五感

五感が開く、現実が開く、悟りが開く

五感とは

我々はどこまでいっても現実に対し受け身です。目を開けば視界が入ってきます、匂いが鼻の中に入ってきます、音も耳に入ってきます、感触が手を通じて入ってきます、、、この現実を知るには我々は五感を通じて入れるしかない、、受け身に徹しています。現実とは根源です、この現実を堪能するには五感が開いていなければならないのです、五感が閉じていれば現実(根源)が入ってきませんから重苦しくなっていきます。睡眠不足の時のあの不快感とは五感を通じて現実(根源)が入ってこないからです。

五感を開くことを優先する

外でスポーツをすると爽快なのは五感が開くからです。五感が開く、現実が入ってくる、、根元(至福)に触れるです。サーフィンや登山など自然の中でのスポーツが病みつきになるのはこのためです。思考に触れると思考と仲良くなってしまい、、より思考が溢れてきます。これは空想の世界、ファンタジーの世界、喜怒哀楽の世界です。苦しい世界です。五感が開き現実に触れると、、現実が押し寄せてきます、現実とは根源であり触れれば触れるほどに根源が押し寄せてくるのです。根源とは=至福です。

五感を開けば思考が閉じる悟りが開く

五感を開くとは五感を鋭敏にしていくこと、そのためには自然に触れる、体を動かすことは役に立ちます。自然とは悟りそのもの、このエネルギーに触れると五感が強制的に開いていきます。あとは体を動かすこと、体を動かすとエネルギーが循環し五感が開いていきます。五感が開くと現実、根源が入り込んできますから自然と思考が湧かなくなっていきます。ファンタジーの世界が閉じ、現実(至福)の世界が開いていきます。思考が閉じ、悟り(現実)が開きます。

外に居るだけで五感が開き悟りが開く

五感をフル稼働させるだけ

そんな簡単な方法で????そうです人は五感が開けば悟りが開きます。悟りが開くとは五感が開くことなのです。めちゃくちゃ美味しいケーキを食るその瞬間、悩むことは不可能です。素晴らしい映画を観ながら悩むことは不可能です。五感をフル稼働しながら不幸になることができないのです。ということは自然に触れて五感をフル稼働すれば不幸になれない体になるということです。感じれば感じるほどに思考から離れてしまうのです。大切なことはこの事実を知っておくことです、五感全開、悟り全開の状態を覚えた思考はこの功績を自分のものにし自分を評価されたいという思考を湧かせこれに争います。

悟りが開いた「自分」をみろ

五感全開は悟り全開であり、、この状態は覚醒状態です。この覚醒状態をキープしよう、評価されたい、目立ちたい、人に教えたいという思考が湧いてくると覚醒状態が終わります。思考の波に襲われるからです。こんな覚醒した「自分」は評価に値すると思考するからです。これが思考の罠です。この思考を無視してさらに五感を開いていきますと悟りが開いてきます。五感がこの事実をより深く感じていくからです。

悟りを開いた「自分」を殺す

五感フル稼働状態は悟りフル稼働状態ですが、、この状態は周囲からの反応も良いのでこの状態を「自分」が独り占めしようとします。この状態すらも「自分」は所有しようとすることで自分を維持しようとします。覚醒を所有する自分が居るという思考が湧いてきてこの思考を維持しようとします。ここを見抜きます、思考の最終サバイバル術です。五感がフル稼働し思考が薄まったからこそ覚醒しているということが腹落ちしますともう「自分」という思考へのしがみつきも薄れていきます。

五感、五感、五感、、非二元

今、今、今、非二元

五感を最優先して生きていくとは、今を最優先させて生きていくことにあります。今を何よりも優先しているか?過去や未来です。今は酸素量が多く、過去や未来は酸素量が少ない世界です。ですから覚者は皆今に居ろといいます。過去や未来ばかりを考えていると酸欠状態が続き苦しくなります。なぜ酸素が薄くなるのか、、簡単です今が薄くなるからです。今とは酸素そのものです。五感を優先させて生きていきますと今にしかいれません、つまり酸素しかない世界ということです。この世界で苦しむのは逆に難しいのです。

思考はいつも意識を過去未来に連れていく

今しかないのに、、、思考は好きあらば意識を過去、未来に連れ去ろうとします。そして酸欠状態を作り出しておきながら、、この酸欠を解消するためには、、、これをした方がいい、あれをした方がいい、あれが反省ポイントだ、、これが改善ポイントだ、、とさらに思考の波に飲まれさせます。この思考の常套手段を見抜くことです。何か苦しい、、と思ったら確実に思考によって過去、未来に連れ込まれています。直ぐに今に戻ることです。五感の感覚だけを感じて思考を追い出します。体は今にしか存在できません。

