不足感

辛くなったらこの錯覚を解いてみる

自我の成り立ちを見れば何もないことが分かる

自我ができる前、誕生した赤ちゃんには何もありません。自分と自分以外という区別はないどころか、全てのモノに名前すらないのでただ全体があるというだけです。一切の分離がない世界です。徐々に言語を覚えこの体の中に自分というモノが居るのだと教わりました、実際はそんなモノはなく自分とは全体そのものです。ですが全体がこの体の中に入っているいう錯覚、認識を持つことで本当にそう信じるようになるのです。この体の中に自分が居る、、、これで自分と自分以外が初めて誕生するわけです。分離の誕生、分離意識の誕生、孤独感の誕生です。

元々は何もないのだから、、、

自我が芽生える前はここには何もない、もしくは全体だけがあったのですが自我が形成されることで自分が誕生し自分以外が誕生しました。さらに自分以外にあらゆる名前をつけていき全体をバラバラに切り裂いていきました。自分はこの分離しよって生活が大変便利になりました。自分の寝床、自分の食料、自分の衣服、、、などを所有することができ生活が便利になっていきます。その一方で全体から切り離された自分自身は常に孤独、分離感、不足感を味わいます。全体であった記憶は間違いなくあり、そことのギャップに苦しむのです。何を得ても何を達成しても何を手に入れても満たされないこの感情に一生苦しみ続けることになるのです。

自我とはアイデア

自我とはアイデアです。この体を生き伸ばすためのアイデアです。全体の発生後、後からできたアイデア、発想でしかありません。なぜならば言語がなければ自分とは存在しないのですから。言語が地球上から消えれば自分はいなくなります。これってギャグですよね。「はじめに言葉あり」聖書にこのような言葉がありますがこれって真実です。言葉が生まれて自分が誕生したのです、言葉がなければ自分というアイデアはないのです。

この分離自我は便利だが辛い

全体の中に生まれた自我、このアイデア、発想は大変便利ですが辛いモノです。この体は自我のお陰で生き延びやすくなり助かりますが辛い、孤独、不足という感情がひたすらに湧いてくるというまさかの副作用があります。この副作用、感情に耐えられなくなったならば再び全体に戻ることも有効です。というよりもこの自我のカラクリを解いてしまう、本来は全体でありこの体は全体の一部でしかない、なぜこの体に全意識を委ねなくてはならないのか?ということです。この体は全意識の一部でしかありません。

夢の中の娯楽は至福とは関係がない

夢の中でいかに娯楽を楽しもうと永遠の至福に至れない

毎晩見る夢の中で主人公(私)がいかに娯楽を楽しもうと永遠の至福には至れません。パチンコ、競馬、競艇、Netflix、どんなに充実した娯楽に興じようとも永遠の至福をそこで得て夢が終わるという風にはいかないわけです。楽しめるのは一瞬でありその一瞬を長引かせつのは不可能です、夢の中ですら。それはなぜかと言えば夢の中で主人公という分離した存在を作り上げたからこそです。夢の中とはいえ分離した自己を作り上げた途端に分離感、不足感、孤独感が襲ってきます、夢の中でです。この結果主人公はあらゆる娯楽に興味を持つことでこの分離感を解消しようとするわけです。

一方リアリティーでは

ではこのリアルな世界ではどうでしょうか?いかに主人公である自分が娯楽に興じようと永遠の至福を得ることはできません。あまりに娯楽が楽し過ぎてそこから娯楽を求めなくなった、、、そんな話を聞かないのは娯楽でえれる満足は一瞬であるからです。この時間軸の世界において一瞬の幸福を得れたとしても次の瞬間にはそれは消えてなくなります。故にこの体の中に自分がいるという分離意識の世界においては至福はいつまで経っても一瞬なのです。至福すらも消えて無くなるのがこのリアルな世界のルールです。麻雀で荒稼ぎしたからもう辞めた、、こうならない理由は次の瞬間から不足感が襲ってくるからです。

夢の中もリアルなこの世界も娯楽で永遠の至福には至れない

夢の中もこのリアルな世界も時間という存在がある限り永遠の何かをそこで手に入れることはできません。多くの方は何十億ギャンブルで儲けれたら永遠の至福が迎えにくると信じて疑わないと思いますが残念ながらお金で買える幸福が終わり次第、人は不足感を湧き続け人を破産まで追い込みます。つまり大金を手にした人間が悟ことはお金では満足は買えないということです、そしてまた湧いてくる不足感を解消するために動き周る日々に戻るのです。夢の中だろうと、このリアルな現実の世界だろうとこん体の中に自分がいるという仮定を信じた瞬間に不足感、分離感に襲われます。

