五感

偽りの自分は結果を急ぐ

結果を急ぐのは無知無能の証拠

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に扮して活動しています。人間に扮した神が見る世界が広がり、香る世界が広がり、触れる世界が広がります。人間の五感で感じれる世界だけが実は広がっています。この夢において神は全知全能から無知無能に生まれ変わりました。結果そのものから結果を出さなくてはいけない人間に変わりました。ということで人間は結果を気にします。結果が出ることを焦ります。結果至上主義に陥ります。

結果を出してもどうせ不足感は消えない

無知無能、不足感全開の人間は結果を出してもすぐにまた次の不足感が湧くようになっています。つまり結果を出しても意味がないのです。結果を出せばまた次の結果を渇望します。結果が出してくれるのは一瞬の解消でありこれは永遠ではありません。重要なことは結果を出すことではなく結果を出すために無心に入ってしまうことです、結果を出すために無我夢中、完全燃焼、無思考に入り込むことでその場で「結果」そのものになってしまうのです。

結果を出すことから「無心」に入る

書道はテクニックを学ぶ場所ではありません、茶道はテクニックを学ぶとこでもありません。それらは無心に入るコツを学ぶ場所です。無心とは実はすぐそこにあります。無心、無我は遠い場所にあるのではなく「今ここ」にあります。結果をだしても直ぐに不足感全開になる人間のために大切な機会を失う必要はありません。我々は神です、神が一時的に人間に変化しているだけ、人間に不足感に振り回される必要はありません。

偽りの自分同士が争い合うこの世界

争いには参加しない

人の争いに参加する必要はありません。争いとは偽りの自分同士が不足感を埋め合うために行っているものです。自身から湧いてくるこの無限の不足感をいかに埋めるか、その解消のために争っています。ですからこの争いは無駄です。一時的には何かしらの不足感を解消できるかもしれませんがそれは何の根本的解決にも至らずまた次の争いに進みます。地球上で戦争が終わらない理由はここにあります。

争いを発見したら思い出す

争いとは自身から生まれる不足感を他人を使って埋めようとする行為です。本人は相手の非難すべきポイントを上げへつらいだから争うのだとそれを正当化しますが実はその目的は自身から湧いてくる不足感をそこで埋めようとしているのです。不足感を生み出しているのはこの偽りの自分を本当の自分だと勘違いしていることにあります。ですから争いに入るのではなくそこから本当の自分を見つけることに入ります。人の争いを見るときはそのような視点で眺めればそこから悟りに入れます。

偽りの自分を維持するのは大変

この心身こそは自分である、この体の中に自分がいる、、この発想を維持するのは大変です。なぜならばそれは偽り、錯覚だからです。この思考、プログラムを維持するのは大変だからこそ人は争うのです。争うことでこのメカニズム、プログラムを維持するのです。これは神の夢であり、神はこの夢の中で人間に扮しています。役にのめり込んでいます。ですが所詮は役ですからこれは危ういことでもあります。この体があるという錯覚はリアリティーがあり勘違いするには最高のアイテムです、五感という疑いようのない感覚がこれをよりリアルにします。ですがこの心身こそが自分であるという発想はどこまで行っても予想の範疇を超えることができずだからこそ人は争いを通じてその疑念を隠します。

一つのエネルギーがこれを表現しているのだから分離は嘘

ワンネスとは一つのエネルギーのこと

ワンネス、一つのエネルギーこれがこの夢を表現しています。たった一つのエネルギーが起源になって現れるこの世界に分離があるとすればそれは錯覚ということは明らかです。この二元の世界は錯覚であるということは間違いなく事実ですしそれはこの一つのエネルギーが起源であることから明らかです。一つのエネルギーは分離という一つの錯覚ゲームを作ったということです。自分の他にその他大勢の独立した人々が居るというのは錯覚、嘘に決まっているのです。自分という独立した存在も他人という独立した存在も居るわけがない。ピカソが作ったアート作品、絵画の中に独立した何かは存在しません。全部がピカソのアートです。

