孤独感

明るい未来を夢見ることで今が暗くなる

明るい未来を夢見る理由

なぜ人は明るい未来を夢見るのでしょうか、、それは今が苦しいからです。。。なぜ人は明るい未来に向けて毎日努力できるのか???それは今が苦しいから、、これ以上苦しくなってしまったら大変、、なんとかして今よりも明るい未来にしがみつこう、、、です。本当は今ここにダイアモンドのような現象があります、本当はこの場所に至福そのものがあります、、すると遠い未来に興味が無くなるのです、、、遠い未来ではなくなぜ今ここにあるはずのダイアモンドが見えないかに興味が湧きます。

今目の前にあるダイアモンド

今目の前にあるダイアモンドの存在をダイアモンドははっきりと分かっています、にも関わらずこの個人の人生は苦しいぞ、、、それでは将来は絶対にダイアモンドのような状態にしてやる、、、これが個人に成り切ったダイアモンドの発想です。ですが本当は個人を抜け落とせば直ぐにダイアモンドに戻るのです。個人としてダイアモンドを成し遂げてやる、、、それも分かる、、ですが個人としての視点こそがこの苦しみ、分離感、孤独感を起こしているのです。

今この場でダイアモンドに至る

この場にはダイアモンドしか存在していません、今です、、ですがここに個人が居るという錯覚が起きることで苦しみが溢れてきました、、ただそれだけが起こったのです。。今もここにはダイアモンドしかないのですが、、思考としての自分、自分ストーリーがダイアモンドの中で起きてしまったのです。そしてこの自分がダイアモンドのような人生を歩むぞとという次なる欲求が生まれました、ダイアモンドから。

常に全体であることを意識する

主語が全体になると面白い

全体の残滓が残ります、常に全体として生き個人を辞めていると全体の残滓が残っていきます、、熟睡から起きた時、、至福がそこに残っています。それが起きている時に起こるのです、、、個人全開で生きていますと、、分離感、孤独感が漂います、、辛いエネルギーで覆われます。その多くの時間を無我に入り全体そのものになっていますと、、安心感がこみ上げてきます。

入り込むことを大切にする

1日の中で何度も集中します、、何かの作業をする際は集中することを重要視します、、集中できない時は無理をしない、、これを何度も行います、、、、自分という存在を捨てて、、行為に没入します、、、すると全体そのものになります、、、何にも集中できない時も、、全体として観察します、、全体として集中が起きるのを待つのです。

体の硬さを取る

体をストレッチしたり、、全身を動かします、、全身にエネルギーが満ち溢れるように体を動かしていきます、、すると五感が開くことで経験が開いていきます、、、経験を感じているのはまさに全体ですから何もしなくても全体で居られるのです、、、「個人で居る」のは思考です、思考がこれを支えています、つまり思考を落としますと個人では居られなくなるのです。常に体を鋭敏にする癖をつけていきます。

孤独感を感じているのも全体(至福)という大オチ

孤独感を全体が感じる????

孤独感を感じているのは誰でしょう、、、全体です、、個人ではありません、、、この世界で起こる全ての感情を感じることができるのは全体のみです。おかしい、、全体(絶対幸福)が孤独感など感じるのはおかしいではないか???そうです、、おかしいのです。全くもっておかしな現象が起きているんです。そしてこの現象を起こしているのも全体です。

個人は感情を感じる力などない

この全体の中に個人という全体とは関係のない存在が生まれるわけがありあせん、、、全体の中に「別個」の存在が生まれてしまったら全体が非全体になってしまいます。するとこの個人は100パーセント全体の表現、現象でしかありませんからこの個人風アートが体感する全ては全体が感じています。一見個人風アートが体感しているように見えても全部全体が経験しているのです。

それじゃあ目の前の泣きじゃくる老婆は本当は辛くないのか????