夢の中の安定は至福とは何も関係がない

夢の中で安定をもぎ取っても退屈なだけ

毎晩見る夢の中で主人公(私)がアラブの王様と結婚し究極の安定を手にしたとしましょう。その瞬間は歓喜が襲ってくるかもしれません。ですが次の瞬間にはもしかしたら退屈が襲ってくるかもしれませんし、第二夫人、第三夫人との争い、言語問題、暑さ問題が襲ってくるかもしれません。少なくともその後の展開は至福しかない、永遠の至福を手に入れて終了。とはならないはずです。恐らくはあらゆる展開に移りながら次の問題を片付けていくでしょう。夢の中でしかもアラブの王様と結婚してもです。

一方リアリティーでは

一方このリアルな世界で一生の安泰を得た人はどうなるか?例えば資産家と結婚した女性の離婚率は低いのか?正確な数字は分かりませんが10パーセント近くの人は離婚しているはずです。それはなぜか?浮気、価値観のそ相違、嫁姑問題、、などあらゆる要素はあるにせよ、、、資産家と結婚=永遠の至福達成とはなりません。なぜか?このリアルな世界では自分がいるというこの大前提が不足感を発揮するからです。この体の中に自分がいるというこの大前提が分離感、孤独感、不足感を湧き起こします。資産家との結婚、安定がこの不足感を解消し続けれるわけがなく、そうならば離婚は起きません。

夢の中もリアルな世界も安定が至福には至らせない

毎晩見る夢の中も、このリアルな世界も安定が人間の不足感発生を抑えることはできません。宝くじで3億円当たれば一生の安定をある程度満たしてくれあとは倹約生活を続ければそれで済みます。もしも安定が不足感を補ってくれるならばそこからの散財は皆無なはず。ですが実際にはほとんどの当選者は何年後かに破産します。要は3億円が不足感を満たしてくれなかったわけです。それどころかいくら散在しても全く不足感は消えない、、結果破産です。多くの方は言うでしょう、当選者は金銭感覚が狂ったのだと、、、そうではありません、お金を使っても不足感が癒えないから使い続けただけです。

夢の中での自由は至福とは何も関係がない

夢の中は自由

毎晩見る夢の中でいくら主人公が自由であってもそれと永遠の至福とは関係がありません。主人公がいかに自由に夢の中で動きまわっても永遠の至福に至ことはありません。動いて動いて動き回る理由とは止まってしまったら不足感が湧いてくるからです。まさか夢の中でもこの不足感は常に湧いてきます。夢の中の主人公は当然全体から分離しています、分離しているから独立した個人として動いているのです。ですがこの分離感こそが不足感を湧き出すのです。逆にいえば自由に動き回れば回るほど分離感は強化され無限地獄に入っていくのです。だからこそ夢の中の自分は止まることなくストーリーが展開していくのです。もしもそのままで至福ならば動くなどという意味のないことはせず夢の中で瞑想でもしているでしょう。ですがそのような自分は夢の中に居ません。

一方リアリティーでは

ではこのリアルな世界では主人公である私はどうなのか?間違いなくそのままで至福ではないでしょう。幸福すぎて今日一日何もしたくない、、こんな日は当たり前ですがありません。至福過ぎて何もしないという状況があるとするならばお腹いっぱい大好物のお寿司を食べた時ぐらいのこと、3時間後にはこの至福感は消え去ります。そしてまた次の食事を考えるという動きの世界に入っていきます。そろそろ気づきましたね、そうです、このリアルな世界も夢の世界と全く同じで動かずにはいられないということです。そのままの状況では至福に至れないのです、そのままにしていたら不足感が滝のように流れてきます。「自身がこの体の中にある」この分離感を持った瞬間から人間は分離感に苛まされます、孤独感が湧いてきます、もう一人ではいられません。この世界に独立した自分がいるという錯覚を所有した瞬間から不足感、孤独感、欠乏感が湧いてくるのです。そしてその感覚を解消するためにモノやヒトを追い求め続けるという無限地獄が始まるのです。

