不足感

思考は「この心身」を永続させるために発達した

この心身は神の化身

この心身は神の化身です。神がこの夢を謳歌するためにこの心身こそを自分だと究極の縮小バージョンの自分を作りました。作っただけではこれを自分だと勘違いすることができないのでこれに思考を与え「この心身こそ自分である」と勘違いできる状態にしました。これが自我です。ということで思考とはこの大いなる勘違い、至上最高のジョークを永続するためにあります。

人間は思考が大好き

人間は思考が大好きです。なぜならば思考がなければ自分を永続できないからです。この勘違いを成立できないからです。野生動物に自他の区別がないのは思考がないからです。人間だけが思考を所有することで自分と、自分以外という世界を作り上げることができます。これは同時に強烈な孤独感、欠落感、不足感を生み出します。まさかこの思考がこの世の苦しみを生み出しているとは気づかずせっせと思考を強化しているのが現代人です。

情報化社会は苦しい

過去の歴史においてこれほどまでに情報が溢れた時代はありません。これはもう狂っているとしか言えないほどの情報が飛び交います。人間はこれらの情報を大いに取り入れて思考を強化していきます、自我が永続されていくのです。ですがこれは同時に分離感、孤独感、欠乏感も増やしていきますから大変苦しいとも言えます。大変苦しいと同時に悟り・ノンデュアリティーなど人間の苦しみメカニズムを解明する情報も手に入れることができるという面白い時代とも言えます。

老人になると穏やかになるのは自我が弱まるから

老人は基本穏やか

老人になると丸くなる、あの人も歳を重ねて丸くなった、、、丸くなるという言葉は言い得て妙、自我が削れていくことをイメージで表現しています。老人になると思考のパワーが落ちてきます。思考に力がなくなっていくのです。するとこの心身こそが自分自身であるという自我が弱まり結果神に近くなります。これは神が見る夢です、神が人間扮する自分になり切ってこの夢物語を活動します。人間に成り切る錯覚力こそが自我力です。この錯覚する力が落ちていくことでまさかの神に戻っていくのです。自我が弱まった老人とは生きる神です。あの穏やかさ、落ち着き、安堵感は神の境地です。

若くてもそれを手に入れるには

若いということはパワーがあります。思考にもパワーがあります。そうなれば必然的に自我が強くなっていきます。この心身こそは自分自身である、、自分というのを異常に意識します。神が完璧に人間になり切っている状態です。分離全開状態です、この状態は不足感全開、欠乏感全開、喉の乾き全開です。この乾きをいかに癒すか、それは何かに無心になってしまうことです、何かに完全燃焼することです、何かに無我夢中になることで神に戻ります。パワーを陽転させていきます。もしくは全作業をルーティン化して思考の出る幕を無くしていきます。イチローのようにルーティンの鬼になって思考の出る幕を削ぎ落としていきます。

穏やかさとは無心さ

無心というものにいかに入るか、ここが重要になります。無思考にいかに入るか、完全燃焼にいかに入るかです。無心という状態に対し意識的である時、神に意識的に戻ることと同じ意味になります。毎日をいかに無心に持っていくか、ここに注力します。そして無心の状態を感覚的にはっきりと認識することは神の感覚を取り戻していくことになります。無心、無我、無思考への積極的行動とは神への積極的帰還です。神を日常にいかに取り入れるかがわかるともう対象への渇望はなくなります。

人間関係のコツ、無我になる

人間関係とは自我と自我の交流

人間関係とは自我と自我の交流です、これが一般的です。自我と自我の交流、これを釈迦は地獄界、餓鬼界、畜生界、、などと説いて人間とは苦と説明しました。自我とは不足感、孤独感、欠乏感製造機です。この自我同士が交流すればどうなるか?交流を通じてお互いの不足感を補おうとします。つまりそこには利害がベースになるのです。人間関係は疲れる、これは当たり前のことです。自身の不足感を補うための人間関係ですからそこは苦しみの世界です。

その場で無我になれる人は人間関係が楽になる

無心、無我、無思考、完全燃焼、、、、行動でその状態になれる人は、、人間関係を使って不足感を埋めるという欲望が減ります。無心になって何かに取り組める人は、人間に頼る必要がなくなっていきます。そこには損得が発生しないのです。あえて言えばいかに無心に入るか、完全燃焼できるかの情報交流だけが楽しみになります。自我と自我の交流とは利用しあい、損得、孤独感の埋めあい、これがどこまで行っても土台になります。

年齢を重ねるほどに無心、完全燃焼に入る感覚を掴む

自我を大きくしていけば人間関係は地獄界、餓鬼畜生界のままです。自我を小さくしていく方法を学んでいけば人間関係は悟り仲間になります。いかに無心、無我、完全燃焼(自我)になれるかをコミュニケーションの基本にしていきます。自我の影響とは孤独感全開です。無我を知れば孤独感も減っていきますから人間に対する渇望も減っていきます。