歩く時は思考を入れない

歩く際には、足が地面を感じる感覚、肩が風を切る感覚、歩行者の話し声、見える看板、道端の花々、、、これらをただ感じていきます。そこに思考を挟まない、、思考の世界に入らない、、これを練習していきます。そして思考が湧いてきたらただ放置する、、これにより今から離れることがなくなります。すると今がより今になっていきます、今が益々今になります。今がこちらに寄せてきます、今とは非二元、大いなる一つ、神です。

五感の感覚だけを感じて1日を過ごす

五感の実況中継

我々は既にノンデュアリティの世界に生きています。と言うよりもノンデュアリティしかこの世界にはありません、そこに思考が湧き出しそこにしがみつことで思考の世界に取り込まれていく「自分」が作り出されそのまま思考の世界を生きることになります。どちらも幻想です。その幻想の世界が苦しいので人はこの世は苦しいとなるのです。自ら思考の世界に張り込み窒息しようになっています。

解決しなくてはならないことがある、、、

とは言え解決しなくてはならない問題がある時はどうするのだ?何も思考しなければ問題は解決しない、、、それを理解して思考を使っていることに自覚的であるならば問題ないでしょう。ですが多くの方は考えるのがデフォルトになり常に考え続けています、考えていないと不安だと言わんばかりに。結局は思考に取り込まれ続けています。思考に取りこまれれば非二元から離れていき苦しくなっていきます、結果苦しいからまた考えるのループに入るのです。

五感だけに触れていく

それが分かればもう簡単です、五感だけに意識的に触れて行けばいいのです。五感の感覚を自ら実況中継して五感の感覚に思考を挟み込まない癖をつけていきます。こんなアナログなこと?そうです。こんなアナログなことなのです、思考は常に入り込む隙間を狙っていますがそこに隙間を与えない、、こんなアナログな行為の連続で思考がない世界の心地よさを思い出していきます。その心地よさの先に非二元がいつでも横たわっています。その世界は平和、歓喜、安堵の世界です。

思考が思考を呼び、五感が五感を呼ぶ

考えれば考えるほどに泥沼に入る

多くの方はこれを経験していると思います。バイトを辞めたくなってきたときなどバイトのことを休み中も考えてしまうようになる、、するとバイト中もバイト外もそのことばかりを考えてしまって、、、重くなって重くなって急遽辞める、、、物事の終わりってだいたいこんな感じです。バイトが楽しい時は楽しいから考えたりしない、夢中になっているから、、、だから休み中も特にバイトのことを考えずにいられる、、結果重くならない、、、

非二元、ノンデュアリティは、、どこにある?

日々の生活の中で思考を意識的に放置することを学びますと、、、思考に支配されない、、、すると日々の生活は五感のみに、、、五感とは徹底的に無心の世界、無我の世界です、感じるいうことに「自分」は必要ないからです。ただ感じるだけがあるだけ、、、音楽が流れる、友人との会話がある、スポーツを感じる、、感じるだけ、、、するとそこから無心無我に馴染んでいきます、大なる一つ、非二元が馴染んできます。思考が思考を呼び重くなり、五感は五感を呼び軽くなる、無心無我の世界です。

無我が思考を忌み嫌うまで、、、

本当に無心無我に馴染んでいきますと、、もう思考に対して違和感を感じるようになっていきます。思考のバイブレーションが合わなくなっていくのです。無心、無我、ワンネスのバイブレーションに馴染んで行くと思考のバイブスに違和感を感じるようになります。このためにはひたすらにどちらに馴染む癖をつけるかです。先ずは最初の一歩からです。

五感以外に事実はない

事実と思考を完全に引き離す

A地点からB地点までは二キロの距離がある、、これは事実ではありません。私がA地点からB地点まで歩いて行くとします、A地点から歩いて行く間に目に入る景色、足が感じるアスファルトの感触、会話をしている歩行者の声、これは事実です。確実に私の五感が感じています。そして最後にB地点に到着しました、これも事実です。ですがその距離が二キロあったというのは事実ではありません。これは我々の思考です。非二元では空間はないというのはこのことからです、空間を感じることができない、感じることができないのは事実ではないということです。事実はこの体が感じたという事実だけです。