夢の中ですら渇望しているのにリアルな世界で渇望しないわけがない

自分が毎晩見る夢の中ですら主人公は動き回っています、どこかに永遠の至福に至れる道がないかと。ですがありません、ストーリーの中は時間の世界ですからそこに永遠の至福があろうはずがないのです。永遠とは時間の制限を超えています。だとすればこのリアルな世界の中で永遠の至福などあるはずがありません、この体の中に自分がいるという錯覚をもち、この体の外は自分ではないという錯覚も所有します。この錯覚こそが不足感、欠乏感を生み出す原因ですからこれを解放する以外に至福の道はないのです。結論を言ってしまえばこれも夢です、リアルだと感じているこれも夢です。だからこそ毎晩見る夢と同じ苦しみを味わいます。

夢の中での要領の良さは至福とは何も関係がない

毎晩見る夢の中で要領の良さを披露しても至福には至れない

毎晩見ている夢の中で要領を駆使して何かを達成したとしても一時的な快楽にしかなりません。次の瞬間からでは次はどうするか?という疑問が湧いてきます。そして次の展開、次の展開と夢は続いていくはずです。夢の中で永遠の至福を手に入れることができないのは次の展開に移ればまた振り出しなのです。これが夢です。ストーリーです、時間が管理する物語です。残酷なまでに感情は一瞬一瞬であり夢の中でさえ自身の感情をコントロールできません。そしてなぜ夢の中で主人公が次々に行動を起こさなくてはならないかといえば不足感が湧き出ているからです。夢の中ではこの不足感はデフォルトです。なぜならばデフォル分離した自分というものを設定した瞬間から全体から離れ孤独感、分離感、不足感が湧いてくるからです。

このリアリティーにおいてもこれは同じ

このリアリティーの世界、現実社会でもこれは同じでして要領の良さで何かを達成しても至福は一瞬です。次の瞬間から不足感、欠乏感、分離感が襲ってきます。この現実社会の中で自分の体を境界線にすることで自他を作り出した瞬間から分離感がひたすらに襲ってきます。この分離感、不足感を何とかして解消しようとして要領の良さを発揮し一瞬の至福感を得ます、ですが次の瞬間にはまた不足感、欠乏感が湧いてきてその解消に努め続けることになるのです。もうお気づきだと思いますがこのリアリティーと毎晩見る夢はあまりに様子が似ています。そうです、このリアリティーは神が見る夢です。

夢もこのリアリティーも覚めるしか解決方法はない

毎晩見る夢にしてもこのリアリティーにしても分離意識、主人公の中に自分があるという感覚を手放さない限り不足感、欠乏感が解消することはありません。我々は物心が付いた時から不足感と戦ってきました、それは夢の中でもこのリアリティーの中でもです。今日は至福の極みだから何もしないでおこう、、こんな日は1日たりとも無かったはずです。安心してください、この夢の中でそんな人間は一人もいません。毎晩の夢の中でもこのリアリティーの中でも至福過ぎて何もする気は起きない、、こんな登場人物は皆無なのです。分離とはそのようなものです。

これが夢であるという事実から逃げない

人間がこれまで戦争や争いを終えることができず、世の中から紛争を無くすことができないのはこれが夢だからです。たった一つのエネルギーが分離して見えるこの世界は不足感体験ゲームなのです。しかもこの不足感は分離が終わるまで延々に続くというオチです。こうなりますともうこれを夢と認識する以外ありません。勇気を持ってこのリアリティーに向き合うほかないのです。人間はあまりにこのリアリティーに長く触れ続けた結果、不足感、欠乏感にどれほど苦しまされてもうこのリアリティーを手放しません。リアリティーに執着しています。だからこそこのようなメッセージ、ノンデュアリティー、悟りと言われるような内容に嫌悪感すら抱きます。

夢の中での地獄も一瞬

至福にはなれないが地獄も一緒

毎晩見る夢の中で最初から最後まで地獄しかなかった、、こんなことも少ないはずです。というか無いはずです。夢というストーリーの中で最初から最後まで地獄続き、、、交通事故で跳ねられ全身麻痺に、病院に行ったら医療ミスが起き、さらに看護師からのイジメ、友人がお見舞いに来たら毒を盛られ死亡、、、と地獄が延々と続く夢も少ないものです。それはなぜか?簡単です、夢を見ているあなたがそんな夢は見たくないからです。

