主人公

運動を毎日のリズムに取り入れる

無心になって取り組めるエクササイズは神に戻る行為

毎日のエクササイズ、これは実は重要です。これは夢です、神が見る夢ですがこの夢の中では人間は不足感発生器、神が人間になり切っているわけですがその状態は苦しいのです。何をしていても不足感全開です。ですがこの人間になり切った神が神に戻れる瞬間があります。それはスポーツをしている時です、なぜか?体とはこの夢の中で夢から覚めるための重要な道具なのです。体は今にしか存在できません、体を過去や未来に連れて行くことはできません。思考は過去や未来に馳せることができますが体はそういうことには至らないのです。ということで強制的に今にあることを可能にするのが体に意識を向けることなのです。今とは何か?今とは夢の外に出ることです。夢の中のストーリーは過去から未来へと流れる時間軸の中です。過去の影響を一切受けない主人公はこの夢の中にはいません、主人公は常に過去の影響を受けています、つまり過去に縛られているのです。時間軸に縛られていると言ってもいいでしょう。ですが体に意識を向ける時、過去から解放されます。過去のことを考えながらスポーツはできません。過去から抜け出す、時間から抜け出す、つまり夢から覚めて人間から神に戻っているのです。

体に意識を向けると思考の柵から抜ける

思考の柵に取り憑かれている間、人間扮する神は人間から脱出ができない状態です。ところがこの人間の体に意識を向けると思考の柵が取れ、この心身こそが自分という思考(自我)の柵が一時的に抜けるのです。一時的に人間から神に戻ります。一時的に歓喜、平和、安堵にシフトします。このメカニズムを知ると1日に何度もエクササイズするのが楽しくなります。1日に何度も至福、歓喜、安堵に戻れるのです。結果を出すことに焦らなくなります、結果を出すことよりもその途中に安堵、歓喜、平和を発見してしまいます。悟りを開かなくても、覚醒体験を得なくても、一瞥体験を得なくても、、毎日エクササイズ中は神に戻れます。

仕事中も、エクササイズ中も、掃除中も、、神に戻れる

幸せの青い鳥の話ではありませんが、、、幸せは直ぐ近くにあります。登山家が頂上を目指して登山を始めたその瞬間、無心になって歓喜に入れます。毎日のエクササイズも無思考になれって体に意識を向けるとその瞬間に歓喜に入れます。仕事に関しても何度の反復でこなしていけばそこから無思考に入り無我、歓喜に入っていけます。人間活動をしているのは紛れもなく神ですから実はいつでも神に戻れるのです。書道、花道、武道の真髄はここにあります。

神が見る夢の中での時間あるなし問題

時間はある、ない、、禅問答

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に扮する夢です。さてスピリチュアル探求者、悟り探求者の中で必ず話題になるテーマ、時間について今日はお伝えしたいと思います。結論から言えばこれは夢ですから時間はあると言えばある、ないと言えばないとなります。夢ですから。あなたが毎晩見る夢の中で時間は存在するでしょうか?ストーリー展開としては確実にあるでしょう。ですが本当にあるのか?と言われれば夢ですから実態はないと言えます。時間とはそのようなものです。夢の中であなたが富士山に登る、その時時間は存在するでしょう、ワープを使わない限り。ですがその時間とは夢の中で存在しますから無いと言えば無いのです。我々が現実社会、現象界と称するこの世界は神が見る夢ですから時間はない、あるどちらも言えます。人間目線であれば勿論時間はあります、ですが神目線で見れば夢だからないということになります。

空間はある、ない、、禅問答

空間についても議論が多く出る問題です。これも夢で考えれば簡単です。夢の中に空間は確実に存在します、空間がなかったら主人公も、脇役も誰も登場できないです。昨晩あなたな見た夢がサッカーをしている夢ならば球技場が絶対に必要になるでしょう。だから夢の中では100%空間はあります。ですが夢です。そしてこの現実社会、現象界は神が見る夢です。人間(主人公)にとっては空間は確実にあります、ですがこれは夢の中での空間ですから主人公(私)が見る視界以外には空間は存在しません。私(主人公)が見ていないところでは空間はあるはずがないのです。夢ですから。

