大いなる一つ

完全な知、経験、感情の先に気づき

先ずは知ること

非二元、悟りに関して重要なこと、それは究極の目的に目覚めることです。これによって究極のエネルギーが入り込んできます、ですがこれだけでは究極の気づきには至りません。重要なことはそれをこの体を通じて体験していくことです。究極の世界を体を通じて感じていくことです、何かに集中することで無我を知る、体の感覚に集中することで無我に入る、あらゆる体験の中から究極に触れていくことです。

無我に入ると歓喜が襲ってくる

無我に入ることに慣れていくと、、歓喜、平和、安堵が襲ってきます。その状態こそが目指すべき究極の場所であることを体、感情を通じて分かってきます。その場所はホームであり、神であり、大いなる一つであることを肌感覚で感じていきます。自身が小さな神で小さな神体験を今はやっているだけ、その事実を体験を通じて感じていくことが出来ます。

究極の気づき

先ずは知識として大いなる存在の世界を理解しそこから体を使ってそこに近づいていきます。そしていかに長い時間をその場所で過ごせるかをやっていきます。小さな神体験での大きな神への帰還を自主的に行っていきます。体は徐々に大きな神に馴染んでいきます。すると大きな神の方から小さな神に近づいてきます。これが究極の気づきです。打ち震えるような感動、感嘆、衝動を覚えるようになると究極の気づきは早いです。

量子物理学は観察者が結果に影響することを解いた

観察者の価値観が結果に影響する

量子力学はこの世界を物理学の視点で紐解きました。観察者が結果に影響を与えるというものです。当たり前ですがこの世界は観察者の脳内で観察されます、脳内はこの大いなる一つ、全体を分離錯覚させる機能です。観察者の価値観がこの一つなるエネルギーを分離して見せているのです。観察者の心理的影響を物理実験が影響を受けないわけがないのです。

人間とは神のミクロ体験

人間生活、人間人生は、、神のミクロ体験です。大きな神が全体だとすれば小さな神は人間です。小さな神はこの脳内に世界を作り出しました、大なる一つ(神)を人間が眺めると、、人間の価値観が如実に影響する世界が誕生します。人間の価値観に準じた分離の世界が目の前に広がるのです。この体験を大きな神はやってみたかったのです。小さな神は独自の世界をクリエイトしその世界の中で大冒険します。

小さな神は冒険に疲れると大きな神に再吸収される

小さな神は大冒険をこの世界で続けていくわけですが、、、本当の大冒険は自身が実は大きな神だったという気づきです。小さな神として活動を続けてきましたが、、実は大きな神こそが自分だった、、そしてこの広がる世界こそが自分だったという発見が起こります。まさかの自分の中を動き回っていたという大落ち、ギャグ、ジョークをしていたことに驚愕します。

「我在り」として存在するか、その中の「自分」で居るか

ストーリーの中では自分が出しゃばる

この自分ストーリー、この人生劇場の中に居れば、、周囲はこの「自分」に話しかけてきます。そのため自分はその度に再起動し「自分」を強化します。この体の中の思考、感情を含めた「自分」がこのストーリーの中んではデフォルトですからそれは当然です。ですがこれによって「自分」という存在が錯覚から実在になるわけでは絶対にありません。あくまでこれは錯覚の世界を抜け出さないのです。「自分」という思考が強化されるだけです。

ではこのストーリーの世界から抜け出るには???

ストーリーの世界の中に居る限り「自分」を強化する要因が多くあります。この「自分」がデフォルトのストーリーが延々と続いていきます。ではどうやってこれが錯覚であることに気づくのか???自分というのがいかに錯覚であるかを理解していくことにあります。トリックとはネタバレしていないからトリックであってネタバレしてしまったらトリックはトリックとして成立しないのです。ひたすらにこのネタバレを理解していくほかありません。もしくは事実にのみ向き合っていくこと、事実に向き合い続けることで事実に馴染み、究極の事実が向こから出現します。究極の事実とは本来の自分、エネルギー、大いなる一つです。

自分のメカニズムを理解したら、、もう自分に集中できない

自分とは圧倒的な錯覚がより集まって絶対的なものになっています。錯覚の寄せ集めがこの自分ですからこの錯覚のカラクリを暴き続けていけばいずれはカラクリに引っかかることができなくなります。カラクリとは裏側を知らないから騙されるのであって知ってしまえばそれは不可能です。ということでこの錯覚の仕組みを理解していくことは重要です。

「私は在る」は思考???