この現実社会も同じ

これは神が見る夢です。神が見る夢の中でこのリアリティーが起こっています。その中で自身は主人公になりこのストーリを右往左往しています。このリアリティーでは永遠の至福はありません、時間という縛りがあるが故に幸福は常に一瞬です、歓喜も常に一瞬です、だからこそ永遠の至福を主人公である私は求め続けるわけです。ですがこのストーリーの中では絶対に至福はありません、時間の中にいるからです。これは地獄に関しても同じで永遠の地獄は不可能なのです、時間がありますから。ただし問題はあります、永遠の不足感はついて回ります。全知全能の神が人間になりきっている夢ですから不足感しかありません。地獄は一瞬ですが不足感は永遠です。

不足感が永遠ならば夢から覚めるしかない

自分自身が見る夢も、神が見るこの夢も不足感が永遠ならば、、、この夢から覚める他ありません。分離体験には不足感は常にセットであり分離ゲームで永遠の至福は絶対に得れないのです。だからこそマトリックスという映画ではNEOは目覚めを目指したのです。この夢の中に永遠の至福への攻略があるならば釈迦は解脱を勧めないはず。もっとテクニックを話したはず。キリストは人間を原罪(的外れ)と表現し、釈迦は人間を「苦」と表現しました。テクニックに逃げるのではなくこの事実ととことん向き合う時期が起きます。それも神が決めます。

結果に飢える動物がいない理由

動物には結果が存在しない

これは夢です。神が見る夢です。この夢の中で人間は結果を出せる人間は優秀であるという価値観を持っています。結果を出す優秀、結果を出せない劣等であると。このような価値観を持つ理由は人間が神に比べて無知無能であるという大前提があります。だからこそ結果を出す=有能であるという思いが強くなるのです。ところが本来は全知全能の神がこの人間の正体ですから結果を出せなくても全知全能です。神そのものが結果です。自らを無知無能であると勘違いしたことから結果に飢える動物になりました。一方動物は自我がありませんから自らを無知無能であるという劣等感がありません。全知全能のままです、だからこそ結果に飢えるなどの意味が理解できません。

結果を出しても無知無能は無知無能のまま

自らを無知無能であると判断を下している人間が結果を出したところで自らを優秀であると勘違いできる期間は一瞬です。だからこそ一度優秀であるという結果をもぎ取った人間は結果を出し続けるという呪縛に縛られます。一生結果を出し続けていかないとならない呪縛に縛られます。これは果たして幸福でしょうか?いな地獄です。結果を出せなくても地獄、結果を出しても地獄、これが人間という神の夢の中での主人公に突きつけられた宿命です。

この呪縛から解放されるには結果ではなく、人間を辞めるしかない

神はこの夢の中で自身を人間であるという錯覚ゲームを始めました、この錯覚ゲームは無限地獄、不足感全開ゲームです。本当は結果全開、全ての結果である神が価値ゼロの人間になりきってしまった結果として結果に飢えています。解決方法はこの勘違い、錯覚のメカニズムから目覚めること解放されること。これだけです。これが錯覚であるという心からの気づきが生まれると価値観は逆転します。この見える世界すべてが自分自身でありもう結果に飢える感覚が分からなくなります。空腹だと思っていたら満腹だった。

この体は全体との境界線であると信じ込むことで孤独が生まれた

この体は聖域

この体、この体を全体との境界線であると信じ込むことでこの分離ゲームはスタートします。この体は全体とは分離していないと信じていれば小さな子供のように無邪気なままです。大人は子供に対してあなたは個別の存在であると徹底的に教え込みそして孤独感、分離感、不足感を植え込みました。子供から無邪気さが無くなる瞬間です。勿論、この体は全体から分離しているように感じることはできます。五感が機能することでこの体が外界をその五感で感知できます。感知できるからこの独立した体が個別にあるという初期設定が完成します。

苦しみのメカニズムを全部この境界線で説明できる

私は基本何でも疑います、先ずは信じて何でもやってみますが根底には実験という感覚を常に持っています。人格を磨けば人生は楽になる、霊的進化を遂げれば人生は楽になる、高収入、安定を手に入れれば人生は楽になる、、、これらは全部試してきました。独自の実験で淡々と試してきましたが人間の苦悩がこれでは解消しないことは次第に分かってきました。友人の数も信頼の数も、お金の数も称号の数も、、人生を楽しくしてくれますが楽にしてくれるわけではありません、全て一瞬のこと、時間限定です。