自由意志はある、ない、、、禅問答

自由意志についても議論が多く出る問題です。この自由意志はあるのかないのか問題はスピリチュアルの究極問題、悟り系探求者の究極問題です。ですがこれも神が見る夢だという認識を持てば簡単です。神が見る夢ですからそこに出てくる登場人物(主人公)、脇役に自由意志があろうはずがありません。ただし主人公になり切っているのも神ですから神目線では当然にあるということになります。主人公(人間)になり切っている神目線であれば自由意志は確実にあります。ですが人間目線で言えば当然ないということになります。夢ですから。

夢の中のこの主人公こそが混沌と破壊の原因

まさか主人公が混沌を作り出しているとは?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間という主人公(私)を作り五感を使ってバーチャルリアリティー、リアルドリームを作りました。さらにそこに感情、思考を加えてよりリアルな夢の世界を構築したのです。神が主人公ですからこの人間という役柄は大変ストレスがかかることになります。性格には不足感、欠落感ということになります。神と人間のこのギャップ、神が人間に成り切ることで生まれる違和感こそがこの人生を覆い尽くすストレスになります。なんとかしてこのギャップを埋めたいと動き回るこの喜劇こそが人生と呼ばれるものです。

釈迦は王様で全てを手に入れたのち、山に籠った

釈迦はインドのある地域の王様でした、王様ですから朝から晩まで遊べ踊れの生活、何の不自由のない生活をしたのち人間とは何なのか?という謎を解くべく山に篭ったのです。全部を手に入れた状態でなぜさらに次を求めるのか?これが人間活動の答えです。人間活動とは不足感を感じ続けるものなのです。一国の王様が突然国から脱出してしまうわけですから周囲はたまったものではありません。この夢の主人公とはそういうものなのです。主人公がこの不足感、欠乏感を埋めようとすれば周囲は混沌、破壊につながります。ですが主人公はこの不足感を見て見ぬふりはできませんから仕方ないのです。この夢において悪者は誰もいません。

人間ゲームは長い、、、

人生はあっという間、、気付けばもう終盤、、これも事実でしょう。ですがこの不足感湧き出しゲームの構造を理解してしまうと安泰がないことは分かります。静かな老後がないことも分かります。そう思えば長い、あまりにも長いのがこの人生です。神がこの人間になり切っているだけですから意識は常に鋭敏です、辛い、しんどい、悲しい、孤独、嫉妬、、全部死ぬまで感じ続けることになります。私は30歳ぐらいの時に辛さや、苦しさに対し見て見ぬふりをするのを辞めて見ました。周囲がそれを我慢しているのだから自分もそれを受け入れようを辞めました。徹底的にこの苦痛を直視することに決めました。このブログもその活動の一つです。

神は夢の中で有名になろうとする

神がなぜ有名になる必要があるのか?

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神は人間を創造し五感を与えこの夢を完成させます。人間に成り切った神は人間の五感を使いこのバーチャルショウを形成します。人間に成り切った神はこの夢の中で有名人になろうとします。芸能人、タレント、著名人などはこの主人公が憧れる一つです。本来神であるものがなぜ人間に成り切ると有名人に憧れるのか?という話です。それは本来神だからこそこのちっぽけな存在、弱い存在ではないことを知っているからです。存在感で言えばこの夢の創造主であるわけでそこを動く人間(主人公)のレベルではないのです。だからこそせめて周囲から注目を集めたい、そう思うわけです。

芸能人になってもタレントになっても人間という枠からは出れない

もしも主人公(人間)が有名人、タレントになって周囲から注目を集めれるようになったとしてもそれは人間としての人気であって神に戻るわけではありません。よってこの不足感、欠乏感がなくなることはありません。本来であればこの夢の創造主である神が注目を集めるぐらいのことで満足するわけがないのです。タレントランキングで一位になっても神には到底及びません。自分が人間であるという錯覚を外さない限りこの苦悩は延々と続くのです。

神ってる、、

神ってるという言葉はYahooニュースでも稀に見ますがこの意味が実は深いものがあります。人間が異次元の活躍をした時にこの神ってるという言葉で称したりしますがまさにその通り、異次元に突入する人間は神に戻ります。思考を抜け落とす、何かに集中する、一所懸命になる、、要は自身の意識を人間から脱却できるとその時に神に戻ります。夢から一時的に覚めます。物事に集中できる方々が芸能界などに興味を持たなくなるのは自身で神に戻る感覚を掴んでいるからです。

