全体

自我の完成は強烈なストレス生活の完成

自我が完成しストレスフルマックス

これは夢です、ワンネス(気づきの存在)が見る夢です。この夢を夢たらしむ存在、夢にとって絶対的に必要な存在、それが自我です。自分(自らを分ける)とは全体からの分離のことでありそれを維持するシステムこそ自我です。自我がなければこの夢物語は維持できません。自我が崩壊すればこの夢から覚めます。自我は幼少期、思春期、社会人、成人と、、、社会的役割が増えていくに従い強化されていきます。自我の完成とはストレス生活の完成なのです。本来は広大無辺である存在がこんな小さな体に閉じ込められ思考すらもその中に存在すると勘違いすることで不足感、欠乏感、孤独感を生み出すストレス発生装置なのです。

会社に行けば思考を使わなくていい

なぜ学校に行き、なぜ会社にいくのか?人間がなぜ起きている時間のほとんどを何処かに所属しそこで言われた仕事を、勉強内容をこなすことに費やすのか?それはそのほうが思考を使わなくていいからです。思考を使えば苦しくなります、そのため思考を使わなくてもいい環境に身に置くことを自然と覚えます。その究極の場所が会社です。朝から晩まで基本的にやることは決められていていかにそれを正確にこなすかを求められます。分業制になっていて其々が得意な業務に専念できる場合もあります。そういう意味では会社は人間のストレスを軽減してくれる場所とも言えます。

思考の暴走を自身で抑えることが出来たら

人間は考えれば考えるほどに自我が強化され先ほどの理論で苦しくなっていきます。思考フルマックス=ストレスフルマックスです。思考フルマックス=自我全開=夢没入=無我消滅=ストレスフルマックスです。思考の暴走がこの夢物語での快適不快を決めるのです、だとしたらいかに思考を止めるかです。何かに没入することでこの思考は止められますから基本人間の行動をルーティン化していきます。考える必要性をなくしていき決まったルーティンの軸を作っていきます。茶道、書道、剣道のように決まったことをルーティンでこなしていきます。反復することで何かを成し遂げていきます。すると無思考、無心、無我の感覚に自然と入れるようになっていきます。無思考、無心、無我とは大いなる一つ、ワンネスの状態、つまりこの夢から覚めた状態です。

この夢物語の中で目標が叶いにくい理由

ほとんどの目標がこの夢では叶わないわけ

簡単に目標が叶うならばそれはワンネスの不完全体験になりません。完全であるワンネスは完全であることは知っています。完全であるワンネスが知らないことは不完全であることです。だからこそこの夢では簡単に目標が叶うわけがないのです。というよりもほとんどの目標は結果叶わずに終わります。夢の中で自己啓発本はたくさん出版されているのは目標が叶わないからです。目標が叶わないことがデフォルトです。

必死になると目標が叶うわけ

ところがこの夢の中で、生死を左右するような絶対絶命の時には人は火事場のクソ力という力が湧き出ていとも簡単に目標が達成できてしまったりします。これはどういうことなんでしょうか?もしくは3億円という懸賞金がかかったりしたら多くの方はこの目標を達成することもできるでしょう。そしてその自信もあるはずです。絶対絶命の状態、三億円の懸賞金がなぜ人を本気にさせかつ結果を出させるのでしょうか。それはそれらの要因によって思考が抜け落ちるからです、無思考になります。自我が出る余地がなくなります。すると不思議中からパワーが湧いてきて通常の7倍近い力が湧いてくるのです。究極の味方だと思っていた思考が抜け落ちた時、人は圧倒的な力が湧きます。無思考、無我、=ワンネス、大いなる一つです。火事場の糞力は無心に入ることによって誰でも発揮できます。