時間もない

時間もありません。瞬間瞬間我々は今を感じています、この瞬間を確実に感じています。ですが時間を感じることはしていません。時計を見たら五分経っていたというのは時計を見たからそう思っているだけです、自身が五感で時間を感じていません。過去の写真を見たから時間の経過を信じているだけです、これは思考です。冬になってきたら寒くなった、、、これは時間ではないです、ただ寒いを感じているだけです。時間もこの五感が感じていないから事実ではないのです。

事実はいつも非二元で思考はいつも二元

事実はいつでも非二元です、神です、ワンネスです、、要は重くないのです。そして事実から思考に移るとそこは二元、自分、自我、幻想、、この世界は重いのです。我々人間は直ぐに思考をつかたがります、なぜならば思考=自分だからです。何かアクションを起こすと同時に思考が湧き出してきて思考の世界に取り込まれます。そして重い世界に身を置きます。思考の世界は常に自分と一緒に入れます。一方事実の世界は自分が居ません、非二元がただあります。ここは軽い世界です。

五感と思考の綱引きに勝つ

五感は常に神に導く

体を使った五感に触れることは神に触れることです。体とは今にしか居ることができません、今とは全体のこと、神のこと、ワンネスのことです。五感に触れ続ければそのまま今、神、全体、ワンネスにあることです。ところが五感を感じると必ず思考が湧いてきます、この料理は新鮮だろうか?この香りは何の調味料だろう?このワインはフランス製か?あの看板は昨日見たっけ?どの五感からでも思考が割り込んできます、、、この思考の割り込みに乗ってはいけません。この思考の割り込みに乗れば、、、そのまま過去、未来へと連れ出され引っ張り出され、、、今、神、全体、ワンネスから離れていきます。

思考は過去、未来に意識を引きずり回す

思考が存在する場所とは過去、未来です。思考に意識を向ければそのまま過去、未来に意識が引っ張り出されます。過去、未来とは今、神、全体の波動が薄れた場所です。この場所に居続けると居心地が悪くなっていきます、酸欠になっていきます。一日中思考フルスロットルの人間は一日中酸欠状態にあります。思考の罠に引っかかったら直ぐに五感の感覚に戻ります。そこは今、全体、神です。

五感と思考の意識の引っ張り合いは思考に軍配が上がり続けてきた

五感と思考の引っ張り合い、、、多くの方は思考に引っ張られ続けてきたはずです。今、全体、神から、、、引き摺り下ろされ、、、酸素が薄い場所に連れて行かれていたはずです。それが思考が存在する場所、過去、未来です。何かを見てば思考が湧き、何かを食べれば思考が湧く、何かに触れれば思考が湧き、、、と一日中今から過去未来へと連れて行かれてきたはずです。もう思考に関心をもたない、、、思考が湧いてきても放置です。

五感からの自分錯覚を見破る

食事を食べる

牛丼を食べます、視覚に牛丼が見えます、これを体は自分が見ていると錯覚します。ですが気づきの意識が見ています。お箸を手に取ります、お箸の感触を感じます。これを体は自分の体験として捉えます。ですが実際は気づきの意識がこれを経験しています。お箸が牛丼を掴み口に入れます、舌が牛丼に触れます、これを体は自分が感じていると錯覚します、ですがこれは気づきの意識が経験しています。鼻が牛丼の香りをキャッチしました、これも気づきの意識が経験しています。五感は常にこれを感じているのは体の中の自分であると錯覚を起こしたがります。ですが全部気づきの意識が経験しています。

マリオがクッパと戦う

マリオの前にクッパが登場しました、恐怖心が湧いてきます、これをマリオは自分から恐怖心が湧いてきたと錯覚します。実はプレイヤーが恐怖心を感じています。マリオはクッパがジャンプしているのを見ます、マリオは自分がその事実を見ていると感じます、ですがこれはプレーヤーマリオがクッパのジャンプを見ているのを見ています。クッパがマリオに襲いかかってきました、クッパの攻撃をマリオが受けます、、この時マリオは自分が攻撃を受けたと錯覚します、ですが本当はプレイヤーがマリオが攻撃を受けた経験をしています。マリオが経験していることは全部その外に居るプレイヤーが経験しているのであってマリオの中の自分錯覚ではありません。

感じているのを中とするか、外とするか

マリオの中でスーパーマリオを感じているとするのも自由、マリオの外に経験者が居るとするのも自由です。マリオの中に自分が居るとなると深刻さが増し、マリオの外に自分が居るとなると深刻さが薄くなります、というよりも深刻になれない。この人間ゲームも全く同じ、この体の中に自分が居るとするか体とは全く関係ない気づきの意識がただ経験しているかで深刻さが変わってきます。

