全体

自分錯覚ゲームはどこまで行っても空腹

自分とは本当はいないからこそ空腹が止まらない

全体から無事分離できたと錯覚することができた自分は身の安全を確保するために思考をフル回転してこの自分を守ります。食事を確保し、安全を確保し、寝床を確保し、老後の保証を確保します。これに成功した自分はそれでも収まらない空腹感を埋めるためにブランド物を確保し、高級車を確保し、良妻を確保し、高級住宅を確保し他人からの羨望の獲得に成功します。それでも収まらない空腹感を次に何に向けるか?次は霊的地位向上です、来世のために徳を積む、前世のカルマを解消する、、と霊的浄化に乗り出すのです。それでも収まらない空腹をいかに解消するか?次は自己実現だ、、、となるわけです。ということでこの自分分離錯覚ゲームはいつまで行っても収まらないこの空腹を満たし続ける旅でもあるのです。

自分錯覚ゲームは楽しいが苦しい

全体がこの自分錯覚ゲームを作り出したわけですからこのゲームは偉大な発明です、全体の。この自分錯覚ゲームは本当はん分離した自分など居ないにも関わらず居るかのように味わえるというところが醍醐味です。そしてこの自分錯覚は自らが弱く小さく狭いからこそエキサイティングにこのゲームに参加できるのです。全体が全体のままでは体験できないエキサイティングな感覚こそ面白い。ですがここで大きな問題が、、それはこの自分錯覚ゲームはどこまで行っても不足感空腹感が癒えることはないということ。それは主語はあくまで全体であり全体にとってこの分離自分は狭すぎるのです。このゲームはエキサイティングですが常に焦燥感に掻き立てられるのです。もっと良い生活がないか、もっと便利な生活がないか、もっと高級な生活はないか。。。これが止まりません。

焦燥感を止めるには?

焦燥感を止めるためにはどうしたらいいか?どう考えてもこの錯覚から目覚める以外にありません。全体からの自分錯覚というこのメカニズム、このメカニズムから外れる他ありません。全体は全体である時至福以外の何もでもなく、この自分という錯覚は至福から外れます。全体から分離した自分などは本当はいないということを理解し全体が全体に戻る、これ以外に焦燥感を無くす方法はないのです。

自分が全体を隠すメカニズム

自分とは全体からの分離錯覚状態

自分とは全体から分離できたのではありません。分離していると錯覚できた状態のことです。あくまで錯覚ですから実際には自分は全体から分離できません。全体から分離していると錯覚しているだけです。ここ最重要です。本当に全体から分離できたならばもう全体に戻りたいという衝動は生まれませんし不足感も分離感もないはずです。一つの完成したものですから。ですが自分は実際には分離できません、なぜならば全体は一つのエネルギーであり分離できないからです。あくまでも分離した存在があると錯覚している状態、これが自分、人間です。

自分とは分離したという錯覚のこと

神はいつでもあなたを見捨てはしない、、、これは当然のことです、なぜならば「あなた」という独立した存在はなく、独立しているという錯覚がそこにあるだけだからです。つまり一度もあなたは神でなかったことなどないのです。神から独立したと錯覚をしていただけです。神があなたを見捨てないどころかあなたは実在していないということになります。だからこそ見捨てることなどできません。

自分錯覚ゲームに疲れたら

全体から分離できたと錯覚することの成功した自分はこの体の中に自分が居ると信じ行動します。朝は山に行きキノコをとり、昼は海に行って魚を釣る、夜は自分の寝床に戻って獣に襲われないような場所で休む、、、こうしてこの体を安全に確実に生存させる方法を取得しました。それが現在のこの文明の土台になります。ですがこの分離錯覚には問題点があります、それは分離感、孤独感、欠乏感を伴うということです。全体がこんな小さな体を全てだと勘違いするわけですから欠乏感は半端ないモノがあります。ということでこの欠乏感解消のために分離錯覚した自分は常に次のモノ、ヒトを追い求める旅を続けることになるのです。もしもこの欠乏感に疲れてしまったらこの事実を思い出す他ありません。