ワンネスが描いたアート

これはワンネスが描いたアートです。このアートの中に独立した人間、動物、花は存在しません。独立したように見ることはできます。ですが実際はアート作品の表現がただそこにあるだけです。アート作品の中の何かが動き、何かを体験したとしても独立した何かは存在しません。体験はあっても体験者という独立した存在は存在しません。アート作品の中に独立した何かありません。独立したように見える何かはあります。

一つのエネルギーは一つが故に多を体験できない

一つのエネルギーは一つであるが故に多を体験できません。自身が分離することなど体験できないのです、一つがゆえにです。一つのエネルギーは仕方なく夢を想像しその中で一つではないことを体験することにしました。人間という制限のある存在に成り切ることで人間以外の存在を創造しました。人間に五感を与えることで人間の外に世界を創造することに成功しました。夢として。これで一つのエネルギーは多を経験します。自分と自分以外という世界が誕生したのです。

夢の中にどっぷりと浸かると視界全てから活気が無くなる

思考の世界にはまり込むと視界から活気がなくなっていく

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの世界は広がります。人間の視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感を利用してこのバーチャルリアリティーゲーム、夢が広がります。人間としての人間活動において人間は形上経験を積み、それによって価値観が形成されていきます。この価値観が「これは夢だ」という真実から離れて行けば行くほどに活気がなくなっていきます。つまり地獄界に入っていきます。そこに出てくる登場人物は信用できない人ばかり、罵詈雑言、陰口、妬み嫉妬の世界です。夢であるという事実から離れれば離れるほどに生きていくのが苦しくなります。思考の世界、分離意識が進めば進むほどに頼れるのは自分だけという無限地獄に入ります。

本当は活気しかない

これは色の世界です、空即是色、空が色として出現する世界、生命が光の世界に変化します。これは生命です。夢は生命の多様性です。ライフの表現。神の表現、アートです。神のアートが濁って見えるのは勘違いが進んでいるからです。ある人を友人に紹介する時に「実はこの人は犯罪歴があって、、」と嘘をついて紹介すれば友人は歪んだ見方でその人を見るでしょう、そうすると本当に犯罪者のように見えてきます。つまり歪んだ見方で、価値観で真実を見ればこの神のアートはそう見えるのです。本当は活気しかないこの神のアートが濁って見えてきます。

生まれたばかりの子供たちは世界が光って見える

生まれてから3歳ぐらいまでの期間はこの世界は光って見えたはずです。なぜならばこれは神が見る夢であり、神のアートであり、生命の表現です。ところがあらゆる経験、知識を取り入れることによってこの夢を現実と誤解するようになり、誤解が進めば進むほどに歪んで見えてくる。真実とは遠く離れていくわけです。真実はこれは夢、以上です。大人は子供と違って見える世界が濁っています、この濁った世界で不足感が沸き続けそれをなんとか処理していく。このメカニズムを暴く時が今です。

自分が居るという錯覚ゲームの盲点

「自分が居ない」という理論で検証

カレーを食べている時、先ずはその食事を見ます、これは視覚です。カレーを口に入れます、その時に舌で先ずはその感触を確かめます。触覚が働きます。次にカレーの味がします、これが味覚です。次にカレーの香りがします。これが嗅覚です。噛んでいるときに音がします、これが聴覚です。この五つの感覚で人間は実際にカレーがそこにあることを確証します。実在していることに疑問を持ちません。逆に言えばこのカレーを食べているという事実があるのだから自分はいるのだと結論づけます。こうして人間の実在を確認しています。ですがこれは全て脳の電気信号で片付きます。 脳を細工すればこれは全て再現できます。ということは自分が居るという根拠が崩壊します。カレーを食べたのは事実だから自分は居るのだと結論づけましたがこれは電気信号で片付いてしまいます。これが全て幻想であるという理論も実証できてしまうのです。五感でカレーを感じた、これは紛れもない事実です。ですがこれ以外は全て推測、予想です。自分が居るというのは予想でしかありません。

