大いなる一つ

今この瞬間の観念を確認する

今起きている現象は観念の現れ

個人が居てこの個人が歩む人生がある、、これが我々の基本的な認識です、、、この認識に基づく経験が積み重なっていき観念として形成されていきます。今自分の観念を確認したければどうするか???簡単です、、、今見えている現象、この現実(夢)を見ればいいのです、、この現実がどうなっているかが、、あなたの観念です。私を支える観念こそがこの現実(夢)です。

全く同じお店に入っても

例えば友人と全く同じお店に入っても感じる印象は違いますね、、一方は安くて美味しい店、一方は高くて不味い店、、、と。。。これを左右する存在は何だ????それが観念です、、、大いなる一つ、ワンネスが我々の目に入った瞬間、観念によるイメージ化が起こり、、、そこにあらゆる分離した現象が起きるのです。するとその視界を見て感情が起き上がり、それに気づきます。もうこの現実(夢)が本当であると感じるサイクルに入ります。脳はこの夢を現実であると信じ込ませることで、、この現実(夢)からこの体(自分)を守ろうとする動きを起こすのです。この夢が現実的に見えてもらえないと困るのです。。だからこそ本気で思っていること(観念)がこの夢を作り出し、、、これは間違いなく現実であるという思い込みを起こさせるのです。

観念が大いなる一つを分離した現象に見せ(夢)それを体験することで益々その観念が強化される

観念こそがワンネスを分離した現象化に導きます、、結果、、その夢(現実)を見た自分は、、これを現実と勘違いできるのです、、つまりこの自分は一生この夢を現実と思い続けることが出来るわけです。この自分をこの夢(現実)の中に一生閉じ込めることができます。「やっぱりそうだ!!!」が生きていると連発されるのは、、、観念がこのワンネスをイメージ化しているからです。私が経験した全てが今この目の前に現れています。だから今見える世界が私の観念を証明してくれているのです。

観念書き換えの嘘

多くのスピリチュアル本ではこの観念を好きなように書き換えて好きな世界を作りましょう、、と提案します、、ですがこれは、、、本末転倒、、、これを自由意思で書き換えることができる個人は存在しませんし、、観念を書き換える自由意志も存在しません。。。ただただ淡々と事が起き続け、、、観念が自動的に書き換わっていきます。

視点を変えた瞬間

窓の外を見た瞬間

見かけ上の私が窓の外を眺めます、、、その眺めた瞬間、、木や、鳥、花を認識する前の瞬間、、この瞬間が、、、ワンネスです、、大いなる一つ、真我です、、、たった一つのエネルギーがそこに在ります。人から声を変えられ振り向いた瞬間、、まだそこの誰がいるかの認識がない瞬間、、、この瞬間こそがワンネス、大いなる一つです、、、私たちは、、分離独立しているように見える世界をしっかりと信じ過ぎてしまって、、この瞬間をないことにしてきました、、ですが本当はいつも在ります。

コーヒーを飲んだ瞬間

コーヒーを飲んだ瞬間に注目してください、、まだこれがコーヒーという認識が起こる前の瞬間に注目します、、この瞬間が真我です、ワンネスです。コーヒーだという気づきが起きる前の瞬間があります、、経験だけがある瞬間があります、、経験という言葉さえもない瞬間があります、、言葉が全く関与しない瞬間があります。。。ここが真我、ワンネスです。

私がステーキを食べた、、、

私がステーキを食べたというストーリーが湧き上がる前の瞬間、味覚だけが起きる瞬間、味覚という言葉さえ起きない瞬間が必ずあります、、この瞬間が真我、ワンネスです、、、、私が真我になるのではありません、、言葉にならばい存在、、真我が在るのです、その瞬間に。イメージの私は全くここに関与しません。関与するとすれば「私」が真我になったという思考が起きる時だけです、、それはストーリーです。真実ではありません。