分離が起きる奇跡

自分とは自らが分かれること

自分という言葉は凄い言葉です。自分=自らが分かれる、、、どこから分かれるのか?全体からです。自分とは全体から分かれた状態のことです。分かれるということは分かれる前があるわけで分かれる前は全体だけがあるということです。我々は自分の人生を生きているつもりですが自分とは全体から分かれた状態のことであり自分も幻想でありだからこそ人生も幻想を土台に作られます。幻想の自分をかき集めたものを人生と呼んでいます。実際は全体だけがただありそこには自分も人生もあるわけがありません、ただしこの自分体験は確実にあります、幻想として。

全体から勝手に分離しストーリー化する面白さ

人間とは全体から勝手に分離した自分というものがいるという勘違いからスタートします。脳が発達することで自分と自分以外というアイデアを作り出しました。そしてこの分離した自分が体験することを全部合わせて自分の人生と呼ぶようになります。脳が記憶機能を持つことでこの分離した自分が独立した存在であることを証明しているように見せてくれます。ですがあくまでこれは全体の一部が勝手に分離していると勘違い勘違いを記憶し続けた結果でしかありません。ただしこの分離活動、分離部は自分の家、自分の食料、自分の衣服とこの分離体の存続に成功します。全体の中に勝手に「我あり」という存在が現れ勝手にその記憶をかき集めて人生と宣うようになりました。面白い事件です。

それでも全体は全体でしかない

全体の中に分離していると錯覚している自分という存在がいようといまいと全体には何も関係がなく今もただ全体だけがあります。全体は分離したと錯覚する自分という存在が勝手に「我が人生悔いなし」と宣おうと何も関係がなく全体はあり続けます。自分は全体に影響を与えているつもりかもしれませんが全体があり続けるという意味では何も関係がありません。そしてこの分離した自分が死んでもただそこに全体があるだけです。何もなかったようにそれでも全体は全体であり続けます。

辛くなったらこの錯覚を解いてみる

自我の成り立ちを見れば何もないことが分かる

自我ができる前、誕生した赤ちゃんには何もありません。自分と自分以外という区別はないどころか、全てのモノに名前すらないのでただ全体があるというだけです。一切の分離がない世界です。徐々に言語を覚えこの体の中に自分というモノが居るのだと教わりました、実際はそんなモノはなく自分とは全体そのものです。ですが全体がこの体の中に入っているいう錯覚、認識を持つことで本当にそう信じるようになるのです。この体の中に自分が居る、、、これで自分と自分以外が初めて誕生するわけです。分離の誕生、分離意識の誕生、孤独感の誕生です。

元々は何もないのだから、、、

自我が芽生える前はここには何もない、もしくは全体だけがあったのですが自我が形成されることで自分が誕生し自分以外が誕生しました。さらに自分以外にあらゆる名前をつけていき全体をバラバラに切り裂いていきました。自分はこの分離しよって生活が大変便利になりました。自分の寝床、自分の食料、自分の衣服、、、などを所有することができ生活が便利になっていきます。その一方で全体から切り離された自分自身は常に孤独、分離感、不足感を味わいます。全体であった記憶は間違いなくあり、そことのギャップに苦しむのです。何を得ても何を達成しても何を手に入れても満たされないこの感情に一生苦しみ続けることになるのです。

自我とはアイデア

自我とはアイデアです。この体を生き伸ばすためのアイデアです。全体の発生後、後からできたアイデア、発想でしかありません。なぜならば言語がなければ自分とは存在しないのですから。言語が地球上から消えれば自分はいなくなります。これってギャグですよね。「はじめに言葉あり」聖書にこのような言葉がありますがこれって真実です。言葉が生まれて自分が誕生したのです、言葉がなければ自分というアイデアはないのです。

この分離自我は便利だが辛い

全体の中に生まれた自我、このアイデア、発想は大変便利ですが辛いモノです。この体は自我のお陰で生き延びやすくなり助かりますが辛い、孤独、不足という感情がひたすらに湧いてくるというまさかの副作用があります。この副作用、感情に耐えられなくなったならば再び全体に戻ることも有効です。というよりもこの自我のカラクリを解いてしまう、本来は全体でありこの体は全体の一部でしかない、なぜこの体に全意識を委ねなくてはならないのか?ということです。この体は全意識の一部でしかありません。