夢への没入はこの夢物語の醍醐味

苦しんでいる人は神制作映画を堪能している

これは神の見る夢です、一つのエネルギーが見る夢です。この夢は主人公(人間)である私が神であることを忘れることが最重要になります。せっかく夢を見ているのに神であることを忘れていなければ台無しです。映画を見るときに主人公の友人だったら映画にのめり込めません。映画とは作り物と分かっていてものめりこめるから面白いのです。ということで自身を神であるということを忘れ去った私は大変孤独、不足感全開、欠乏感全開になっていきます。この世の不幸を全部背負った状態になります。これは自身が神であることを完璧に忘れた状態のことです。知識を得れば得るほどにこの見える世界が夢ではなく現実であるかのように錯覚できます。つまり分離感覚全開、孤独感覚全開です。この状態に陥ることができた人はこの夢、映画に没入できている証拠なのです。優秀な人です。

苦しんでいる人は正しい方向に全力で走れている

この夢物語はこれが夢ではなく現実だと信じれば信じるほどに苦しめるようになっています。出てくる登場人物は全て脇役ですがそれが本物だと信じれば信じるほど苦しめるようになっています。つまり錯覚、洗脳が進めば進むほどに苦しめるようになっているのです。本人が本気になって欠乏感、不足感、孤独感を解消しようとすればするほどに知識を増やし、経験を増やしていくことでこれが夢であることを忘れていきます。自身がちっぽけばこの人間であるという錯覚が強化されていきます。それを共有する脇役との関係も強化されていきます。

どこかで気づく、無心、無思考、無我の状態が気持ちいい

しかしどこかで気付いてしまいます。自分の幸福を願って全力で生きてきたが、、その自分が居ないときに歓喜が襲ってくることを、自分を忘れて何かに没頭しているときに平和が襲ってくる、自分を忘れて人助けをしているときに安堵が襲ってくる。おかしい、、自分が居ないと至福になる。このカラクリが突如理解できる瞬間がきます。1日の中でどれだけ自分を忘れることができるか、、ここが至福のコツです。無我、無心、完全燃焼、無思考、、、この夢の中では自分がいない時は至福、自分全開、思考全開は苦悩、、なぜならば神が苦しむために作ったのが人間です、その人間になり切っていなければ苦悩を味わえないのです。人間(自分)でない状態はいつでも神(至福、歓喜、安堵)です。気付くと出てくる言葉「愛」しかなかった、、これは真実です。愛の中で無理くり苦痛体験をしているのが人間(自我)です。

夢の中にどっぷりと浸かると視界全てから活気が無くなる

思考の世界にはまり込むと視界から活気がなくなっていく

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの世界は広がります。人間の視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感を利用してこのバーチャルリアリティーゲーム、夢が広がります。人間としての人間活動において人間は形上経験を積み、それによって価値観が形成されていきます。この価値観が「これは夢だ」という真実から離れて行けば行くほどに活気がなくなっていきます。つまり地獄界に入っていきます。そこに出てくる登場人物は信用できない人ばかり、罵詈雑言、陰口、妬み嫉妬の世界です。夢であるという事実から離れれば離れるほどに生きていくのが苦しくなります。思考の世界、分離意識が進めば進むほどに頼れるのは自分だけという無限地獄に入ります。

本当は活気しかない

これは色の世界です、空即是色、空が色として出現する世界、生命が光の世界に変化します。これは生命です。夢は生命の多様性です。ライフの表現。神の表現、アートです。神のアートが濁って見えるのは勘違いが進んでいるからです。ある人を友人に紹介する時に「実はこの人は犯罪歴があって、、」と嘘をついて紹介すれば友人は歪んだ見方でその人を見るでしょう、そうすると本当に犯罪者のように見えてきます。つまり歪んだ見方で、価値観で真実を見ればこの神のアートはそう見えるのです。本当は活気しかないこの神のアートが濁って見えてきます。

生まれたばかりの子供たちは世界が光って見える

生まれてから3歳ぐらいまでの期間はこの世界は光って見えたはずです。なぜならばこれは神が見る夢であり、神のアートであり、生命の表現です。ところがあらゆる経験、知識を取り入れることによってこの夢を現実と誤解するようになり、誤解が進めば進むほどに歪んで見えてくる。真実とは遠く離れていくわけです。真実はこれは夢、以上です。大人は子供と違って見える世界が濁っています、この濁った世界で不足感が沸き続けそれをなんとか処理していく。このメカニズムを暴く時が今です。