「私は在る」は思考ではない

「私は在る」という感覚、これは生まれてきてから今まで一切途切れることはありません、こも感覚、、この世界に間違いなく「在る」というこの感覚こそが我々をhuman ではなくhuman beingにしている根拠です。何をしていても何を考えていても、、この「在る」という感覚だけは不変です。不変のものが思考であるはずがなく、、「ある」とは神の意識です。そうです、我々はいかに人間活動をやっていても神の「ある」という感覚の中でそれが行われているだけなのです。

「私の在る」と「他人の在る」は同じ

「私は在る」と友人が感じている「私は在る」は別人の在るなんでしょうか、、、、違います同じ人の在るです。そうです神の在るです。世界中80億人の「私は在る」は全部同じ存在が感じているのです。それを神、ワンネス、大いなる一つ、、と呼称します。個人は皆この「私は在る」の存在を深層心理では認識していますからここに戻りたいのです。恐ろしく楽しい時も恐ろしく辛い時もここに戻りたいのです。そして戻ることを「目が覚める」と表現します。

「熟睡時」の感覚は楽しい夢よりも偉大

夜、夢を見る際には皆わかっています、、、楽しい、楽しい、エキサイティングな夢を見るよりも熟睡後の恍惚感の方が間違いなく上であると、、、大金持ちになり、大有名人になり、全てを手に入れた男の夢を見るよりも、、熟睡後の幸福感が上であることを。。これは全員が気付いています。そうです、、この人間人生でいかに楽しく最高で快適な生活をしようとも、、「私はある」の感覚の場所に戻ることの方が偉大であることを皆知っています。だから多くの方が太古の昔から宗教を求め神を求め続けてきたのです。

PCの機能は全部プログラム言語で成り立つ

言語は言語ではない

人間は日常生活で使う言葉を無意識に使います、言語とは仕事やプライベートを円滑に進める道具だと思っています。ですが実際にはそんなモノではありません。言語とはこの世界を構築しているのです、この世界は実はあなたが使っている言語でできています、意味不明ですね。なぜならば、、、もしもあなたが言語を何も知らなかった場合、、、、全くの別世界に住んでいるからです。そんなはずはない、、、同じ人間が見る世界が、、異なるはずはない、、そう思っていますよね、、全然違うのです。実は我々はたった一つのエネルギーを言葉によってモノ化、者化しそれを見ているのです。例えば宇宙人が地球に降り立ち人間を見れば眼鏡は体から特出しているように見え、洋服は体の模様として移ります。そしてスマホは完全に体の一部、、、全く分離していないのです。靴を脱げば、、、足が取れたと驚くはずです。

価値観は、、、

それらの言語、そして自分としての積み重ねが、、、価値観として形成されるわけですが、、、これらは我々が世界を見る際に大きく影響します。例えばBMWを買いたいと思っていると街中にBMWが溢れてきます、ミニクーパーを買いたいと思うと街にミニクーパーが溢れます。ナイキの靴が欲しいと思うとナイキの靴が街で溢れます、、、つまり人間とは意識したモノしか視界には入っていないのです。価値観とはそのままその人の世界なのです。何に注目するかで視界に入る情報が全く変わってしまうのです。言語、そして言語で成り立つ価値観は、PCのプログラム言語と全く同じでPC内の環境を全く違うモノにします。