今も全体がただある

全体しかない

視界に広がる世界、これが全てです。これしかありません。その中に突然自分というモノが生まれ(無理くり作った)それから自分と自分以外が誕生しました。自分はこの全体から別れた存在である、、、これは思考が生み出したアイデアです。思考がこの世になければ自分と自分以外という発想はあるはずがありません。思考ができてから自分が誕生しました、ということは自分などというモノは幻想に決まっています。思考がなければ自分もいなし太陽もないし、海もない、友人もいないし、花も動物もいません。ただ動く、もしくは動かない何かが目に入るだけです。もともと、いや今ですらも本当は全体しかありません。

自分が誕生し、自分は存続しやすくなったが

自分というモノが誕生することで自分というモノが存続しやすくなったのは事実です。自分の食料、自分の寝床、自分の屋根、自分の衣服、、、と自分というモノを守ってくれるアイテムも誕生しました。だから自分というアイデアは自分という存在にとって有効です。ですが同時に大きなモノを失いました。それが全体であるという感覚です。突然この大きな全体から引き剥がされこの目の前にある常に動くモノだけになってしまったのです。この分離感、喪失感は半端なものではありません。人類は自分というアイデアを所有した瞬間からこの喪失感とセットになりました。

自分の誕生は全体が作り出した発明

「自分が普通に居る」この感覚が実は奇跡です。全体しかない中に別個の自分を作り出してしまう、これこそが全体の脅威、全体が神ゆえん、全体が全体たる所以です。全体しかない中になぜこんな奇跡を作り出せてしまったのか?全体よ、何てことをしてくれたんだ?ということです。ただ揺れ動く全体の中にこれを見れる存在、それを触れる存在、味わのですことができる存在、嗅げる存在を独自に作り出し、それを記憶しストーリーにしてしまう。我々は今全体、神の奇跡の発明を堪能しています。

先ずは全体があった

そこから自分が起こった

先ずは全体しかありませんでした、これ、あれです。視界に広がるこれ、あれだけがありました。動物、自然、花、太陽、空、雲、これ名前は元々ついているわけがなくただ目の前に映る諸行無常、変化する何かがありました。そこにこの動く体というものを発見します、お腹が空き、排泄が起こる、そして寒いと感じるこの体を発見します。ただこの時点では自分と自分以外という感覚はありません。やがて視界に広がる中にこちらに話しかける物体(人間)が登場します、その物体は食事の面倒を見てくれたり排泄の処理をしてくれる、そしてどうやら何かをこちらに向かって話しかけています。音だけがします。その物体はなんと7年間近くをかけてこの動くモノには名前があり、それがどうやら自分という存在であること、そして自分以外の存在があること、、そして目に見える動く、もしくは動かない何かに一つ一つ名前があることを教えてくれました。

一番近くに常にある動くモノを「自分」と呼ぶ

これによって自分と自分以外が誕生しました。自分はこの見える世界で最も大切であるらしく、この自分を大切にしなさいと。そしてこの自分の中には思考というものが起き上がりそれも自分のものだと、さらに怒りや悲しみなどの感情もたまに湧いてくるがこれも自分のものだよと教わりました。不思議なことに自分という存在を理解すればするほどにこの感情が沢山湧いてきます。その感情は多くの場合心地が良いモノではなくだから自分はそれを消したくて他の人間と一緒にいたくなります。全体は最初からあったし今もありますが今の全体は自分と自分以外に分かれています。

自分ができてから空間ができた

自分という存在が誕生してから空間ができました、自分がキノコを取りに行く際にそのキノコは向こうの山にありました。自分が向こうに行かなくてはならなくなりました。すると向こうの山に行くには距離があり、その距離を行って帰ってくるまでに時間というモノが誕生しました。本当は空間も時間も存在しないのですが独立した「自分」というモノが誕生し自分が「自分以外」と接触することで空間と時間が誕生したのです。

夢の中での自由は至福とは何も関係がない

夢の中は自由

毎晩見る夢の中でいくら主人公が自由であってもそれと永遠の至福とは関係がありません。主人公がいかに自由に夢の中で動きまわっても永遠の至福に至ことはありません。動いて動いて動き回る理由とは止まってしまったら不足感が湧いてくるからです。まさか夢の中でもこの不足感は常に湧いてきます。夢の中の主人公は当然全体から分離しています、分離しているから独立した個人として動いているのです。ですがこの分離感こそが不足感を湧き出すのです。逆にいえば自由に動き回れば回るほど分離感は強化され無限地獄に入っていくのです。だからこそ夢の中の自分は止まることなくストーリーが展開していくのです。もしもそのままで至福ならば動くなどという意味のないことはせず夢の中で瞑想でもしているでしょう。ですがそのような自分は夢の中に居ません。

