしくは感情が静かになることで生き延びてきた自我が縮小化し結果感情の湧き出しが抑えられていきます。

感情的は全く優れていない、、

あの人は感情的だ、あの人は感情が豊だ、、、これは決して悪口ではありません、その人の個性を表現しただけのことです。ですが残念ながら感情の湧き出しメカニズムを理解しますと感情が湧き続ける方は自我が強烈に強いことが分かります。そしてその感情の多くはネガティブですから苦しい人ということになるのです。常にネガティブな感情が湧き続け、それを思考が解決することでさらに自我が肥大化していくという恐怖のメカニズムが進行している人ということになるのです。自我という思考に裏打ちされたメカニズムが居心地の悪さを生み出し、そこから得体の知れない感情が湯水のように湧くのがこの感情の正体です。

自分の思考に絶対的な自信を持つ人

自分自身の思考に絶対的な自信を持つ人はそのまま自分に自信を持つ人とも言えます。これは大変危険な状態でもありネガティブな感情が大爆発するケースでもあります。そしてその感情を常に思考で解決していくことで自我はさらに肥大化の一歩を歩んでいきます。苦しいという感情が湧いてきてもそれを直ぐに解決しなければ不安でたまらない、、なぜならば自分は優れた人間だから。これすらも自身を脅かす脅迫感になって自身を追い詰めていくのです。結果他人を寄せ付けない孤高な人間が誕生します。

成功を自我は自分のものにする

成功とは自我にはとっては最高の餌です。この成功は私(思考)が成し遂げたのだと自我の存続を絶対的なものにします。本当はこの成功こそ集中力に頼った無我の功績である可能性が高い、、、例えばイチロー選手などスポーツ選手を成功に至らせるのは過度な集中力、無心、無我状態でしょう。つまりこの成功には積極的に大いなる一つが絡んでいます。ところがこれを自我は独り占めにする、この思考(頭脳)、人格(自我)こそがこれを成し遂げたのだと威張り散らすでしょう。こうして自我は絶対的な存在に君臨しそこから負の感情が量産されます。自我とは負の感情生産機だからです。

マリオは覚醒後全体とともにプレイが続く

マリオに何かが起きるわけではない、視点が変わる

覚醒とはこのゲームのメカニズムは理解できてしまうことです、腹落ちすることです。覚醒後マリオはゲームのキャラに成り下がります。それまでこれは現実で自身でこの自分だけを頼りに必死に生きてきました。ですがそれからはこのゲームのキャラ、主人公としてのキャラの全うだけが役目になります。この広大な宇宙で頼れるのは自分だけという絶望状態が終わり実はこの宇宙そのものでその中でマリオというキャラを演じていたことに気づきます。マリオという分離した存在はいなかったというビックリするオチです。しかも自由意志と思い込んでいいたこの思考は全体からの現れであり、記憶に基づいてこの思考が湧いていただけだという理解が起こります。感情も記憶とリンクしてこの得体のない不足感、孤独感が変換されたモノだったという気づきが起こります。

気づきの意識はマリオにはなり切れない

全体、気づきの意識はもうマリオになり切って頼れるのは自分だけという心境にはなれません。マリオの裏にプレイヤーがクリエイターがいてそこから自動運転が起こっていたという気づきの後に再びマリオに成り切るのは不可能です。記憶のメカニズム、自我のメカニズムの解明が起きることでもう自我に1日中振り回されることもできなくなります。これまでは何か悲惨な事故にマリオが巻き込まれると、、過去を振り返り何が悪かったのか、何の準備が足りなかったのか?親との関係か?など記憶との格闘が始まりました。ですがその記憶に頼った格闘こそがこのマリオをストーリー夢に引き込む要因です。マリオという分離した存在が所有した記憶に答えを求めてきました。ですがこれが錯覚であることに気づくのです。起きた事件は全体がただ起こしただけ、それにマリオが関わっただけ。もしくはそれを自己として認識するマリオがいただけということになります。全体が起こす出来事に本来は善悪はないのです。

何か事件が起きる度に反省を続ける人間

何か事件が起きる度に反省を続けるのが人間です、事件は全体が起こしたモノでありそこに善悪は全くありません。全体が作り出したアートです。そのアートが人間にとって都合が悪い時にそれを深刻に受け止め反省します。全アートが人間活動を重くしていきます。そうではなく全体が作ったアートとしてそれを観察しマリオは今日もやりたいことをしていきます。自身が全体、気づきの意識であることを認識しマリオをプレイしていきます、全体と、全体がプレイするマリオの遭遇がただ起こり続けていきます。マリオと脇役との重要度の違いはもうなく、マリオも脇役も同価値、同列です。マリオと同じぐらいに価値がある脇役がたくさん出てくるのですから楽しい。

人間ができる前は全体だった

全体の起こりがただある世界

この世に人間ができる前の世界はただ全体の起こり、生命現象がある世界が広がっていました。全体から何かしらの生命現象が起こりそれをただ全体が認識する世界です。花が生まれ、鳥が羽ばたき、虫が動く、、ただそれだけ、、そこに人間という脳を持った生命現象が起こりました、その生命現象は脳を持ち、思考を操り、まさかこの生命現象の中に独自の意識を完成させました、それが今の人間のデフォルトです。言葉という言語で意識を作り出したのです。全体は初めて全体ではない感覚を手に入れることができたのです。この人間という感覚は後付けの感覚です、そのため人間は個別意識と熟睡時の全体意識の両方を所有します。朝起きて人間活動をする時は人間意識、熟睡時は全体意識というわけです。

この人間意識は後付けであり居心地が悪い

この人間意識の特徴は基本居心地が悪いということです、試しに家で一人きり何もしないでボーと外だけを見ていてください。強烈な退屈感、孤独感が襲ってくるはずです。この人間意識は何かをしていないと苦しくて苦しくて仕方ないのです。そして何かしらの行動をとると色々な経験を詰めて充実感が湧いてきます。不足感、充実感、退屈、刺激的、、、このようにこの人間意識活動はどこまで行ってもマイナスとプラスを行き来する世界なのです。釈迦はこれを苦しみの世界と表現しました。全体によりこの人間意識体験は大変エキサイティングで自我はこれを必死になって維持しようとしますが同時にこれは全体という歓喜、平和、安堵がこれを体験しているという自己矛盾を抱えています。そこに帰りたい衝動を抱えています。

人間がプールを楽しむ感覚に似ている

人間はなぜプールという呼吸がしにくい環境で運動をするのか?身動きが自由に取れない中であえて負荷をかけて運動を楽しんでいます。呼吸ができないこと自体は非常に苦しいこと、ですが同時にこの不自由さこそがエキサイティング、楽しさの要因でもあります。これぞまさに全体が人間をやる理由です。人間は苦しい、だからこそ面白いという感覚です。

プールで遊び疲れたら陸に戻るように人間を遊び疲れたら全体に戻る

プールで遊び疲れた人間が陸に戻るように、人間に遊び疲れたら全体に戻ればいいのです。人間という感覚は人間であることに集中するからこそ人間活動ができます。もしも自分から意識を逸らし他に集中でこることを見つけると人間意識が外れ全体に戻れます。没頭できることを見つけていきます。もしくは悟り、ノンデュアリティーというこの究極のメッセージに耳を傾けることです、すると人間であることが後付けであることがはっきりと分かり人間活動が緩んできます。緩めば緩んだ分だけ呼吸ができるようになります。