自由意志がないことに気づくと

道ゆく人々への気持ちが変わる

この人はなぜこんなに疲れているのか??この人はなぜこんな格好をしているのか???この人はなぜこんなに急いでいるのか???これらの疑問が完全に無くなります、、なぜならば一人として自由意志がないから。。自由意志がないならばこればこれは真我からただ起こっただけ、、そこに意味は完全にない。。となるのです。。。意味を考えるのは無駄です、なぜならばそれは真我の現れ以上でもなく以下でもない、、

関わる人間関係

なぜこの人はこうしないのか??なぜこの人は働かないのか??なぜこの人はいつも怒っているのか???これらの疑問が完全に断たれます、、、なぜならば、、、、その全ては真我からの現れだからです。。個人は何も関わっていない、、以上、、、になります。なぜこの仕事を始めたのですか????その人に聞いても実は意味がない、、その動きが真我から起こっただけです。。。

これは究極の手放し

見かけ上の私の言動の全ても、、、見かけ上の他人の言動の全ても、、真我からの起こりです、、ここに自分も他人も何も関与できない、、すると、、、この世界の今の状況は完璧な真我のアート、大いなる一つのアートです、、、何を個人が判断することがあるのか???という話です、、、その個人の行動の全てが真我に依存しているというのに。

大人とはこの夢を現実だと信じる人たち

大人になる

大人というのは、、、この夢を現実だと信じて生きる人たちです、、それだけ、、、子供とはこれは夢だと見抜いている人たちです、、、、子供から大人になるとは、、、夢を現実と勘違いすることです、、、、悟りとは再びこれは夢だったという気づきが起こることです、、、この体は夢の中の登場人物に過ぎない、、、たったこれだけ、、、、神、大いなる一つ、ユニティー、ワンネス、、、、言葉で出てくる偉大らしき存在の数々、、、なんのことはない、、、、、この夢を見ているこの私のこと、、、という大オチ、ギャグ、残念な結末、、、

こんな簡単なトリック

簡単すぎる、、、これが夢だった、、、集団洗脳、、、これは現実ですよ、、、という集団洗脳、、、騙された、、まんまと騙された、、、、、、この目の前の視界以外、、、何も起きていない、、夢だから、、、、さっきまで一緒に遊んでいた友人は、、、家に帰れば存在していなかった、、、騙された、、、こんな簡単なトリックに、、、やられた、、、

夢は完璧

この夢は完璧なのです、、、本当は家に帰ればクラスメイトは存在していないのに、、、次の日に学校で会えば、、、一人一人が家での活動を教えてくれる、、、この夢で、、、、完璧すぎる、、、これでは騙される、、、試しにこっそり一人の友人の家に押し掛ければ、、、ちゃんとそこに居る、、。騙される、、、この夢は完璧過ぎて騙されます、、、、集団催眠に全員でかかっている、、、

エゴの動きをただ観察する

人のエゴの動きを見抜けば

人のエゴの動きを理解できれば、、自身の中に存在するエゴの動きも理解できます、、、人間関係とはエゴ関係ですからエゴの研究そのものになります、、、それまでは必死に人間関係を頑張って維持してきたならばここからはエゴの研究だけでいい。なぜならばエゴの研究とは無我の確立でありただそれだけで大いなる一つ、無我、気づきの意識にシフトします。この状態が平和、安堵、静寂そのものです。

エゴ観察の場とする

人間関係はエゴ観察の場所です、、、エゴの動きを理解した上で人間観察をしますと自然とエゴの動きを理解することができるようになります、、エゴの動きを見破るのは無我、気づきの意識ですから、、、いつの間にか深刻さが消えていきます、、相手をこうしよう、ああしようなど一切しなくていい、、ただエゴを観察する無我でああればいいのです、、、この状態が平和、安堵、静寂です。