もう一瞬の楽を追い求めない

金メダルを達成しても本当の安堵は取った瞬間のみ、次の瞬間から次回のオリンピックへの意気込み、プレッシャー、お世話になった人へのお礼、スポンサー廻り、母校巡り、、、そこからの講演会、、、とやるべきことが押し寄せてきます。人間はこの体を外界との境界線と信じ込んだ瞬間から延々と続く不足感、孤独感との戦いが始まりました。苦しみのメカニズムを理解できたらこの人間境界線ゲームから脱人間境界線ゲームへの大きなシフトが重要です。

独自の経験が独自の解釈を作り独自の人生ストーリを生む

経験という唯一の事実が解釈を生み出す

全財産を友人から奪われた、、この事実がその人にとっての今後に人生の価値観に組み込まれます。人は信用できない、人はお金の前では過ちを犯す、、などです。これがその人の価値観に強く組み込まれると、もう人は信用できない、、、が基盤になり、、その目でニュースや人を観察し始めます。すると本当にこの世で信用できる人はいなくなります。こうしてこの人の人生ストーリーは出来上がっていくのです。ですがこれは夢です。全財産を奪った友人が現れたとしてもそれも夢、全財産をくれる友人が次の日に現れることもあり得ます。夢ですから。そうなると人は信用できないという価値観が一瞬で崩れるのです。人は親切だに変わる可能性があります。

どんな経験が起きようとも、、、これは夢

全財産を突然くれる老人が現れても夢、全財産を奪う友人が現れても夢です。夢ですから何が起きても不思議ではない、この夢の中に固定のルールはないのです。あるとすれば自身がこの現実とはこういうものだと決め付けるということです。夢にも関わらずこの現実はこうだ!と決めつければその決めつけによってこの夢は変幻自在に変化します、夢の中で。大人になればなるほど、これが夢、というメッセージが届きません。あらゆる経験を積んできていますからその分固定観念が固まりそれに基づく夢物語を見ているからです。

こんな時代だから将来のために、、、、、

将来はこうなるらしい、将来の準備を今のうちに、、過去にこんな景気があったから今のうちに、、将来の病気に備えて今から保険を、、、こうして人間は過去に囚われ、将来を憂いて今をそのためだけに使うようになります。過去の反省を踏まえ、将来のために今をこう使おう、、、このノリです。ですがこのノリで生きていきますと死ぬ直前まで来年の準備のために今を使うだけの人生になってしまいます。老後のために今があるという恐ろしい事態に。過去に起こったことを踏まえて、、人生の価値観を定め、、、将来のために準備する、、、ですがこれは夢ですから過去も未来も因果に関係なく何でも起きます。そして夢の中にいる限り人間とは不足感発生器であり苦しみのままです。

それでも分離体験最高

神は無駄なことをしない

これは神の見る夢です、神が人間体験をする夢です。夢を物語化するために脳という記憶機能を作り出し過去を誕生しました。これによって 人間は成長し成人し、年を重ねやがて老い、死を迎えるという一連の流れを経験できます。このストーリーは神が神のままでは経験できないことです。神は過去を悔やむことも過去を振り返ることも過去を後悔することもできません。全て人間様があってこそです。憂鬱に過去を悔やむ神はいません、人間あってこそです。ということで分離体験最高ということになります。もしもあなたが今最低最悪な気分だとしてもそれは記憶をベースに比較してのことでしょう、過去の私と。それは神のままではできないことです。

人間ストーリーは最高だがそれでもしんどい

そういう意味で人間ストーリーは神が神のままでは経験できないことを経験できますから神にとっては最高です。ですがこれは同時に非常に苦しいことでもあります。そう人間に成り切った神としては最高でも人間としてはただ辛い、、ということで辛さでお腹がパンパンになったならばもうこの辛さ体験は終わりにしましょう。この無限地獄、不足感解消ゲームは終わりにしてもいいかもです。貧乏があるから豊かさがわかる、孤独があるから仲間の大切さが分かる、病気があるから健康の有り難さがわかる、、、ただそれももう十分ということはあります。

もう人間なんてしない、絶対

釈迦は悟りこの人間ゲームが苦であることを理解しました。そして苦行が悟りへのツールではないことも知りました。夢から覚めるのに苦行はいらないと。そしてこの夢から覚めることを解脱と称してその方法をその後の人生で伝え続けたわけです。輪廻転生をしながらカルマを解消しダルマを積むのではなくその輪から抜けてしまいなさいと。終わりのないこの夢物語を継続するのではなく夢物語から覚めてしまいなさいと提案したわけです。