一方リアリティーでは

ではこのリアルな世界では主人公である私はどうなのか?間違いなくそのままで至福ではないでしょう。幸福すぎて今日一日何もしたくない、、こんな日は当たり前ですがありません。至福過ぎて何もしないという状況があるとするならばお腹いっぱい大好物のお寿司を食べた時ぐらいのこと、3時間後にはこの至福感は消え去ります。そしてまた次の食事を考えるという動きの世界に入っていきます。そろそろ気づきましたね、そうです、このリアルな世界も夢の世界と全く同じで動かずにはいられないということです。そのままの状況では至福に至れないのです、そのままにしていたら不足感が滝のように流れてきます。「自身がこの体の中にある」この分離感を持った瞬間から人間は分離感に苛まされます、孤独感が湧いてきます、もう一人ではいられません。この世界に独立した自分がいるという錯覚を所有した瞬間から不足感、孤独感、欠乏感が湧いてくるのです。そしてその感覚を解消するためにモノやヒトを追い求め続けるという無限地獄が始まるのです。

夢の中ですら渇望しているのにリアルな世界で渇望しないわけがない

自分が毎晩見る夢の中ですら主人公は動き回っています、どこかに永遠の至福に至れる道がないかと。ですがありません、ストーリーの中は時間の世界ですからそこに永遠の至福があろうはずがないのです。永遠とは時間の制限を超えています。だとすればこのリアルな世界の中で永遠の至福などあるはずがありません、この体の中に自分がいるという錯覚をもち、この体の外は自分ではないという錯覚も所有します。この錯覚こそが不足感、欠乏感を生み出す原因ですからこれを解放する以外に至福の道はないのです。結論を言ってしまえばこれも夢です、リアルだと感じているこれも夢です。だからこそ毎晩見る夢と同じ苦しみを味わいます。

夢の中での要領の良さは至福とは何も関係がない

毎晩見る夢の中で要領の良さを披露しても至福には至れない

毎晩見ている夢の中で要領を駆使して何かを達成したとしても一時的な快楽にしかなりません。次の瞬間からでは次はどうするか?という疑問が湧いてきます。そして次の展開、次の展開と夢は続いていくはずです。夢の中で永遠の至福を手に入れることができないのは次の展開に移ればまた振り出しなのです。これが夢です。ストーリーです、時間が管理する物語です。残酷なまでに感情は一瞬一瞬であり夢の中でさえ自身の感情をコントロールできません。そしてなぜ夢の中で主人公が次々に行動を起こさなくてはならないかといえば不足感が湧き出ているからです。夢の中ではこの不足感はデフォルトです。なぜならばデフォル分離した自分というものを設定した瞬間から全体から離れ孤独感、分離感、不足感が湧いてくるからです。

このリアリティーにおいてもこれは同じ

このリアリティーの世界、現実社会でもこれは同じでして要領の良さで何かを達成しても至福は一瞬です。次の瞬間から不足感、欠乏感、分離感が襲ってきます。この現実社会の中で自分の体を境界線にすることで自他を作り出した瞬間から分離感がひたすらに襲ってきます。この分離感、不足感を何とかして解消しようとして要領の良さを発揮し一瞬の至福感を得ます、ですが次の瞬間にはまた不足感、欠乏感が湧いてきてその解消に努め続けることになるのです。もうお気づきだと思いますがこのリアリティーと毎晩見る夢はあまりに様子が似ています。そうです、このリアリティーは神が見る夢です。

夢もこのリアリティーも覚めるしか解決方法はない

毎晩見る夢にしてもこのリアリティーにしても分離意識、主人公の中に自分があるという感覚を手放さない限り不足感、欠乏感が解消することはありません。我々は物心が付いた時から不足感と戦ってきました、それは夢の中でもこのリアリティーの中でもです。今日は至福の極みだから何もしないでおこう、、こんな日は1日たりとも無かったはずです。安心してください、この夢の中でそんな人間は一人もいません。毎晩の夢の中でもこのリアリティーの中でも至福過ぎて何もする気は起きない、、こんな登場人物は皆無なのです。分離とはそのようなものです。