無思考になることで目標が叶うとなると人は思考を信用しなくなる

これは夢です。この夢の中で目標を叶える方法は思考を手放すことです、無思考になることです。何度も反復を繰り返し思考の出る幕を無くした時に無心、無我、ワンネス状態になり目標が叶っていきます。この感覚を一度でも身につけることができるともう思考に頼ることを一切しなくなります。思考は最強の道具ではなくなり適材適所使うための非常用器具になります。無心、無我、ワンネス状態とはこの夢から一時的に覚めた状態です。一時的に分離しているというこの錯覚から目覚めることができます。ワンネスは一時的に夢から覚めて目標を易々とクリアします。こうして夢から覚めた状態を徐々に思い出していきます。書道、花道、茶道などは何度も反復作業を繰り返すことでこの感覚を思い出していきます。火事場の糞力が出る感覚、夢から覚めた感覚、歓喜、平和、安堵にシフトする感覚を思い出していきます。

海であることを忘れた波は恋愛が好き

恋愛はお互いを特別視する約束

恋愛とはお互いを特別視する約束です。海であることを忘れた波は自身を特別視してもらうことを願います。それは自身の存在がここに在ることを強く実感できるからです。世界中の中で自分を選んでもらったという感覚は自我にとっては最大級の自己肯定になります。なぜ絶対にあるはずの自己を改めて肯定してもらう必要があるのか?それは自己が偽り、嘘だからです。自己とはこれが私自身だと宣言するエネルギーでしかありません。分離とは全体から無理くり独立しようとするエネルギーの働きでしかないのです。ということでこの自己を世界中の中で最も価値があると異性に選んでもらうことに自我は興奮するのです。

自分を特別視してもらえなくと途端に不安になる

自我は自身を特別視してもらうことは大好きです。その瞬間自分が存在すると強く肯定できるからです。ですがこの恋愛の難しさは相手の興味関心が他人に移った時です、その瞬間自身を特別扱いされているという感覚が完璧に欠落します。自我は自身の存在を急に不安定なものに晒されていると恐怖を覚えます、少しでも雑に扱われている、甘く見られている、大切に扱われていないと判断するとその不安は相手への怒りに変異されます。相手を誠実な人間でないと非難の対象にすることで自我は逆に強固になっていくのです。自身の存在が危ぶまれると相手を非難することで自我は対立関係を作り出し自我の存続を図るのです。恋愛がなかなか上手くいかない理由はここにあります。

相手と一つになることは小さな悟り

恋愛を通じて分離した者同士が一つになったと感じることは実は小さな悟りでもあります。自身と対象が一つになった時自我は完全に消え去ります、この感覚は波が海になった感覚、人間が全存在になった感覚、分離が統合になった感覚です。豊かな恋愛は人間を悟りに誘う力を持っています。恋愛は海がこの波物語に作り出した分離統合のヒントです。ですが多くの場合この小さな悟りに自我はしがみつきこれすらも自我は自身の延命に使うのです。

身体で感じると思考は共存できない

書道や茶道は究極のワンネス体験

人間が体全身を使って何かを感じる時、思考はそこに入り込むことはできません。お茶を飲む、食事をする、筆を走らせる、、スポーツをする、、、身体で感じきている時思考は外にいます。思考が存在していないということは「自分はこの心身である」という自我も欠落しています。この時人は無我になっています。無我だけがあります。至高、完璧、平和だけがあります。膝が壊れても走ることを辞められない、、これは走ることで無我を体験している証拠です。

思考ではなく感じることを優先してみる

サバイバルするために人は思考をやたらと使いたがりますが、思考を使えば使うほどに自我が強化されて不足感、欠乏感はより湧き出してきます。そうではなく感じることを優先する、身体で感じることを優先していきますとそのまま無我に入れます。究極の至福、安心、安堵、歓喜が現れます。スポーツをするとストレス発散になるのは体が感じることを意図的に行うことで思考を排除し無我に入っている証拠です。この感覚を日常生活に応用させていきます。

所作に入り込む時自分は存在できない

書道や茶道など所作に入り込む時、思考は完全に停止していますから同時にこの心身は自分だという自我の動きも停止しています。するとその所作を行なっているのは人間ではなく全存在ということになります。体で感じて所作を行い始めた瞬間、そこに自我はいませんから全体がそれを行なっているのです。思考を使わずに感覚でこれを行うということは全体を引き起こすテクニックです。波が書道に入り込む時に自分を波と思い込む自我ありません。周囲から見れば波が書道を行なっているように見えているだけで波に見える海が書道を行なっています。