それでも人は動き続ける、その道こそを至福にする

人とは不足感をバッグに詰めて歩む現象

宝くじに当たった人が数年後にはほとんど自己破産レベルにまで財産をなくす、、これ非常に有名な話です。これを今回は悟りの観点で説明したいと思います。人間はまず不足感を恐ろしいまでに抱えています、人間はその不足感がどこから来ているか理解していないのでお金、名誉、異性、、、など特定の何かを埋めればそれは無くなるはずだ、、、と予測を立てて生きています。だからこそ受験勉強や就職、結婚、大出世など、、大きな収穫物を目の前にすると胸が躍るのです。ところがです、人間のこの不足感は特定の何かで埋まるわけがありません。人間の不足感とは神が人間に扮することで生まれたものだからです。ここが人生というものを苦しくします。宝くじに当たったら、この人と結婚できたら、、この会社に就職できたら、、、これら大きな夢を叶えた人が目の当たりにするのが絶望です。

どうせこの不足感が埋まることはないのだから、、、

人間はいつかの段階でこのことに気づきます。。理想のパートナーとの結婚、安定した収入、、可愛い子供、、理解ある上司、、、これらを手に入れてもそれでも湧いてくる不足感、孤独感が終わることがないことをです。ということで仏教では「足を知る」という言葉が生まれるわけです。私は実はこの言葉が嫌いです、諦めとしては現実的でないと思っています。そうではなくこの不足感解決をヒントにして、機会、チャンスにしてそこから悟りに入ることを勧めています。そこに向けて完全燃焼する、そこに向けて無心になる、無思考になることで無我夢中の状態、悟りに至ことを勧めます。

完全燃焼、無心無我、無我夢中こそ、、神の道

無心になってお寿司を握る職人さんはその場で神になっています、無思考になって仕事に当たる人はそこで神になります。自分を忘れて子供の世話をするお母さんはその場で神になります。人間が行為そのものになるとき、そこには人間は存在しません。あるのは神の現れです。打算的に、小賢しくそこに当たるとそこに自我(思考)が残ります。結果的に最も苦しい道を歩むことになります。いかに入り込めるか、いかに完全燃焼に向けるか、いかに無心になってことに当たれるかが重要です。人間の無限地獄からの脱却は目の前の道を神にできるか否かにかかっています。

都会とは何か?

人間の欲望を叶えてくれる場所

いつの時代も若者が目指すのは都会です、都会とは人間の欲望を叶えてくれる可能性を感じさせてくれる場所です。多種多様な仕事、多種多様な人々、多種多様な生き方、多種多様な遊びを可能にしてくれる場所です。一方でこれは夢です、神が見る夢です。神が人間扮する主人公を演じる夢です。それゆえ人間は欲求不満を抱え自身の欲求を満たしてくれるだろう場所を目指します、それが都会です。都会は確かに若者の欲求を満たしてくれる要素はあります、あらゆる可能性を提案してくれます。ですがここでいかに欲求、不平不満を満たしても満足することはありません。目の前の欲求を満たしても直ぐに次の欲求が襲ってきます。それは神が人間に扮しているからです、人間の狭さ、弱さ、小ささに神は辟易しています。これが人間の欲望のメカニズムです。

都会であらゆる欲望を叶えたら

一方、都会はあらゆる欲望を積極的に叶えれる場所でもあります。地位名誉、仕事に異性、あらゆる欲望を叶えることができる場所であることに間違いはありません。ということは逆に言えばあらゆる欲望を叶えても人間は至福に至れないことを体験できる場所でもあります。あらゆる可能性を達成できるということはその時の人間がどのような感情に至れるかを体験できるのです。これは釈迦が王様から山に籠ったことに近い状況です。釈迦とは一国の王であることに辟易しそこから悟りに入りました。都会は釈迦の境地に至るのに近い状況を作れます。

欲望を叶えた後に分かること

神が人間に扮している限り欲望に限りはありません。神は神に戻る以外に欲求不満が癒ることはありません。神が人間に扮していればあらゆる不足感、欠乏感、孤独感、欲求不満が襲っていきます。都会とはこの欲求不満に正々堂々と向き合える人が集まる場所とも言えるでしょう。勿論それも夢ですが。欲望を否定して無いものにするよりも欲望を欲望と捉え満たしていくことで無限地獄の仕組みに気づきそこから夢から覚めるのも一つです。釈迦はそれを行いました。

神頼みが無駄に終わる理由

誰が神頼みするのか?

いざとなった時の神頼み、ピンチの時の神頼み、、では神頼みするのは誰か?それは人間扮する神です。人間になり切っている神が神に頼みごとをします。これは滑稽な行為です。なぜ神が神にお願いすることがあるのでしょうか?神が人間になり切っているからこそ欲求不満、不平不満があるのであってそこを解決しなければこの問題は解決しません。神が自身を人間であると信じているからこそ不平不満が湧くのであってこに不平不満を神に頼んで叶うのならば意味不明です。そしてもしもこれが叶ったところで不平不満は延々に続きます、神が人間であると勘違いしている限りは。

頼みも願いも見当違い

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って夢物語を送っています。この夢物語は神の不平不満が爆発します、神が人間という狭苦しい存在であると勘違いしているのでそれは当然です。その人間活動中の神が不平不満の解決を神に頼ること、これが神頼みです。意味不明です。神がわざわざ人間になって不平不満体験をしているのにその解決を神に頼るというこのジョーク。神社でこの事実を公言したら命はないでしょう。

パワースポットとは何か?