その通りです、、、老婆の感情を感じるのもこの全体です、、、全体以外に感じる存在は居ません。つまり私たちが見ている世界はスーパーマリオと全く同じだということです。マリオを操っている時、、クッパには感情は一切ありません、ピーチ姫にもありません、、ノコノコにもない、、、そしてマリオにもないのです、、感情を感じるのはプレイヤーです。。。。今回のこの自分劇場のプレイヤーは全体です。

この体がマリオだと思って生活する

マリオだと一日中感じて生活する

この体はマリオ同様3D映像です、五感で感じる蜃気楼です、空からの現象です。つまり空洞、幻影、ゼロ、空即是色です。ですから今日を1日この体をマリオだと思って生活します。そして周囲もマリオゲーム同様3D映像、幻影、空からの現象(色)です。マリオゲームですから歩いても本来周囲の画像が切り替わっているだけでマリオの位置は変わりません。マリオは土の感覚、階段の感覚、アスファルトの感覚を感じますがこれはあくまで感じるのみ踏み込む対象は全て3D映像です。

話しかけれられてもマリオとして対応する

話しかけられることもあるでしょう、その際にはマリオに成り済まし対応します。こちらからマリオとして話しかけても良いかもしれません。マリオになり切らない限り怒りや、憎しみ、嫉妬の感情は湧いてこないでしょう。マリオになり切らない限りそこに映る現象(人)と本気で仲良くしたいなど思わないはずです。つまり人間関係(映像関係)は軽いのです。深刻になれません。

マリオは腹が減るのだから働かなくては、、

問題なのはこのマリオは腹も減るし、光熱費も払わなくてはなりませんから、、まあまあ面倒なわけです。ということで働かなくてはならないでしょう、ですがマリオの名誉のために働く、マリオの名声のために働く、マリオの評価を上げるために働く、マリオの女受けを良くするために働くといった衝動は到底湧いてきません。なぜならばマリオはただの3D映像です。そういう意味ではかなり気楽でしょう。

マリオから出てくる欲求が少なくなっていく

この体をマリオだと思って生活していくとなぜか欲求が減っていくのが分かります、なぜか孤独感が少なくなっていくのが分かります、なぜか不足感が少なくなっていくのが分かります。これぞマリオマジック、悟りマジックです。この世界のカラクリが見えてきて同時に苦しさが無くなっていくのです。なぜならばこのマリオが実在しているという本気の思い込みこそが「苦しみ」の根源だからです。逆に言えばこのマリオゲームではマリオが実在しているという思い込みからくる「苦しさ」を脱してしまったらもう負の感情は湧きようがありません。それしかないのです。

人に会えば会うほどに孤独感を感じやすくなる

相手は必ず自分感覚を強くする

人との会話とは「自分」と相手を生み出します。相手は必ずこちらの名前を呼んできますからそこには確実に名前が付いた存在を感じるわけです。自分という感覚が強化されるに決まっているわけです。だからこそ人は孤独になると人と会いたがりそして人と会うとでより分離感、孤独感を強めていくのです。友達は多ければ多いほどに良い、これは自分感覚が強い証拠になります。自分とは本来存在せずこれは感覚でしかありません、この感覚が強化されればされるほどに分離感、孤独感は強化されるのです。

一人の方が楽、、は至福と友達である証拠

一人の方が楽、、これは孤独感が強い人には無理な発想です。自分という感覚が強い人には信じられない発想です。ですが一人が楽というのは本当です、一人の時人は自分を意識しにくくなります、呼びかけてくる相手が居ないからです。そして何かに夢中になって静寂を知り、目を閉じて静寂に触れることができれば常に静寂(至福)が目の前にあることを肌感覚で知っています。静寂の場所、至福の場所がいまここにあることを知るのです。

至福が常に在るのに人に会わなければはない

自分から静寂、至福に会える人が、、人間という相手を渇望するということはありません。1日に何回か会話ができればいい、に切り替わっていきます。自然とそれが起こります。そして常に静寂の中に入りたいが起こってきます。常に至福に包まれたいが起こってきます。この衝動が起こり始めると悟りは近い、人間よりも静寂、至福への渇望が起こっているのですから。

孤独を感じやすいのは静寂を知らないから

人と居るよりも静寂が心地よい

人と一緒に居るのが好きな人は自分感覚が強い人です、自分感覚があれば分離感、孤独感は湧き出し続けますから自然と人と一緒に居たくなります。私は一人ではないを感じることが出来るからです。ですがこれは分離感自体を減らすことではありませんから常に誰かと一緒に居続ける必要もでてきます。静寂を常に感じることができる人は人を必要としなくなります。静寂とは根源であり根源とは至福です、至福に触れ続けれる人にとって人は逆に自分を意識する存在になりますから疲れるわけです。人と一緒に居て疲れるのは相手は話しかけて来ますから自分を意識しやすくなるのです。分離感と一人ではないが沸き続けます。

