孤独感

動くな

自我の動きを止めろ

この私、イメージの私、概念の私はこの物語の世界で、夢の世界で、概念の世界で、、、、動き廻ります、、、そのままでは苦しいからです、そのままでは不足感、渇望感、孤独感が襲ってきますから、、、何かを求めます、、、その何かは「私」には実は分かっていないのですがそれでも求めずにはいられません。これがこの世界に生きることが苦しみをさらに生み出します。悟れば分かります、、この求める動きこそが苦しみを終わらせないことを、、、、ですから覚者は言う「動くな」と、、、、

動いたって無駄

いったい何年間動き続ければ気が済むのか、、、自我に任せて動き続け、、、本当の幸福を得たことはあるのか???という話です。ないはず、、、この地上で横に動き回っても、、思考を動かし続けても絶対に至らない幸福を手に入れるためには、、、先ずは理解することです、、、動いても手に入らないことを。そして今この場所、、、ここに全生命エネルギー、森羅万象の動きがあり、、、それに気づく存在が居る、、この両極の存在が私です。

この夢の動きこそ

この夢、幻想の動きこそが私です、、この夢、幻想の動きを支える場所こそ私です、、、この見かけ上の「私」を生み出す存在こそ私です、、全思考、全感情、全行動を生み出す存在こそ私です、、、全動きが在るから動きのスペースの存在(空)が現れ、、スペース(空)が在るから現象(色)が現れます、、色と空は一つであり、、、それが私です。ここに気づくためには先ずは見かけ上の「私」の動きを止める必要があります、エゴ、自我、自己意識と呼ばれる存在の動きを止めます。

分離感こそが私

分離感そのものが私

このたった一つのエネルギーがある世界で分離感というエネルギーが生まれました、、このエネルギーこそが私自身です、、、分離感を作り出したのも私(真我)それに気づく存在も私(真我)です。分離感はこのたった一つのエネルギー(真我)の中でただ起きました、、そこに理由はありません、、、あらゆる変化が起き続けるこの真我の中で、、、それがただ起きたのです、、、そこに理由はありません、、、

その分離感が起きて

その分離感が起きることで、、、この私と私以外という世界が誕生しました、、これも真我(空)から起き真我がこれを感じます、、、私を取り巻くストーリーが起こったのです、、、、何度も言いますがここに理由はありません、、、ただそれが起きたのです、、、このストーリーは苦しみが伴います、、閉塞感、孤独感、分離感、、、これを解消したいという衝動も起きる、、真我(空)から。。。。

そこでこれを解消しようとする動きが起こる

そこでこれを解消しようという動きが起こります、、、真我(空)から、、、その動きに気づきます、真我(色)が。。。この動きは多くの場合、、、ストーリーの中で解消しようという動きになります、、それがお金、異性、地位、名誉、安定、、、、となっていくのです、、、ですがこの夢、ストーリーの中では全くもって解消されないことに気づきます、、、この気づきが起きます、、、

絶望が起き、、この解消を悟りに求める

悟りという言葉は知っている、、、恐らくこの現実の中で何をやっても解決しない時にそこに意識が向くのだろうというぐらいの知識、、、ですが本当にそこに意識が向く時が来ます、、、全員が。なぜならばこの苦しみはこのストーリーの世界では解決しないから。これは究極の諦めです、、、心からの諦めですから、、、この現実でまだ可能性を感じている期間は難しいでしょう、、完全なる諦めが必要なのです。

スマホが手放せない

苦しいが孤独

言葉が作り出したイメージの世界、ストーリーの世界に閉じ込められますと、、スマホが手放せなくなります、、なぜならば、、、孤独だからです、、分離感全開、孤独感全開になり、、スマホで友人からのLINEを待ち続けます、、、ですがストーリーの世界に閉じ込められたままでは苦しいは全く解消されない、、友人から連絡がきても苦しいままです。本当は苦しい、だけど孤独感を解消するためにLINEを待ちます。