この夢の中ではパワースポットと呼ばれる場所が登場します。その場所に行けば幸運が訪れる、開運する、ラッキーが味方する、、、まー色々あります。そしてこの夢の中ではそれも起こるでしょう。夢の中ではあらゆることが起きます。ですがここでも厳しいことを言うならばそれによっていかに目的が叶っても夢が叶っても不足感が無くなることはありません。欠乏感が無くなることはないのです。なぜならば神が人間に扮してこの夢を生きている限り無限大の不足感が湧いてくるからです。そのことを理解するためのパワースポットならば大歓迎です。

これが夢なのは分かった、だからどうすればいい?

夢だろうと事実だろうと生きていかなくてはならない、、

これが夢なのはわかりました、ですがだからといって今後どうすればいいのか?夢の中かもしれないが、、生きていかなくてはならないという事実は何も変わらない。ということになります。不足感、欠乏感が続くのも同じではないか、ということです。人間の悩みの9割は人間関係だと言われています、そこにはしっかりとした独立した人間が居るという大前提で人間関係が行われるわけですが実はその人間は夢の登場人物に過ぎません。ということは主人公である私がいかに相手との関係に努力をしたとしてもその努力がどのぐらい報われるかは全部夢を見ている張本人(大いなる一つ)が決めています。そこの人間としての努力が及ぶわけがありません。つまり人間関係が上手く行くかいかないかは全部神が決めているということです。この事実だけでも人間関係を上手くいかせようとする気持ちは半減するはずです。

生きて行くのは事実だが悩みは確実に減る

なぜ自分のことを分かってもらえないのか?なぜ自分の努力を見てくれないのか?なぜ自分の配慮を感じてもらえないのだろうか?これらの悩みは「これが夢だ」という確信で全部ぶっ飛びます。夢の中での相手の行動は夢を見ている存在が全て決めているからです。その存在は本当の方の自分です。本当の方の自分が決めた決断を、とりあえずの自分(人間)が攻めても仕方がないのです。悩みっていうのはどこまでいっても自分(人間)の思い通りにならない、、ということですから、、、実は本当の自分が全部思い通りの決めているのならばこの悩みはぶっ飛ぶのです。

それでも残った目標、悩み解決には無心になって取り組む

これが実は夢だったという事実を目の前にすると、多くの悩みはぶっ飛びます。ですがそれでも不足感、欠乏感、孤独感は湧き続けるでしょう。この感情に対しどうするか、、、その目標達成、悩み解決になって無心になって取り組むのです。花道のように、茶道のように、武道のように全部をルーティンの所作、練習によってそこから無心、無思考、無我に入って行くのです。その目標達成のために歓喜、平和、安堵に入って行くのです。

欲望を安易に無視をしてはいけない

欲望とは神の渇望

これは夢です、神がみる夢です。この夢の中で神は人間(主人公)に成り切りこの夢物語を歩んでいきます。全治全能の神が人間という無知無能に成り切るわけですから強烈な不足感が湧いてきます。この不足感を経験しているのは人間扮する神です。この不足感を変換したのが人間の欲と呼ばれるものです。ですから欲望を無視するという作戦は失敗に終わります。仏教では足を知るという言葉で無欲を勧めますが上手くいかないのは当然です。欲の出どころを掴んでいないからです。

欲を安易に無視すれば欲に破壊される

人間扮する神が感じる不足感が変換されたものが欲ですからこの欲は延々に湧いてきます。欲が収まるわけがないのです。若者達の間で悟り世代といって無欲な若者が増えているという話も聞きますがPC、スマホ、タブレッドなどが普及して安易に欲を満たすことができているからだと思います。人間の欲望の根源は神から湧いていますからその欲が少なくなることはありません。ですから自分や欲が少ないと思って欲を無視し続けると無自覚に欲求不満が膨れ上がりいずれ潰されます。

この人生は欲望をいかに昇華し充実に持っていけるか

欲望は人間扮する神から湧いていますからこれを人間が止めるなどできません。どのような欲が湧くかもコントロールできるわけがないのです。そうならば逆に欲を肯定的に受け止め欲を満たすことに集中することで無心に入る、無思考に入る、無我に入ることが重要です。集中して欲望を叶えていけばそこから無心、無我、神に戻ることができますからその場で歓喜、安堵、平和になれます。欲望を積極的に叶えることでそこから神に戻るということです。