最後は言語を超える

悟りとはこの言語を超えた場所になります。言語は単純にこの大いなる一つ、まっさらなPC環境を独自の世界に変える力です。言語には半端ない力がありますがその言語を超えた場所こそが悟りです。見ている世界、構築されたシステムが言語、プログラミング言語で設計されていることを見抜くことが重要です。どの言語を選ぶか、どの言語で新しいシステムを構築するかに意識が向かっている間は人生ゲームのデザインに興味があるということです。これは悟りの本質ではありません。

各指は全行動、全思考を自分がやったと認識するメカニズム

各指が完全分離したわけではない

腕全体を神、全体、大いなる一つとした場合、指がこの人間、自分です。そもそもが指には何一つ決定権はなく腕の一部としての活動がありました。ですがある時に指に思考が湧き出し指を腕とは全く違う独自の存在とする認識が起きました。それが自我、自分です。自分は何かをする力があるのではなく、、起こった行動、思考を自分がやったと思い込むメカニズムです。そしてこの自分が見る世界は、、自分の価値観が反映され価値観に準じた世界に形成されます。

引き寄せの法則とは

個人、自我に何かを引き寄せる力は絶対にありません、なぜならば自分は幻想だからです。ただの思考です。思考に何か現象を引き起こす力はありません。思考もただの起こりだからです。ですが価値観はその人間が見る世界を価値観に準じたように見せることができます。本質を価値観に沿って切り刻むことができます、なぜならばその人間が見る世界だからです。価値観に準じた世界を作ることはできますからそれを引き寄せの法則と呼ぶこともできるかもしれません。

腕と完全分離した指はない

指はあくまで腕の中の一部であって完全分離した指などあろうはずがありません。指が完全分離してしまえば指の機能は消え失せます。人間もこれと同じで全体から完全分離した人間などあろうはずがなく、、それゆえ人間は完全分離しているという認識が強ければ強いほどに苦しむことになります。人間の姿形は指よりも分離しているように見える分その誤解は深刻を極めるのです。

「私は在る」は空からの反映

我々は空の影の世界を生きる

ゼロ、無、空、絶対、、、この究極の存在の影が色の世界です。色の世界は「私が在る」という絶対的な感覚があります。我々も人間活動をやっていますがその大前提にこの「私は在る」が確実にあります。この揺るぎない感覚こそがゼロ、無、空、絶対の影である色、神、大いなる一つの感覚です。その中にさらに人間が在るという感覚が芽生え我々は人間活動をしているのです。

指の動きが人間

腕全体を神としましょう、すると人間とは指の動きぐらいの感覚です。指が独自に意識を持ち「私は自分」という感覚を所有しました。これが自我です。思考です。本当は指の動きですから全くもって自由意志はありません、腕の先としてコントロールされているだけです、ですが指は「自分」で動かしていると錯覚を起こします。で絶対的な自由意識はどこから来ているのか???厳密に言えば自由意志はどこにもないでしょう。神すらも絶対の影ですから影に意志は作りようがないのです。究極的にはただ動き、思考が起こっているだけということになります。それが影の宿命です。

集団意識、オーバーソウル

人間が指だとしたら手のひら全体は何になるのか??これが集団意識、オーバーソウルと呼称されるような存在です、ですがここにも自由意志は存在しません、これも腕の一部でしかないからです。ただしこの手のひら全体の起こりは在るでしょう。日本人の特製、民族の特製、有色人種の特製、、、などです。

神、ビッグバン、大いなる一つ

宇宙が発生した際にビッグバンが弾けたということになりますがここに個別意識はあるでしょうか。。恐らくないはずです、、、ただ爆発があった、、、これが神の本質です、大いなる一つの本質です。これが絶対、空の影、反映です。ですから実はどこにも自由意志はない、、ただ空からの反映、、そしてそこからの起こりがある、ということになります。我々はそんな中で腕(神)の中の指としてそこに自覚をもって、錯覚を持って生きています。