この世界が夢だとして、ではこの夢を見ているのは誰か

主人公は海であることを忘れた波、そしてこの波物語を見ているのは海

波物語は夢です、時間も、空間も本当はなく、、それは夢の中だけで存在しています。夢の中では時間も空間も自由自在、ただし夢の登場していない場所、登場人物は夢に登場していない間は存在しません。ですから主人公である「自分」も寝ている間や何に没頭している間、目をつぶっている間は姿をなくしています。海はこの夢を常に見ていますがそれは傍観者として高みから見ているのではありません。海は主人公(波)の五感+感情+思考を使ってこの夢を体験しています。

全ては幻想だが夢での体験は確実にある

夢ですから幻想です、ですがその夢の中で恐怖心、歓喜、安堵、幸福、、、湧いてくる感情は間違いなくあります。経験も確実にあるのです、夢として。夢ですがこの夢は海が投影したもの、海自身の投影を土台にしています。海が監督をし、海が海を使って舞台を作り、海が海自身を使って登場人物を登壇させ、海が海自身を使って(波)主人公を作る。海が変幻自在に変化してトータルでネットフリックス波物語を制作しています。

この夢から覚めるのは波ではない、海

マトリックスという映画では主人公のネオがこの夢から覚めるためにエージェントと戦い続けていきますが、、実際に眠っているのは海であり、、起きるのはやはり海です。主人公のネオ(波)ではありません。ただし波も海ですから正確には波を通じて海が目覚めるのです。ネオを通じてマトリックス映画全体が目覚めます。人間を通じて見えている世界全体が目覚めます。

悟りに人格や準備が一切関係ない理由

悟りに人格や風貌、容姿が関係していると説くのは自我の策略

悟りとは自分がいないという絶対的感覚のみであって自分という存在の人格、風貌、年齢、能力は一切関係ありません。いなくなる存在の人格、タレント性、風貌が悟りと関係しているとしたら理論として破綻しています。海であることを忘れた波が消滅しそこに海だけが在る状態が覚醒、解脱ですから波の形状、質、温度は何も関係アありません。あまりに多くの誤った情報が氾濫しているのは悟りも準備が必要、選ばれし者だけが悟れるといういかにもこの人間社会に蔓延ったビジネスライクな香りがプンプンする世界ならではです。自我は人間は悟りすらも自我の向上、進化に使ってしまうのです。こういう条件が揃えば幸福、至福に至るという考え方は、こういうエクササイズをすれば体型が変わるという考え方に似ています。そしてそのような理論は自我に好かれます。

これは個人のことではない

世の中の多くの情報は個人の幸福の話です。最新のファッションを取り入れると個人が魅力的になる、、最新の髪型にすると個人がモテる、、この香水をつけると個人が人気者になる、、、全て個人がいかに今よりも良くなるかの情報で溢れています。ところが今回の覚醒、解脱、ノンディアリティーはその個人がいない、錯覚、誤解だという内容のメッセージです。個人を相手にしないのです、読んでいる個人に向かってあなたの存在は錯覚で本当はいないと断言する内容です。そしてその内容の本を個人が読んで腹落ちさせるという意味がわからない内容なのです。ですが個人と思い込んでいる存在は個人ではありませんからその内容を読んでも何も違和感はないのです。最初から読書する個人(波)は存在していなかったのです。個人に見える全体がその本を読んだというだけです。

それでも個人はいない

ガリレオはそれでも「地球は回っている」という言葉を残して裁判で負けたと言われています。これは今回の話と同じ、、この地球上で個人はいないんですよと大声で叫んでも賛同してくれる人はほぼいないでしょう。ですからこのことが議論になっても圧倒的多数決で負けるはずです。ですがやっぱり「それでも個人はいない」これが本当です。その証拠に個人がいるという証明は実質的にできないはずです。

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。