私というイメージ

私というのはイメージですから、、意識しなければ、、存在しません。。意識することで私というイメージが現れ、、孤独感が湧いてきます、、、つまり私というイメージを意識しなければ、、、孤独感も湧いてこないということになります、、、ですが多くの方はこのことを知らないので、、、一日中私というイメージを意識し続け、、孤独感解消のために人にLINEに奔走します。

私というイメージを意識しない

私とはイメージであり、、意識しない限り存在しない、、このことに気づきますと、、、あえて私をイメージする必要がなくなります、、、完全な真我として一日中過ごすことができます、、、過ごすというのもイメージですね、、、真我としてそこに在ることができます、、、この状態が静寂、平和です、、

作り、イメージし、感じる

この現象界は

この現象界はたった一つのエネルギーの変幻自在の活動が先ずあります、、これはたった一つであるゆえに、、、独立分離した存在はこの中では存在できません、、、もしも可能とするならば、、、この世界の中でイメージをするしかない、、これを可能にしたのが「言葉」です。。音の組み合わせを使って、、、この世界の中に「独立分離した風」の作品を作っていきました。この見かけ上の私も全く同じやり方です。これでこの世界には私が居て、親がいて、兄弟がいて、家があって、、学校があってと、、、分離物体が急増していくわけです。

本当は今も一つ

本当は今も完全に一つのエネルギー場です、、、この中で言葉を使いイメージ活動をしています、神が、、神が言葉が作ったイメージをこの現象界に重ね合わせ、、、独立分離した世界にやはり独立分離した私が居るというイメージ活動をしているのです。。。このイメージ活動が上手くいきますと、、、孤独感すら湧いてくるようになります、、、完全な成功、、イメージがしっかりとできている、、、私が孤独だ、、、はイメージ力の賜物なのです。。。なぜならばそんな存在は、、、イメージ上のものです、、、イメージ上の私が、、、孤独感を味わう、、、凄いことです。映画を観て泣くのと全く同じ、、、これもイメージの世界です。

神の感じるという力

このストーリーは神の完全なるイメージの力です、、、、言葉を生み出し、、イメージを想像し、、この現象界を分断し(イメージ)、、その中のやはりイメージである「私」を登場させ、、全経験をこの「私」が所有し、、時間のある世界(イメージ)の中で生きている、、、時間も言葉、、これもイメージです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、、時間はこの世界には存在していません。神はたった一つのこの現象界に独立分離した「私物語」を作り上げ、、、感じています。

I AMは常に今在る

この夢はI AMが見ている

この夢の傍観者はI AMです。この存在が熟睡から起きると経験を回収していきます、実は夜寝ている時の夢もこのI AMが傍観者として経験を回収しています。夜見る夢は、、全く無駄のではなく、、この夢の延長線上にある夢なのです、、、そして全部が全部I AMが回収しています、、夢の中で起きる全部の出来事をIAMが回収するのです、、、全出来事ですから、、この体から湧く思考の全て、、感情の全て、経験の全て、登場人物の全行動、、です。

夢(現実)の中で夢を見る

これは夢です、、この夢の中で、、この個人は思考を繰り返したりします、、この思考フル回転状態とは夢の中(現実)でさらに夢を見ている状態です、、誰がIAMです。夢中毒状態です。その思考の内容とは全部が全部この体の中にいることになっている「自分」が中心に思考される、、完全なる勘違い状態、孤独感が湧き出す、、これをIAMが感じます、回収します、、、夢の中にこの体があり、この自分がその中にいることを完璧に信じた状態、、自分という真我を自我に切り替えた状態、、苦しいが湧く状態です。

「苦しい」がこの夢を気づかせる

これが夢だという気づきは、、苦しいという感情の回収が大きく作用します、、苦しいという感情が、、夢を見る私を、、この個人という体の中の存在を解体させます、、、この体の中の自分に構っていると異常に苦しいぞ、、という気づきです。。さっきから思考フル回転でいるがなんか凄い苦しいぞという気づきです、、なんか分からないが、、この体の中の自分に構わない方が、、楽だけどなぜ???すると悟りのメッセージが響くようになります、、個人が不在であり、これが夢だというメッセージが腑に落ちるのです。