神は夢の中で両親を作るがこれも夢

最重要脇役ですら夢の登場人物に過ぎない

これは夢です、神が見る夢です、神が人間(私)を主人公にして人間に成り切る夢です。人間の五感を利用してバーチャルリアリティーゲームを構築します。目がなければ見える物体は存在せず、耳がなければこの世に音楽は存在しません、触覚がなければ硬質の石も存在しません。つまり五感の存在=世界の多様化です。そこに思考、感情を加えることでバーチャルリアリティーショーに多様性を加えました。思考が変わるとリアルにこのバーチャル世界も変容します。神が作った夢、ゲームは複雑怪奇、多様性の鬼です。主人公として生まれてきた時に両親が存在しますがこれも夢の中での登場人物に過ぎません。両親という個別の独立した実在はいないのです、これは夢です。実在しているように間違いなく見えますが夢の中でという条件付けです。

両親絶対説の誤り

両親すらもこの夢の登場人物に過ぎません、登場人物ですからそこには個別性や独立性などあるわけがありません。夢の中の登場人物がもしも実在しているならばあなたが毎日みる夢にその実在は毎回現れなくてはなりません、ですがそのようなことは絶対にありません。これは神がみる夢ですからここの出てくる登場人物に実在はないのです、体に触れようが、話しかけれようが、声を聞こえようが、、、です。どんなに愛情深く、理解力のある両親に恵まれてもいずれその場所を離れたくなるのは本当のリアリティーがないからです。

溺愛してくれる両親がいて溺愛する子供に恵まれても、、、

この夢は神が見る夢であり神が主人公である人間になりきって人間活動をする夢です。神が人間になった時点で不足感全開、欠乏感全開です。だからこそ溺愛してくれる両親がいても、溺愛する子供たちに恵まれてもそれでもこの不足感は無くならないのです。妻からもっと理解されたい、子供たちからもっと評価されたい、会社でもっと出世したい、、愛人も欲しい、、、こんな調子で不足感は変幻自在に感情として出現します。

神が作ったこの夢の中で主人公(私)は他の登場人物の心配不要

スライムの心配をする勇者はいない

ドラゴンクエストで昨日退治したスライムを心配するプレイヤーはいません。マリオカートで二位に蹴落としてしまったクッパを心配をするプレイヤーはいません。ポケモンで退治したモンスターを思いやるプレイヤーはいません。もう分かりましたよね、この夢物語、現実社会で主人公である私が攻撃してしまったので相手のことを何ヶ月も心配する必要は一切ないのです。残念ながら主人公以外に自由意志や隠れた感情はありません。とてつもなく傷ついたと言ってきたとしてもそれはそいう表現が生まれただけです。クッパが本当に傷ついたとマリオにゲームで伝えてきてもその状況は事実でも本当ではありません、ゲーム上そうなっただけです。ですから我々は他人の心配は今後一切する必要がありません。そんなことよりも私のこの不足感、欠乏感、孤独感を埋めることだけを考えればいいのです。

スライムは悪意があって勇者を攻撃したのではない

逆に言えばあなたがどんなに酷い扱いを他人から受けたとしてもそれはあくまで夢、ゲームの中であってそこに悪意はありません。信じられないかもしれませんがゲームと同じですからそうなります。勿論その相手に真意を尋ね、なぜこのような扱いをしたのか?と聞き倒せば何かしらの感情を吐露するでしょう、相手は。ですがこれもゲーム上そう言っているだけであってそこには実は何もないのです、夢ですから。多くの方はなぜ?このような扱いを?なぜあいつはこんな性格なのか?なぜ?と三日三晩考えてしまうかもしれませんがそれはスライムに攻撃した理由を聞き続けるのと同じぐらい愚かなことです。

スライムが嫌いならば遠ざけるそれだけ

勘違いをしてはいけないのはだからと言って他人からの攻撃を無抵抗で受けろということでは断じてありません。ガンガン抵抗しやり返せばいいのです。重要なことは相手のその攻撃に理由がないということです、これは夢です。夢での行動に理由はないのです。夢の創造主が勝手にそうしただけです。人間のような高度な頭脳を持った存在であって相手はスライムではない、、このように思う人もいるかもしれません。ですがこれは神が作った夢です、神のコントロールなしにこの夢が進展するはずがないのです。神の許可なく動ける登場人物はいません。