目を閉じて静寂に入る

人はいつでも静寂に触れることができます、それは目を閉じることです。目を閉じれば名前がついた物が消え去ります、物が消え自分も消えます、、熟睡中に孤独感を感じないのは当たり前でそこには自分という感覚が存在しないからです。起きるとなぜ孤独感を感じるのか?それは自分を意識するからです。目を開くと自分の所有物が飛び込んできますし、体も飛び込んできます。これによって自分とあらゆる物という幻想の世界が広がるのです。目を閉じると幻想の世界が消え去り静寂の中でただ音がする世界が広がります。これを1日に何度も行います、すると自分という感覚よりも静寂に触れる時間の方が増えていきます。孤独感が消え去り静寂に包み込まれていきます。

何かに夢中になる時

人は何かに夢中になる時我を忘れます、実はあの時間は静寂に包まれています。何かに夢中になっている時に雑音が凄まじかったという記憶はないでしょう、何かに夢中になれる人は体感で静寂を知っている人です。そしてこの静寂が心地が良いために人に会って孤独感を埋めるよりもより何かに夢中になることを優先するのです。静寂に触れる方法の一つです。

幻想の自分を逆に大切にする

幻想としての自分をしっかりと大切にしていく?

一番辛い状態、それは幻想の自分を完全な実在として思い込み、、自分を強く強く守ろうとすることです。強く強く幻想の世界に入り込んでいます。大人は現実を見ろと子供に言いますが大人こそ現実ではなく幻想をしっかりと見ています。子供はこの大人は何を言っているのか最初意味が分からないのです。この大人はなぜいつもイライラし焦っているのか???幻想の中にどっぷり浸かってしまった大人は何をしても分離感、孤独感、不足感が湧き続け苦しんでいるのです。先ずは自分という感覚を無自覚から自覚的になることからスタートするのも一つです。

自分という感覚を持っていることに自覚的になる

自分という感覚をしっかりと持っている、本当はただの肉の塊である生命現象の一部を「自分」という言葉を付けてそれが実在するように振る舞っている、本当は根源の現れの一部にも関わらずそこに名前を付けて実在しているように感じている、、朝起きて直ぐにこの体を自分だと再認識しストーリーを始めている。こうしてこの自分ストーリーに自覚的になっていきます。

全ての経験を「自分」が所有している

朝のコーヒーの味、仕事での成功、友人との楽しい食事、、、これらを「自分」が獲得したと信じているのです。自分というこの確かな感覚が全経験を所有しています。ですがこれはあくまで幻想なのです。ですからどこまでいっても分離感に襲われ続けるのです、この分離感が辛いからさらなる経験をしてこの分離感を埋めようとするわけですからそれを所有するのは結局「自分」という感覚ということになりこのラットレースは続くということです。こんな「自分」を愛するのです、こんな一生懸命な自分を愛してあげてください、ラットレースを走り続ける自分という感覚を微笑んでください。この自分という感覚が無ければこの幻想ゲームは成立しないのですから。

探求はどこから生まれているのか?

探求も根源からの現れ

探求したいという欲求はどこから生まれているのでしょうか、仏教を極めたい、神道を極めたい、茶道を極めたい、趣味を極めたい、、なぜ人は何かを極めたいのでしょうか。。。答えは簡単、今に満足できないからです。今が不満足だから何かを究めたいという欲求が生み出されるのです、根源から。自分という感覚は欲求不満生臓器です、自分という全体から分離した感覚を作り出すことで不足感を生み出しそれを埋めたいという欲求が根源から湧き出します。その欲求こそが何かを究めたいという探求になるのです。

探究心が強い、根源を知っている証拠

根源に深く触れたことがある人は再びそこに戻りたいという欲求が強くなります、それが探究心です。何かを究めたらあの感覚に触れることができるのでは、あの感覚に戻れるのでは、、これが探求を始めます。全体は分離感覚を作り分離ゆえの孤独感、悲壮感、不足感を味わうことに成功しました、全体感覚を垣間見ることで全体への帰還意識を強く強く覚えるのです。