「人と会話している」を検証

目の前の友人と話をしています。友人が見えます、これは視覚の確認です。友人が自分に話しかけています、これは聴覚と視覚の確認です。友人が自分に触りました、これは触覚での確認です。友人の香水を感じました、これは嗅覚の確認です。今回はこの4つの感覚を得ることがいました、それで自分がいると感じています。ですがこれも全て脳の電気信号だけの話です。これで自分が居るという証明にはなりません。もしも脳の電気信号を直接操作すればこの経験を体験できます。これが全て幻想だとしても説明がついてしまいます。ということは自分が居るという理論は証明できません。視覚、聴覚、嗅覚、触覚で感じたことは事実です。ですがだからと言って自分が居るというのは推測ですし、その友人の存在も推測の域を出ません。脳の電気信号で全て創作できてしまいます。

経験があるのだから経験者はいるに決まっている?

経験は確実にあります、スポーツをする、お酒を飲む、食事をする、音楽をきく、、、、これらを五感で確実に確認できます。それは紛れもない事実です。ですがその五感があるから自分が居るは嘘です、推測です、妄想です、夢です。これは神が見る夢です。この夢の中ではあらゆる体験をすることができます、踊って、歌って、飲んで、遊んで、、、全部体験できますが、、、だからと言って自分が居るは嘘です。経験があるのだから経験者が居るは、、暴論です。経験はどこまでも事実ですが経験者が居るはどこまでいっても事実無根です。

「お風呂に入っている」を検証

お風呂に入ります、先ず視覚でお湯を確認します。次にお湯の熱を感じます、これは触覚で感じます。次にバスソルトの香りを感じます、これは嗅覚の確認です。次にお湯の音を感じます、これは聴覚の確認です。次にバスソルトの味を感じます、これは味覚の確認です。この5つの感覚、確認で人はお風呂に入っていることに疑問を持たないし、それを感じている「自分」という存在にも疑問を持ちません。お風呂の存在も、自分の存在も疑いなく事実と感じます。ですがこれも脳の電気信号で全て同じ体験を作り出せます。ということでお風呂の存在も、自分という存在も全く事実とは言えなくなりました。

夢の中のこの主人公こそが混沌と破壊の原因

まさか主人公が混沌を作り出しているとは?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間という主人公(私)を作り五感を使ってバーチャルリアリティー、リアルドリームを作りました。さらにそこに感情、思考を加えてよりリアルな夢の世界を構築したのです。神が主人公ですからこの人間という役柄は大変ストレスがかかることになります。性格には不足感、欠落感ということになります。神と人間のこのギャップ、神が人間に成り切ることで生まれる違和感こそがこの人生を覆い尽くすストレスになります。なんとかしてこのギャップを埋めたいと動き回るこの喜劇こそが人生と呼ばれるものです。

釈迦は王様で全てを手に入れたのち、山に籠った

釈迦はインドのある地域の王様でした、王様ですから朝から晩まで遊べ踊れの生活、何の不自由のない生活をしたのち人間とは何なのか?という謎を解くべく山に篭ったのです。全部を手に入れた状態でなぜさらに次を求めるのか?これが人間活動の答えです。人間活動とは不足感を感じ続けるものなのです。一国の王様が突然国から脱出してしまうわけですから周囲はたまったものではありません。この夢の主人公とはそういうものなのです。主人公がこの不足感、欠乏感を埋めようとすれば周囲は混沌、破壊につながります。ですが主人公はこの不足感を見て見ぬふりはできませんから仕方ないのです。この夢において悪者は誰もいません。

人間ゲームは長い、、、

人生はあっという間、、気付けばもう終盤、、これも事実でしょう。ですがこの不足感湧き出しゲームの構造を理解してしまうと安泰がないことは分かります。静かな老後がないことも分かります。そう思えば長い、あまりにも長いのがこの人生です。神がこの人間になり切っているだけですから意識は常に鋭敏です、辛い、しんどい、悲しい、孤独、嫉妬、、全部死ぬまで感じ続けることになります。私は30歳ぐらいの時に辛さや、苦しさに対し見て見ぬふりをするのを辞めて見ました。周囲がそれを我慢しているのだから自分もそれを受け入れようを辞めました。徹底的にこの苦痛を直視することに決めました。このブログもその活動の一つです。