これが夢であるという事実から逃げない

人間がこれまで戦争や争いを終えることができず、世の中から紛争を無くすことができないのはこれが夢だからです。たった一つのエネルギーが分離して見えるこの世界は不足感体験ゲームなのです。しかもこの不足感は分離が終わるまで延々に続くというオチです。こうなりますともうこれを夢と認識する以外ありません。勇気を持ってこのリアリティーに向き合うほかないのです。人間はあまりにこのリアリティーに長く触れ続けた結果、不足感、欠乏感にどれほど苦しまされてもうこのリアリティーを手放しません。リアリティーに執着しています。だからこそこのようなメッセージ、ノンデュアリティー、悟りと言われるような内容に嫌悪感すら抱きます。

この体は全体との境界線であると信じ込むことで孤独が生まれた

この体は聖域

この体、この体を全体との境界線であると信じ込むことでこの分離ゲームはスタートします。この体は全体とは分離していないと信じていれば小さな子供のように無邪気なままです。大人は子供に対してあなたは個別の存在であると徹底的に教え込みそして孤独感、分離感、不足感を植え込みました。子供から無邪気さが無くなる瞬間です。勿論、この体は全体から分離しているように感じることはできます。五感が機能することでこの体が外界をその五感で感知できます。感知できるからこの独立した体が個別にあるという初期設定が完成します。

苦しみのメカニズムを全部この境界線で説明できる

私は基本何でも疑います、先ずは信じて何でもやってみますが根底には実験という感覚を常に持っています。人格を磨けば人生は楽になる、霊的進化を遂げれば人生は楽になる、高収入、安定を手に入れれば人生は楽になる、、、これらは全部試してきました。独自の実験で淡々と試してきましたが人間の苦悩がこれでは解消しないことは次第に分かってきました。友人の数も信頼の数も、お金の数も称号の数も、、人生を楽しくしてくれますが楽にしてくれるわけではありません、全て一瞬のこと、時間限定です。

もう一瞬の楽を追い求めない

金メダルを達成しても本当の安堵は取った瞬間のみ、次の瞬間から次回のオリンピックへの意気込み、プレッシャー、お世話になった人へのお礼、スポンサー廻り、母校巡り、、、そこからの講演会、、、とやるべきことが押し寄せてきます。人間はこの体を外界との境界線と信じ込んだ瞬間から延々と続く不足感、孤独感との戦いが始まりました。苦しみのメカニズムを理解できたらこの人間境界線ゲームから脱人間境界線ゲームへの大きなシフトが重要です。

人格者とは何か?

人格者も非人格者も苦しみは同じ

これは夢です。この夢の中にいる限り人格者も非人格者も苦しみは同じです。同じように苦しいのです。この夢の中にいた状態で人格が苦しみを和らげてくれることはありません。なぜならば自分は人間であるという思い込みが苦しみを作り出しているのであってその人間の格の高さは苦しみの解体とは全く関係がないのです。ですがそれでも人間が人格者を尊敬するのは他の人とは苦しみの種類が違うということだけです。人格者も非人格者も同じように苦しんでいます。苦しみの種類が違うだけで苦悩者であることは何も変わりません。

あえて言えば人格者は苦しみの種類を変え続けた者

この夢の中では自身はこの人間であるという錯覚こそが苦しみを生み出します。五感が感じるのだから独立した存在である、この体があるのだから独立した存在であるという思い込みを人類全体で行なっているのです。夢の中で。だからこそ人格者の自殺、成功者の自殺、牧師さんの自殺、僧侶の自殺、グルの自殺はこの世界ではタブーです、苦しみを解明したと思われている人の死は多くの人々にショックを与えます。夢の中で。本当のことを言えば人格者とは苦しみを表面的に解消し続け苦しみの種類を変え続けてきた人々です。多くの方が将来の経済的悩み、健康的悩みを抱える中で人格者は尊厳を得続けていけるだろうか、周囲から評価され続けることができるだろうか、、という悩みを抱える者なのです、例えばですが。

夢の中で悩みを解消することは不可能

夢の中に自分という独立した存在があるというこの勘違いこそが苦悩を生み出していますから、この勘違いを解消することなく苦悩を解消することはありません。ところがそのようなメッセージに触れることはほとんどないために延々にこの夢の中で必死にもがき続ける人生(夢物語)を送っていくのです。一番重要なことはこの夢から覚めること。それだけです。