気づきが後戻りすることはない

良い音楽に触れてその感覚がなくなることがないように、素晴らしい芸術に触れてその良さを忘れることがないように、気づきとは後戻りすることがありません。探究心というものが衰えることがないのは、一度全体、根源に触れた人間は根源への欲求が衰えることがないのです。それを忘れるということができないからです。ということで今探究心が強いならばそれが衰えるということはなくその事実こそが悟りに触れてきた証拠になります。

自分が居なければ苦しむことはできない

なぜ野生動物は苦しむことができないのか???

野生動物は孤独感、悲壮感、怒り、苦しみを感じることができません、彼らはそれらの感情思考を感じる術がないのです。なぜか???自分という自我が芽生えていないからです、自分が居るという思考が湧いていないからです。これがないとなぜ喜怒哀楽が湧かないのか??それは攻撃されても罵られても個人というアイデアがなければ反応できないのです。何かを盗まれた時に自分のお金という思考がなければ怒ることができません。ただお金が無くなったでは怒りが湧きようがないのです。

人間の脳は進化し自分を作り上げた

人間の脳は進化し野生動物とは全く別次元の活動を始めました。それが思考活動です、この思考活動が自我を形成し自分の餌、自分の土地、自分の獲物、自分の寝床、自分の領地、自分の縄張りを強化していったのです。これは自己生存保存能力最大の強化になりました、、ところがこの自己は、、、他者からの侵略に対して過剰に反応します、、これが全苦しみの元です。自己保存能力強化と引き換えに苦しみを作り上げたのです。

この事実をただ認識する

この事実を認識しますと、、、怒り、むかつき、悲しみ、孤独が湧いてこなくなります。なぜならばこの感情、思考は自己強化戦略の副作用に過ぎないからです。本当は自分など存在しない、戦略上作り上げた方が良かっただけ、だからこそこの喜怒哀楽の感情に振り回される必要がないのです。戦略的に自己を作り上げ結果人間という種族はこの地球上で繁栄した、だがこの自己は他者からの侵略(攻撃、批判、中傷誹謗)に過剰に反応する、、結果人生が苦しくなるというメカニズムです。

苦しみの本質は真実ではないものを真実と思っていることから生まれる

苦しみとは回答結果

今苦しみがあるならば簡単、それは真実ではないことを信じている証拠です。苦しみとは真実が教えてくれる警報みたいなものです。真実ではないことを真剣に信じたり誤解することから生まれます。逆に言えば真実を理解できたら苦しみは湧いてこないのです。ではその真実は一体なんでしょうか、、真実とはこの個人という概念が概念に過ぎずそれが錯覚であることを見抜くことです。逆に言えばこの個人という存在を強く信じてれば信じるほどに苦しみは湧いてきます。自分を信じる、こんな綺麗な言葉が実は真実ではないのです。

世の中99.99999%の人は実はこの誤解を真剣に信じている

世の中のほとんどの人はこの誤解を完璧に信じています、ですから自分自身が今苦しいんだ、他の人は楽しそうだ。。。そういう孤独感に苛まれているなら安心してください、、、ほぼ全員が苦しんでいます。もしも今楽しいと思っている人がいればそれはその苦しみを上手く回避できているだけです。例えば夢中になれる対象や趣味、人が生まれた時などです。もしくは夢中になれる対象がたまたま続く時なのでしょう。ですがこれはラッキーでしかなく本質的な部分では常に不安を抱えています。なぜならば苦しみの根本原因を知らないからです。

苦しみから逃げるか、苦しみに向き合うか

苦しみから逃げ続けるのもよし、苦しみに立ち向かい苦しみを根本的に解消するのもよしです。私は昔から本質的に部分に入っていくのが好きなので常に戦ってきました、時には苦しみから完全に逃げてきた時期もありました。今は苦しみの本質に常に触れることを楽しんでいます。苦しみは湧いてくる場所、こここそが我々の本質です。本質は我々が誤解をしている期間はいつでも苦しみを湧き出してきます。