神は夢の中で有名になろうとする

神がなぜ有名になる必要があるのか?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間を創造し五感を与えこの夢を完成させます。人間に成り切った神は人間の五感を使いこのバーチャルショウを形成します。人間に成り切った神はこの夢の中で有名人になろうとします。芸能人、タレント、著名人などはこの主人公が憧れる一つです。本来神であるものがなぜ人間に成り切ると有名人に憧れるのか?という話です。それは本来神だからこそこのちっぽけな存在、弱い存在ではないことを知っているからです。存在感で言えばこの夢の創造主であるわけでそこを動く人間(主人公)のレベルではないのです。だからこそせめて周囲から注目を集めたい、そう思うわけです。

芸能人になってもタレントになっても人間という枠からは出れない

もしも主人公(人間)が有名人、タレントになって周囲から注目を集めれるようになったとしてもそれは人間としての人気であって神に戻るわけではありません。よってこの不足感、欠乏感がなくなることはありません。本来であればこの夢の創造主である神が注目を集めるぐらいのことで満足するわけがないのです。タレントランキングで一位になっても神には到底及びません。自分が人間であるという錯覚を外さない限りこの苦悩は延々と続くのです。

神ってる、、

神ってるという言葉はYahooニュースでも稀に見ますがこの意味が実は深いものがあります。人間が異次元の活躍をした時にこの神ってるという言葉で称したりしますがまさにその通り、異次元に突入する人間は神に戻ります。思考を抜け落とす、何かに集中する、一所懸命になる、、要は自身の意識を人間から脱却できるとその時に神に戻ります。夢から一時的に覚めます。物事に集中できる方々が芸能界などに興味を持たなくなるのは自身で神に戻る感覚を掴んでいるからです。

神は夢の中で両親を作るがこれも夢

最重要脇役ですら夢の登場人物に過ぎない

これは夢です、神が見る夢です、神が人間(私)を主人公にして人間に成り切る夢です。人間の五感を利用してバーチャルリアリティーゲームを構築します。目がなければ見える物体は存在せず、耳がなければこの世に音楽は存在しません、触覚がなければ硬質の石も存在しません。つまり五感の存在=世界の多様化です。そこに思考、感情を加えることでバーチャルリアリティーショーに多様性を加えました。思考が変わるとリアルにこのバーチャル世界も変容します。神が作った夢、ゲームは複雑怪奇、多様性の鬼です。主人公として生まれてきた時に両親が存在しますがこれも夢の中での登場人物に過ぎません。両親という個別の独立した実在はいないのです、これは夢です。実在しているように間違いなく見えますが夢の中でという条件付けです。

両親絶対説の誤り

両親すらもこの夢の登場人物に過ぎません、登場人物ですからそこには個別性や独立性などあるわけがありません。夢の中の登場人物がもしも実在しているならばあなたが毎日みる夢にその実在は毎回現れなくてはなりません、ですがそのようなことは絶対にありません。これは神がみる夢ですからここの出てくる登場人物に実在はないのです、体に触れようが、話しかけれようが、声を聞こえようが、、、です。どんなに愛情深く、理解力のある両親に恵まれてもいずれその場所を離れたくなるのは本当のリアリティーがないからです。

溺愛してくれる両親がいて溺愛する子供に恵まれても、、、

この夢は神が見る夢であり神が主人公である人間になりきって人間活動をする夢です。神が人間になった時点で不足感全開、欠乏感全開です。だからこそ溺愛してくれる両親がいても、溺愛する子供たちに恵まれてもそれでもこの不足感は無くならないのです。妻からもっと理解されたい、子供たちからもっと評価されたい、会社でもっと出世したい、、愛人も欲しい、、、こんな調子で不足感は変幻自在に感情として出現します。