人間関係を作らなくていい

人間関係とはエゴ関係ですから、、、そこに平和、安堵、静寂は一切存在しません、、ここに人生の目的を求めても無駄なのです、、そうではなく人間を通じて自我、エゴをしっかりと観察できる存在(無我)になっていきます、、関係は作らなくていい、、ただ人間との対応を通じて無我をしっかりと意識していきます、大いなる存在、気づきの意識として、、観察します。ここが静寂、平和そのものの場所です。

思考から離れた時に思考を超えたメッセージが降りる

思考には到底考えつかないメッセージ

今にある時、大いなる存在として思考に巻き込まれていない状態、、その時頭脳は明晰になります、、、思考で24時間考え続けても出ないような答えが、、、急に出てきたりします、、、これが悟った状態です、、、思考をしないなんて廃人???とんでもないことです、、、思考に飲み込まれていない状態は明晰そのもの、明晰がこの体を通じてメッセージが起こります。

明晰がなぜ人を頼るのか?

今にある時、思考を観察存在で居れる時、、人を頼るという発想が起きません、なぜならば大いなる一つでいる状態が心地よく、、、解決すべき問題がないのです、、、さらに頭脳は明晰になり、、、頼るべき他人の存在を必要としなくなります。人を頼らないのですから人から何かを期待することもない、つまり失望もない状態になります。必要なことは今にあること、ただ一つです。

人を頼るのは今に居ないから

今に居ない状態は思考に飲み込まれた状態、、この状態は苦しい、、、この苦しさをなんとか解決しようと、、、人を頼る、、、しかし他人も思考に飲み込まれていますから、、自分のことで精一杯、、、どうしてこれで良い人間関係が構築できるのか?という話です。重要なことは今自分自身で居ること、自分自身とは本当の自分、真我で居ることです。思考に飲み込まれた状態から脱出し思考を観察する存在にシフトするのです。

思考が過去と未来に向けて

思考とは過去のこと、未来のために起こる

思考というものを注意深く観察してみてください、、全思考は過去についての内容か未来についての内容になります、、、過去、未来の存在を全肯定した内容になっています、、将来のためにこうしなくちゃ、あの時あれをしなければ良かった、、、ばかり、、、本当は今しか存在しないにも関わらず、、なぜか過去、未来についてのメッセージなのです、、、これによって我々の意識が過去、未来に焦点が合います、今に焦点が合わなくなるのです、結果静寂、平和が離れます。

思考との同一化は、、過去、未来への同一化

思考の内容が過去、未来に向けてであることから、、、ここに意識がフォーカスされますと、、、今に居れなくなります、、今この瞬間の森羅万象の現れに意識が向かなくなります。。。。本当は今しか起きておらず、しかしなかが思考に飲み込まれれば、、過去、未来という幻想の中に入り込むのです、、、これが今映画、TVゲームに夢中になっている状態です。過去、未来は本当は存在しないのですから幻想です。

でも今見える世界も幻想ですよね???

そうです、今見えている分離した世界も幻想ではあります、、ですがこの幻想の世界で体感する経験は幻想ではありません、それはリアルです、経験だけは大いなる一つ、根源、神そのものです、、、そこが静寂、至福、平和なのです、、、今ここで思考にふけるということは幻想に意識がフォーカスしていう状態です、、今に居ながら、、幻想に意識がフォーカスされているのです。これが苦しみを生み出します。

キャラが立つとは?

キャラが立つは褒め言葉

あの人はキャラが立っているよね、、、こんな言葉を聞いたことがあるはずです、、、キャラ立ちする、、自然とキャラが完成し好印象を与えている人のことを指したりします。どうしたらキャラって立つのでしょうか???重要なことは自然と立つということです、、明日からキャラを立たせていこう、、、これは無理です、、、来年はしっかりとキャラを立てていくことにしました、、、これも無可能です。。。。キャラは立てようとしたら逆に立たないのです。

機能になれるか???