神は人間に成り切ってはいるが「私はある」というこの感覚は神の感覚でしかない

今ここに「居る」という感覚は神の感覚

これは神夢です、神が創造した夢です。人間を主人公(私)にしてこの夢を創造しました。神は人間に成り切ることでこの夢はスタートしていますがでは神感覚と人間の感覚はどのように区別すればいいのでしょうか?区別はできません、なぜならば人間も神の創造物だからです。思考が湧き、感情が湧き、五感を感じているのは全て人間扮する神です。神が今この瞬間も自身を人間と勘違いしながらこの夢、ゲームを堪能しているのです。

この世に苦しめる神など存在するのか?

この人間活動を認識しているのは神ですから苦しみも切なさも、息苦しさも、孤独感も神が感じています。人間のフリをして。神以外が認識することはできません、人間とは姿形の生命現象であってこれは独立したものではありません。神がこの夢の中を活動するための仮の姿です。マリオに感情はありません、マリオを使ってゲームをクリアした時に喜んでいるのはプレーヤーです。これはこの夢物語でも同じです。マリオを使ってに喜怒哀楽は全部プレーヤーが感じているのであってマリオではありません。マリオの使い勝手の悪さも、マリオのジャンプ力の低さに対する苛立ちも、マリオが横にしか動けないもどかしさも全部プレーヤーが感じています。

人間としての孤独感は、一番の勘違い

人間活動の最も大きな要素は孤独感をいかに感じないようにするか?これをクリアするために朝から晩まで我々は人と触れ合い続けています。どんなに人間関係が苦しくてしんどくても我々は人間を求めます。神が作ったこの夢で主人公はこの私ですがそれ以外は全部神が作った脇役です。主人公とは全くの別物、別次元です。ですからこの夢の中で多くの友人、知人、家族に囲まれてもこの孤独感が埋まることはないのです。神が扮するこの主人公(私)が実は神であったと気づくまでこの孤独感は続きます。

神は夢の中で天使や守護霊を創造しこの夢をエキサイティングにする

天使や守護霊は本当にいるのか?論争

これは夢です、神が作った夢です。神はこの夢の中に主人公(人間)を作りその人間に成り切ることでこの夢をスタートします。ただし神は神ですから人間に成り切っても本当は神です、そのため人間に成り切っている期間は不足感が滝のように流れてきます。欠乏感が嵐のように吹いてきます。これが人間という生き物の人生が苦と呼ばれる所以です。神の人間活動は苦しいので神はあらゆる欲望を叶えていきます、特に若い時期は現実的欲望を叶えていきます。ファッション、スポーツ、恋愛、受験、就職、、、と目に見える世界で欲望を叶えていくことでこの不足感を埋めようとしていきます。これらの欲望を叶えても不足感が埋まらないと気づいた人間が次に精神的欲求を叶えていきます、信頼、人格、承認欲求、好きなことで食べるなどです。それでも不足感が埋まらないと感じた人間は次に異次元のことに興味を持つのです、守護霊や、天使、などなど。

それらが居るという情報を心底信じた時にそれが現れる場合もある

これは神が作った夢です、夢ですから何が登場してもなんら不思議ではありません。天使や悪魔、守護霊に、天狗、、と異次元の存在を人間の目に見える形で表現することもあるかもしれません。ですがこれらも結局は神の夢の創造物に過ぎずこれらを信じても欠乏感が埋まることはないのです。何度も説明しますが神が人間に成り切っているからこその不足感を天使や守護霊、天狗や竜神が埋めてくれることはないのです。この不足感を埋めることができるとしたらそれは神が自身が神であったことを悟ることです。これしかありません。

高い壺、高い水晶、高い厄除

壺、パワーストーン、水晶、厄除、、、、これらの高価なアイテムが効果がないとは言いません。もしも自身がそれらに精通すれば効果を出すことは期待できます。ですがこの効果でいかに何かを達成したとしてもそれで人間の不足感が満たされることはないのです。それによって人気が出ても、それによって収入が増えても、それによって恋人ができても、、、全部これらは一時的な欲求達成でありそれでも人間からは不足感が吹き出てきます。不足感を生み出すメカニズムこれを理解することなく延々とお金を使って解決を求めれば無限地獄が続きます。