神は人間に成り切ってはいるが「私はある」というこの感覚は神の感覚でしかない

今ここに「居る」という感覚は神の感覚

これは神夢です、神が創造した夢です。人間を主人公(私)にしてこの夢を創造しました。神は人間に成り切ることでこの夢はスタートしていますがでは神感覚と人間の感覚はどのように区別すればいいのでしょうか?区別はできません、なぜならば人間も神の創造物だからです。思考が湧き、感情が湧き、五感を感じているのは全て人間扮する神です。神が今この瞬間も自身を人間と勘違いしながらこの夢、ゲームを堪能しているのです。

この世に苦しめる神など存在するのか?

この人間活動を認識しているのは神ですから苦しみも切なさも、息苦しさも、孤独感も神が感じています。人間のフリをして。神以外が認識することはできません、人間とは姿形の生命現象であってこれは独立したものではありません。神がこの夢の中を活動するための仮の姿です。マリオに感情はありません、マリオを使ってゲームをクリアした時に喜んでいるのはプレーヤーです。これはこの夢物語でも同じです。マリオを使ってに喜怒哀楽は全部プレーヤーが感じているのであってマリオではありません。マリオの使い勝手の悪さも、マリオのジャンプ力の低さに対する苛立ちも、マリオが横にしか動けないもどかしさも全部プレーヤーが感じています。

人間としての孤独感は、一番の勘違い

人間活動の最も大きな要素は孤独感をいかに感じないようにするか?これをクリアするために朝から晩まで我々は人と触れ合い続けています。どんなに人間関係が苦しくてしんどくても我々は人間を求めます。神が作ったこの夢で主人公はこの私ですがそれ以外は全部神が作った脇役です。主人公とは全くの別物、別次元です。ですからこの夢の中で多くの友人、知人、家族に囲まれてもこの孤独感が埋まることはないのです。神が扮するこの主人公(私)が実は神であったと気づくまでこの孤独感は続きます。

神は夢の中で不足感を貯蓄していく

不足感を体に蓄え続けてコップをいっぱいにする

これは夢です、神が作りその中で人間を主人公にした夢です。この夢物語、ゲームは人間の五感をベースに構築します。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、、これらは幻想にリアリティーを与えるツールになります。そしてそこに思考、感情を加えることでこのゲーム、夢はより一層リアリティーを強化します。主人公である人間を演じるのは神ですから圧倒的な不足感を感じます、神が。ということで主人公演じる神は不足感をあらゆる感情に置き換えてそれを蓄えてこの人生を歩んでいくことになるのです。孤独感、劣等感、疎外感、憂鬱感、、、これらを記憶し体に溜め込んでいきます。大人になるにつれて重苦しい空気が出てくるのはこの感情の蓄積です。

感情の蓄積はある時に爆発する

人間に成り切った神は不足感を噴出し続け、それは各種感情として蓄えていきます。人間には記憶機能があるため過去の悔しさ、惨めさ、辛さを記憶していきます。不足感のデパート、冷蔵庫、貯蔵庫のようになっていくのです。この貯蔵タンクが満タンになった時、人は爆発しこれまでの生活を完全に壊すのです。それが転職だったり、離婚だったり、病気、不登校だったりします。この人間ゲームは記憶機能があることでよりエキサイティングになる一方、辛さ、キツさ、しんどさ、もより一層強化されます。

コップいっぱいになった時に、、、

コップいっぱいになった時に人間が行動できることは2種類あります。それは限界まで耐え抜き、弾け、壊れ現状をぶっ壊してしまう方法、もう一つが人間のこの欲求不満ゲームから積極的に降りてしまうということです。欲求を満たし続けても埋まらないこの不足感に脱帽し人間の本質、神に迫っていくという方法です。書道、花道、禅、仏教、悟り、ノンデュアリティーなどはそれに当たります。ほとんどの方はこの中間を行くことになります。