今この全てを作り出し他に何を求めるか

ラグジュアリーショップにて

例えばラグジュアリーショップに行くとします、、、このお店にある全ての宝石を宝石在らしめている存在こそ私です、、、お店の店員さんを店員在らしめている存在こそが、、、自分です、、、にも関わらずこのお店でどうしても宝石が欲しいという感情が湧くでしょうか???湧きませんね、、だって最初から自分が作り出しているのですから、、、

高級車販売店にて

高級車が並ぶ販売店にて、、、この高級車を高級車在らしめている存在こそが自分です、、、ではこの車をこの体が買う価値はなんかあるのか???ありません、、、、自分で作っておいてなぜ買うのか???多くの方が高級車を購入したい理由は機能ではなく、、、見栄、プライド、他己評価です、、この車を在らしめている存在がはたして他人の強化を気にするのか?という話です。

自分を小さく小さく評価して

高級品、高級車、高級住宅、、これらを購入する人々の動機は、、、、これらが何かを埋めてくれるのでは?という期待です、、、他人からの評価、称賛、自己顕示欲、やる気、勝気、、なんでもいいのですがこれに何かを期待するのです、、、、その根本原因はこの体の中に自分が居るという低評価です、自己卑下です、、自ら自己卑下をして、、、、不足感、孤独感、閉塞感、不快感を作り出し、、、それを埋めるために毎日焦って行動するのです。

自我のたわいのないお喋り

面白いかどうかではない

自我は生存戦略として自分を認めてくれる人を探し出し、、ただひたすらに相手にしてもらうことを作戦上とります、、、本当は自我は存在していませんから、、自我常に不安で不安で仕方がないのです、、、すると相手とのコミュニケーションは、、自分の話を聞いてもらうこと、、ただこの一点に尽きます、、ということで自我のおしゃべりはたわいのないもになるのです、、、相手のためではなく、、、この自分の存在を認識してもらえるかが最重要なのです、、、目覚めに近づいていきますと、、この自我のおしゃべりが退屈になります、、なぜならばその会話には意味が全くないからです

相手の存在を認めてあげるジレンマ

相手の存在を認めてあげれば当然相手は喜びます、、居ないにも関わらず居ると信じてくれる相手は最重要です、、、ですがこの話こそが相手の自我存続をさらに加速させます、、、安定させます、、ということで気づきが進んでいる方は、、この会話に意味を見出せません、、、くだらない時間だと思います、、

認めてもらいたい、認めてほしい

認めてもらいたい、認めて欲しい、、このやりとりこそが自我の延命共同戦略です、、、会話はこの一点に集約されます、、、、そして多くの場合このやりとりは成功を収め、、、自我は安泰の状態になる、、、ところが家に帰ると、、、苦しい、、、孤独感、、になります、、、、つまり自我を強く意識するということは真実から外れるのです、、結果苦しい、、、この終わらない苦しみに気づくと、、、コミュニケーションが変わります。

この部分は人には見せないようにしよう

本当はアートが大好き、、でも見せない

幼少期に本当の自分を出さないようにすることで、、、両親から嫌われないようにする、、というのは子供の生存戦略です、、、例えば教育熱心な両親の元で生まれたならば、、、アートに興味があるなど言わない方がいい、、、となります。ですがここで押さえ込まれた感情、才能は、、、個人の中に分離を作り、、、この分離が見える世界を分離させるという投影を作るのです。

自分の中の統合、、、

本当はこれをやりたかった、、、、本当の自分はこんな自分、、、本当はこんな弱い部分もある、、、本当は、、、、こうやって隠しきた部分が自分の中にありますと、、、その隠した部分と表に出してきた部分の二極化、分断化が生まれます、、、これが見える世界を分断化、分離化させます、、、つまり自身の分離が見える世界の分離、、分離感、孤独感です。今見える世界が、、、息苦しく見えるならば、、、自身の分離を解消してしまうことです。。。本当は、、、の自分のパーツを絶対肯定していくのです。