神は夢の中で夢だと気付かせるヒントを出す

神のヒントは完璧

これは夢です、神が見る夢です。この夢では主人公(人間)を登場させ神は主人公に成り切ります。そしてその他の登場人物も登場させこの夢を完成していきます。人間には絶対にバレないようにこの夢は設計されていますから人間に成り切った神はこの夢のドラマをほぼ死ぬまで継続することになるのです。夢だと知らずに。ですがこれは神が作った夢ですから神が夢から醒めたくなったら覚める方向に持っていきます。例えば宗教、スピリチュアルなど目に見えない世界があることを適宜主人公に気づかせていきます。年齢に応じ理解できるよう形を変えてヒントが出されていきます。例えば私は25歳で仏教の本に触れ27歳でスピリチュアルに、30歳で神との対話、、35歳でノンデュアリティー40歳で悟り系の書籍やYOUTUE動画などです。

だから何も考えずにこの夢、ゲームに没頭すればいい

この夢、ゲームは神が制作総指揮で完成していますから主人公(私)にとって間違ったタイミングでヒントが送られることはないし、そのヒントを主人公が見逃すなど絶対にありません。主人公は神が成り切っている人間でありヒントを出すのも神です。なぜすれ違いが起こるのか?ということです。自作自演のこの夢、ゲームですれ違い、見過ごしなど起こるはずがないのです。だからこそ主人公は安心してこの夢、ゲームに没入すればいいのです。

もしもこの夢、ゲームに疲れ果てなたらば

もしもこの夢、ゲームに疲れ果てたとしてもそれは神がそのような人間体験を積みたかっただけのこと、本当に疲れ果てこのゲームを終わらせたいと思ったならば確実にヒントが出ます。この夢、ゲームのカラクリを教えてくれる人や書籍、動画などでストレスを軽減してくれます。不完全、地獄、奪い合い、駆け引き、腹の探り合い、裏切り、、これらの行為を望んだのは神自体であり決してこれらの経験は失敗ではありません。ただしもうこの体では耐えれない、もうこの体には荷が重いという限界がくれば人間に成り切った神がその経験をストップします。

神は夢の中で絶妙な脇役を用意する

主人公のレベルにあった脇役をベストなタイミングで用意する

これは夢です、神が制作総指揮を務める夢です。主人公は人間(私)そしてこれを演じるのは神です。神が人間(私)に成り切ってこの夢、ゲームを貫徹していきます。この夢ではあらゆる脇役が登場します。最初は両親、兄弟、近所の友達、親戚のお兄ちゃん、学校へ行けば同級生、就職すれば同期、先輩、後輩、その都度その都度この夢では最適な脇役が主人公である私の側を固めていきます。そしてその脇役との絡みで主人公は苦しみ、楽しみ、歓喜し、安堵し、怒る、、、というわたる世間は鬼ばかりのような人生ドラマを構築していくのです。神が主人公に成り切っていますから基本不足感孤独感が湧き出てきてこれをあらゆる感情に置き換えていきていきます。

神が脇役の配役に失敗するわけがない

映画ではたまにありますよね、配役ミス、脇役ミス、、、ですがこの夢は神が制作総指揮ですから配役を失敗するなどあろうはずがありません。主人公(私)に関わる配役は全て完璧に行われています。ゲームをエキサイティングにするため、夢をよりリアリティーにするために寸分の狂いもなく完璧な脇役が脇を固めるのです。ですからあの人との出会いは失敗だった、あの会社は失敗だった、、あの友人との出会いは失敗だったと思ってもそれは無駄、、完璧な配役に文句を言っている大根役者です。神のセッティングに狂いはないのです。だからこそ今の人間関係を憎むのではなくそれをヒントにこの人生をいきていくことが重要になります。自分の行動を鏡で見せてくれているかのように学んでいくことです。

誰も自分のことなど理解してくれない、、、

主人公の脇役は完璧な配役が務めていきますから主人公のことを全く理解できないというケースは稀です。もしもそうならば新しい環境を選ぶ必要があるか、そういう時期だということです。スライムが全く自分の強さを分かってくれない、、この時ドラゴンクエストの勇者は次のステージに行きます。もしもそれが出来ないならばその勇気がまだないということです。勇気がないうちはスライムと戦い続けるのみです。