不幸

夢(二元)の中では至福になれない

夢の中にラブandピースはない

多くのミュージシャンがラブ&ピースについて楽曲を作りますが残念ながらこの夢の中ではそれはありません。ラブ&ピースが理想主義者の掲げるプラカードに見えてしまうのは仕方ないのです。要はこの夢物語ではこれはないのです。ではそれはどこにあるのか?それは夢から覚めた場所、ワンネス、大いなる一つがある場所です。音楽家がそれでもラブ&ピースを掲げて歌を歌う理由はそれを求める願いからです。

夢の中は不足感が湧き出る場所、そこでは平和は一時的な快楽

ではなぜ夢の中にラブ&ピースは無いのか?それは夢の中に自身がいる時、不足感、欠落感が湧き出してくるからです。夢の中では不足感がひたすらに湧いてきます。ここは夢ですから基本不足感が沸き続ける場所なのです。夢とは全存在、ワンネス、大いなる一つが表現する場所、現象化する場所、この現実社会のことです。この場所にラブ&ピースを探すのは不可能です。ワンネスが人間体験をする場所に平和はありません、なぜならば平和とはワンネスそのものだからです。

桃源郷は夢の中にはない

これは夢です。今あなたが見ている世界は紛れもなく夢です。そしてこの夢の中には桃源郷はありません。私服の場所はありません。この環境で永遠の幸福を手に入れることは絶対にできません、なぜならばこの夢はワンネスが不幸体験をするために誕生した場所だからです。絶対的幸福であるワンネスが絶対的不幸を体験するためにこの夢を創造したのです、なぜこの夢に中で絶対的幸福を得ることができるのでしょうか。そもそもの誕生、創造目的に反しています。

自分の人生に最大の挫折が訪れたら

人生最大の挫折とは?

友人からの裏切り、会社の倒産、重病になって倒れる、まさかの投獄、、、何が最大の挫折かは分かりませんが人生にはこのように最大の挫折が普通にどこかで訪れます。多くの方はこのような状況の時、うつ病になる寸前になるまで思い悩みます。それが最大の挫折です。では何故このような挫折がこの人生に訪れるのでしょうか?先ずこの人生とはワンネスの夢です、大いなる一つが見る夢です。夢の中で主人公である私がそのような挫折に会いました。実を言えばワンネスがワンネスのままでは、大いなる一つが大いなる一つのままでは挫折を経験できません、全存在の挫折、神挫折などあり得ないのです。だからこそこの夢を出現させ、挫折を経験する人間を作り上げたのです。あなたがどれほど挫折で心痛めていてもそれを夢見るワンネスはこの経験を大いに喜んでいます、何故ならばそのような経験をするためにこの夢を見ているのですから。

挫折もない、裏切りもない、不幸もない、、そんな人生は糞ゲー

残念ながらこの人生はほとんどが苦しみの人生です。何故ならばこの人生劇場の総指揮者はワンネス、大いなる一つという至福そのものだからです。至福そのものである全存在が夢を創造したにも関わらずその内容が至福でしかなかったらこの夢は何のために創造されたのか?という話です。マリオが最初から最強だったら、ドラクエの勇者が最初から最強だったら、、、このゲーム、夢は何の価値もないでしょう。だからこそ挫折あり、不幸あり、孤独あり、地獄あり、裏切りありのトラブル劇場なのです。

トラブルはトラブルを強く恐れることで連発する

私たちが毎晩見る夢では常識ですが、何かを強く恐れると大体その恐れの現象が起きます。例えば夢の中で火事を強く恐れれば大体火事が起きます。友人の裏切りを夢の中で強く恐れれば大体において裏切りは起きます。何故ならば夢だからです。そして我々が現実と思い込んでいるこの世界もワンネス、大いなる一つの夢です。ということは恐れることは大体起こると思ってください。夢ですから。ですが仮にそのようなトラブルが起こったとしてもそれほど気にしないことです、所詮は夢だからです。

自分=ストレス発生器ならば自分を無くす以外にこのストレスは消えない

安心してください、全部を手に入れたあの人も同じストレスを抱えている

自己啓発本、成功法則本、あらゆるノウハウがこの世には出回っていますが、その作者はしっかりとストレを抱えて生きています。著名人、有名人が成功ドキュメンタリードラマになり放送されていようとその人は今もなお確実に苦しんでいます。人生とは悩みの種類が変わり続けるというストーリーである、悩み、ストレスが無くなることは絶対に絶対にありません。それはこの心身こそが自分自身だという勘違いこそがこのストレス発生源だからです。

不幸そうに見えるあの人も、幸福そうに見えるあの人も同じストレスを抱えている

自分は人間であるという勘違いをしている限り、幸福そうに見える人も、不幸そうに見える人も、人生ストレスの総合量はほぼほぼ一緒です。なぜならばストレス、欠乏感、欠落感の発生システムとは自分をこの心身だと勘違いすることから生まれているからです。この誤解、錯覚を抱えた状態でいくら稼ごうと、いくら人気者になろうと、いくら崩壊しようと、、トータルストレスは変わりません。欠乏感からの逃避行動が今できているか、いないか、、ただこれだけです。