そんなこといきなり言われても、、、

そんなこといきなり言われても、、、何からしていいか分かりません、、、そのような時は体に意識を向けます、、体の動きを改善していきます、、体の細胞一つ一つを意識的に動かしていきます、、ヨガ、体操、太極拳、水泳なんでもいのです、、、すると体中に溜め込められた感情が溶け出し、、その感情に自覚的になるのです。その感情には嘘がなく、、、それが隠してきた自分です。自分の再統合が起きます、、、いきなり、、、海外に行きたくなることもあるでしょう、、いきなり音楽をしたくなるかもしれません、、、いきなりジャニーズの追っかけになることもあるでしょう、、、、いきなり氷川きよし改めKIYOSHIのファンになることもあるでしょう、、、体の中の感情を溶かし、、、その感情に素直になって動くことで自身の再統合が起きる時、、見える世界の再統合が起きます。

生命そのものが生きる目的を探すというギャグ

本来生命そのもの

生命そのものはそれだけで充実感で弾けています、、、生命そのものの目的があるというならば生命として輝くことです、、そして我々は生命そものであって生命以外にはなれないしなったことがない、、もしも出来るならば生命そもものがこの私という名称にフォーカスし、、小さな小さな存在であることに生きるをすることぐらいです。これが苦しみを生み出します、これが閉塞感を生み出します、、これが孤独感を生み出すのです。

ここから生きる目的が必要になった

自然豊かな環境で生きる人々には生きる目的が希薄です、、なぜならばその場で生命が溢れその場で幸福だからです。小さな小さな存在である私を生きることになった全生命は、、、窮屈ゆえに生きる目的を探し始めます。窮屈ゆえに目標を生きる理由にします、、窮屈ゆえに次の目標に生きる理由を見出すのです。ですがこれらの目標は生きるを豊かにはしてくれません。生きるを貧しくしているのはこの私だからです。

社会的動物

社会的動物である我々は「自分」を完全に捨てることは不可能です、、この自分、私にはしっかりと責任がのしかかっているからです。ですがこの私、自分を過剰に意識しなくていい状態にはもっていけます、、なぜならばこの「私」「自分」は便宜上付けられた名称に過ぎないからです。便宜上月9の主役になった俳優は、、それが便宜上であることを知っています、、、我々も便宜上「自分」「私」をやっていることは十分分かっているのです。これによって多くの時間を「私」ではなく生命そのものに戻れるのです。その時生きる目的は必要ありません、すでに十分生きているからです。

言語を覚える前から気づきは確実にあった

自分など存在する前から気づきがあった

言葉を覚え、この体を自分と記憶するまえから、、、ずっと気づきの意識はありました、光を感じ、空腹を感じ、気温を感じる感覚は確実にありました、、、これが気づきの意識です。。。我々は恐らくこの気づきの意識の中にずっといます、、、この気づきの意識が無くなることは絶対にない、、、熟睡中もこの気づきの意識の中に居る、、、ただその記憶がないだけ、、、起きている最中は必ずあり、熟睡中もある、、、記憶があるかないかの違いだけです。

常に気づいている

この私が怒っている、、、これに気づいているのは気づきの意識です、、この私が幸福を感じている、、こレに気づくのは気づきの意識です。気づきの意識その外に我々は出たことがありません、常に気づきの意識の中で存在しています。だから全部気づけるのです。思考を覚えるはるか前から気づきの意識は確実にあり、、ただそれを記憶していないだけです、、

孤独感はこの気づきの意識の存在を忘れているだけ

孤独感とはこの気づきの意識の存在を忘れ自我に没頭している時に起きます、、あれたった一人しかここに居ない、、こうなります。違います、、、気づきの意識の中に全てが在ります、起き上がっています、、全ての経験は気づきの意識を通じて起きており、これは人といようが居まいとと同じことです。気づきの意識の感覚をもっていれば孤独感が湧いてきにくくなります。なぜならばそこは絶対的安心の場所だからです。