このブログをカフェで書いてる時

音楽が聞こえる、、、

私は今このブログをカフェで書いています。音楽が聞こえます、この音楽私の耳で聴いているということもできますが気づきの意識が聴いているとも捉えれます。パソコン画面が見えます、これも人間である私が見ていると捉えることもできますが気づきの意識が見ていると捉えることもできます。この体はありますがくPC画面と私の間には体は存在しません、ただ目の前にPC画面だけがあります。気づきの意識がこれを認識します。勿論目をつぶるとPC画面は消えます、真っ暗が見えます。気づきの意識が真っ暗をい認識します。人間としても捉えることはいつでもできますが気づきの意識としても捉えることができます。ブログをタイピングする時にPCに指が触れる感覚を感じます。これを体が感じていると認識することもできますが気づきの意識が感じていると認識することはできます。

マリオを意識しようとしなくてもスーパーマリオはできる

スーパーマリオをプレイする時、全体験をマリオがしていると錯覚してもプレイできますがプレーヤーがやっているという事実でもプレイできます。当たり前の話です。この人間ゲームも同じ、人間のなかに自分が居るという前提でプレイできますが、その前提を壊し全部を気づきの意識が体験していると捉えることができます、本当はこちらです。どこまでも人間の中に自分が居てこの人間をプレイしていると捉えることはできます、ですが全部をこの気づきの意識が経験していると捉えることができます。

マリオがコテンパンにやられて

マリオに五感があるとしましょう、その五感がある状態でクッパにコテンパンにやられた、、、マリオの中に自分がいると錯覚するのは容易にできます。痛いのですから、さらに悔しいという感情が湧いてきたら、、自分の感情と錯覚するマリオを作るのは容易でしょう。ですが本当は全部プレイヤーがやっています。このリアルバージョンが人間ゲームです。人間が感じる痛み、辛さ、苦しさ、悔しさ、、、これを自分の体が体験しているという思想、、、完璧に人間ゲームにどっぷりはまり込み、気づきの意識、プレイヤーは自分がやっていることを忘れます。人間ゲームの凄いところはこの体の中に自分が居ると錯覚を起こしても何一つ矛盾がないことです。

ただ音だけがある

マリオのBGMはマリオが聞いていない

スーパーマリオではBGMが鳴ります、このBGMマリオには五感がある場合マリオは聞くことはできます、ですがマリオが聞かなくてもプレイヤーが聴いています。この自分劇場も同じです、我々には聴覚がありますからお店に入ればBGMが聞こえます、ですが同時にこれをプレイヤー、気づきの意識が聴いています。人間の聴覚としても聞けます、ですが気づきの意識としても聞けます。マリオがキノコを取った時に効果音がなります、この効果音をマリオの耳でも聞けます、ですがプレイヤーとしても聞けます。雨を降ると人間としても私の耳が聞けます、ですが気づきの意識としても聴いています。我々は音楽をきくと体の中の自分が聴いていると認識します、これをただ音楽が流れていると気づきの意識として捉えていきます。この体の中に自分が居るという認識をこうして外していきます。

いつでも「この体の中の自分が経験している」に戻すことはできる、、

スーパーマリオに集中してる時は、クリボーからのダメージも、倒した時の効果音も、スターを手に入れたときの無敵状態も、、、マリオが経験しているかのうように錯覚することができます。ですがこれは全て錯覚です。この人間ゲームも集中している時は全部を人間(自分)が経験しているように認識できます、ですがこれが錯覚です。本当は音楽を全体として聴き、この体が味わうコーヒーも全体が経験しています、食事をすれば人間が美味しいと感じていると錯覚していますが、全体が経験しています。友人と喋ればこの体が楽しんでいるように感じますが全体が感じています。マリオが経験していると認識するのも自由、人間が経験していると認識するのも自由ですがそれは錯覚です。

コンサートに行く

コンサートに行きます、あまりに煩いので耳栓をしました、、、人間として聞こえる音量は下がりました、、ですが同時に気づきの意識が認識する音量も下がります。やっぱりしっかり聴きたいと耳栓を外します、すると人間の耳として聞こえる(錯覚)音量は上がります、ですが気づきの意識が認識する音量も上がります。不味い料理を食べる時鼻をつまむと味覚が半減したようになり食べれます、鼻をつまむと人間として味覚が減る感覚を得ます、ですが同時に気づきの意識として味覚の半減を感じます。全部が全部、人間としてこれを経験するか気づきの意識としてこれを経験するかです。悟りを開くとは「自分が居なくなること」という認識が世間であるかないかは分かりませんが実はこんな簡単なことです。