この体をこの宇宙の役割であるという気づきを得ると、、、機能がシャープになります、、機能が研ぎ澄まされます、、、このシャープさ、エッジこそキャラ立ちです。思考と自我を切り離し、、、自我を消滅させ、、その上でこの体を大いなる一つ、気づきの意識の役割として発動させる、再出現させると、、、機能性が上がります、、、そこには思考がべったりと絡み込んだかつての自我が存在しないのです。

思考を認識し、、思考に意識的になる、、自我を消滅させる

自我を消滅させるための最重要事項は思考を観察することです、、思考は一瞬の隙間を使って入り込み、、、思考していることすら完全に忘れさせて自我と完全合一します、、、思考していることを完全に忘れている状態、、これが思考自我完全合一作戦成功の形です。思考の湧き上がりを常に意識化します、思考が湧いたら即認識します、、、この時気づきの意識は気づきの意識のままです。。。これは格闘技と同じ、思考の湧き上がりに取り込まれてはいけません。すると思考と自我の絡みつきがなくなり、、、、自我が薄まり最終的には消滅します、。機能としてのこの体が残ります、それがキャラ立ちです。

分離に生きるのではなく分離の視点で生きる

分離そのものではなく

私たちは分離の世界にのめり込み、、本当に分離していると信じ切って生活していますが、、、本当は分離はなく、、分離の視点があるだけです。ワンネス、大いなる一つ、空そのものであることが真実でそこに分離を作り出したのはこの見かけ上の脳です、脳が名前を記憶することで、、、記憶された現象がボコっと便利しているように見えるのです。この見えるというのが最重要で、実際には一つです。

一つだった

一つだったが腹落ちしますと景色が輝き始めます、、音楽は天国の音色を奏でるようになります、人の中の無邪気が見えます、、、これは子供が世界を眺めている時の状態です。これが大人になってから戻るのです、、、何もしていないのに幸せ、、できればこのまま、、だけでいい。肩にのしかかる重荷は消え失せ、こなさなきゃいけない課題も消えます、、、、本当はないことを知っています。

分離視点で片付ける

ということで本当は一つです、、それが分かると焦ることができない、、、ただこの体(見かけ上)を通して起こる言動をこなすのみです。成否は全部全体任せ、気づき任せ、神任せです。それを判断する自分も実は居ない、、仏教では他力本願という言葉がありますが自力本願が不可能だということです、自力の自とは全体、気づきの存在、大いなる一つなのですから。あくまでも作り上げられた分離視点で淡々と片付けるのみです。

万引きで人生が壊れるという事実

〇〇会社の重役が万引きで書類送検

このニュースを見た多くの人は、、、この人は終わったな、、全部失ったなとなります、、、99%の人はそう感じるでしょう、、、、ですがこれってなかなか面白い事実を証明しています。つまり万引きという出来心でその人の人生が完全に壊れるほどのヤワなものであるという共通認識はあるのです。この共通認識で縛られている以上、、、我々の人生は常に綱渡りです、、、こんなヤワな人生楽しいでしょうか???

起こるが起きる

川の流れのように起こるが起き続けます、、、どれほど思慮深く生きようと起きる時は起きるのです、、このことを多くの人は実は知っています、、だから苦しいのです。。。次は自分の番かも、、、その通りです。。どこで何が起きるかは誰にも分かりません。。。気づきの意識も、大いなる一つも、神も分かっていません、、だからこの共通認識は苦しいのです。

唯一のルール、起こるが起きる

たったこれだけです、、、何が起きるかは誰にも分からない、、、これだけ、、、だから万引きを起こしてしまった重役も、、それが起きたのです、、、次は自分?かもしれません、、、俺は絶対に起こさない、、、違います、、これまでも全部起きたのです、、、、そこに個人は完全に無力なのです。このことが本当に腹落ちすると人への批判はバカらしくてできない、、自分への評価???全くどうでもいい、、が起きます。楽ですよね???