指から腕を見ている

人間が見る世界は指に目がついて腕(全体)を見ている感覚です。指は思考に支配されていますからありのままを見ることができません、思考というフィルターを通じて腕(全体)を眺めます。そして指がこの腕の中を動き回ることで空間と時間が発生しました、これが時空間幻想です。本当は腕の動きがあるだけでありそこには時間も空間もありません。指に自我が芽生えたので指が動き回るために時間、空間が生まれました。指の動きとは何も関係なく、指の意志とは何も関係なく腕は動き続いけますから指にとって都合の良い世界(腕)など作られるはずがないのです。もしもあるならば指の存在、指の動きは実は腕の一部であったという気づき、諦めしかありません。そして指が思考というフィルターを通さずにこの腕を見ることで全体の一部に戻ります、これが悟りです。

幻想に触れると重くなり、真実に触れると軽くなる

真実は軽い

今が重い時、、、今苦しい時に多く方はどうしたらいいだろと考えます、考え続けます、、、するとどうでしょう、、どんどん重くなっていきます。これはなぜか??思考の世界に入り込んだからです、酸欠の世界に入り込んだからです、「非二元」欠の世界、「神」欠の世界に入り込んだからです。「大いなる一つ」欠の世界に入り込んだからです。真実欠の世界です。真我欠の世界です。ワンネス欠の世界です。さすがに理解できたでしょうか?笑そうです、、、思考の世界というのは、、、、楽な世界からガンガンに遠ざかる世界ということです。

五感に集中していく

今が苦しい、、、そうしたら真実が足りていないのです、こう考えます。真実が足りない??そうです、今が足りないのです。体に意識を向けるのです、運動したり、食事をしたり、友人とおしゃべりしたり、、、、五感の活動に専念します。体はいつでも今にありますから体に意識を向ければ真実が押し寄せてきます。幻想の世界がぶっ飛ぶのです。運動を習慣化する、全ての作業を無心になって取り込む、思考を放置する、、、とにかく思考と距離を置く生活に切り替えるのです。幻想、分離を徹底的に排除していくのです。

反復に集中する

多くの方は自身のタスク処理に思考を使ってしまいます。どうやったら効率良くできるか、どうしたら無駄なくやれるか???タスクに思考を入れてしまい苦しみます。そうではなく単純に反復反復で処理していきます。一切の思考を排して思考の介在を抜くのです。1日に何度も取り組んで反復でタスクを処理していきます。最後までやり切る、、思考はこんなことを言ってきますが無視です。ガン無視です。思考は思考を使わせようと必死です、そこを反復で処理していきます。公文式です。これで全ての作業を思考抜きで行えます、五感のみで行えます。無我、無心、非二元が押し寄せてきます。

思考を放置するのは現実逃避ではない

思考こそが現実逃避

多くの方はここを勘違いします。思考こそが現実逃避なのです、現実とは思考以外の世界のことであり思考の世界こそが幻想の世界、虚の世界です。実の世界は思考が介在しない世界なのです。ですから苦しくなったら先ずは運動、、みたいな発想は本質を突いています。苦しくなったら人間は思考の世界に入っていきますがその世界こそが現実逃避です。虚の世界の住人になり結果苦しみの世界のドツボにはまります。

でも苦しくなるとさらに思考が湧いてくるのはなぜ????

ですが実際には苦しい時ほどに思考が湧いてきます、これが事実です。そのため多くの方はそのまま思考に取り込まれていきます。ここで何とか思考に取り込まれない、思考を放置する、、、この習慣をつけましょう。思考とは苦しみの世界を自ら作り出しその世界に意識を取り込む道具なのです。この事実を多くの方は知りません。思考することを善とまで勘違いしています。悲劇、喜劇です。

現実とは思考が全く介在しない世界

現実とは非二元です。現実とは神です。現実とは大いなる一つです。この世界が現実です、この現実に対して思考で持ってモノ??に名前をつけてモノ化し対象化し、顕現化し、、全部の現象を化させた世界こそが偽りの世界、人間が現実と呼んでいる世界です。この世界は思考によって化けた世界のことです。我々は言語によって化けた世界に生きています。この化けた世界こそが苦しみの世界なのです。にも関わらず何か苦しいことがあると考えてさらに化けの世界に入り込んでいきます。

非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。