どれほどの徳を積もうと何も関係がない

あの人は人格者だ、あの人は徳が高い、あの人は運気が良い人だ、、、、幸福に関して全部嘘、偽り、偽証です。幸福しかないと宣っている人はそう偽ることで何かしらの利益を得ようとしているだけです。残念ながらこの心身こそを自分自身と勘違いしている、これが人生ドラマだと気づいていない時点で不足感、欠乏感の根本に気づいていません。良い人、人格者が不足感の呪縛から解放されると思っているとしたらまだまだ甘いということになります。不足感、欠乏感は大いなる一つがこの心身こそが自分だと勘違いすることから生まれるのであってそこに人格や徳の多少は何も関係がないのです。

思考は自我モードに自身(全存在)を切り替える

思考を使えば自我モード全開に

思考自体は何も悪くありません。思考はこの体をサバイブさせるためのスーパーコンピューターです。だからこそこのスーパーコンピューターが優れているほどにこのスパコンを使い倒したくなります。ですがこのスパンコンは人間にしか使えません、つまりスパコンを使い倒す時に人間に戻るのです、人間であるという錯覚を強めます。人間モード、自我モードは苦しみ生み出しモードです。不足感湧き出しモード=人間モードですからスパコンを使い倒せえば使い倒すほどに不足感が湧き出してくるのです。スパコンで問題解決が終わった時には同時に不幸になるというおまけがつきます。

スパコンを使ったら即無心モード、無我モードにシフトする

無心モード、無我モードは幸福、至福、歓喜、安堵です。このモードにいる限り全存在が全存在に戻ります。人間錯覚モードが解除されます。幸福が幸福行為をするだけのゾーンに戻ります。スパコンはたまに使うのみにして基本は無心、無我、真我モードでいるのが得策です。無心。無我、真我モードには時間、空間という縛りがなくなります。思考、人間、自我モードでは時間と空間の制限を受けます。思考、人間、自我モードは全存在との分離ですから不足感、欠落感、孤独感湧き出しモードです。

優秀なスパコン使用者が自殺に至る理由

優秀なスパコンを持っている人はこのスパコンを使い倒したくなります。なぜならば大変大きな結果を連発できるからです。ところがこのスパコンを使っている時、自我モード、人間モード全開になるので不足感、欠落感、孤独感も全開になります。大きな結果を出すとともに不足感が全開になるというおまけが付いてきます。優秀なコンピュータを持つ人は、結果が出た後に自身の欠落感に絶望して自殺を図りたくなるのです。優秀なミュージシャン、優秀なエンジニア、優秀な実業家がたまに自殺しますがこのパターンは大いにあります。

海であることを忘れた波は評判を気にする

他人(波)にどう思われているかで自身の幸福度を決める

周りから「あの人は凄い会社に入ったね」、「綺麗な彼女を持っているね」「凄い家に住んでいるね」これらの評価をされることで、、このな評価を受けているならば自身(波)は幸福なんだろうと結論づけます。逆に「自分が入った会社はダメな会社らしい」「評判が悪い人をパートナーにしてしまった」「自分の趣味はセンスが悪いらしい」と周囲から低い評価を受けていると、、ということは自分の幸福度は低いと結論づけます。自我は他人との比較で自身の幸福度を決めるのです。これはなぜかと言えば圧倒的に不幸だからです。不幸だから周囲に言われて幸福か不幸かを自身で決めつけているのです。圧倒的に幸福であれば周囲に何を言われても自身の幸福度が変化するわけがないのです。不幸の中でどのぐらい不幸かの基準を作っているだけなのです。自分自身が海であることを忘れ波だと勘違いしている時点で常に不足感、欠乏感が湧いてきますから基本は不幸です。このメカニズムを理解しないと不幸同士でランキングをしてお互いを縛りあっているという地獄絵図が始まります。

インスタグラムで周囲から高評価をどれだけ受けれるかを気にする

インスタグラムなどSNSにハマっている人は周囲からどのような評価を受けるかを気にします。周囲からいいね!がたくさんつけばどうやら自分は充実しているらしいと判断し、いいね!が少なければ最近の自分は充実していないなと判断します。海であることを忘れた波は欠乏感、不足感が常に溢れてきますから海であった時の満足感、安心、安堵の代替品として周囲から評価を餌にしようとするのです。ですがこれらの餌は一瞬で消えてなくなりますからまた次の日も人の評価を取りに行くのです。海の安心、安堵、歓喜の代替品を延々と求め続けるのが波の誤解、間違い、原罪(的を外す)です。

SNSを楽しむべきではないのか

ではSNS流行るべきないのか?そうではありません。SNSも遊びの一つですから嫌悪するべきではありません。ですがなぜ人がSNSにハマるのかというメカニズムを理解してその上でやるならば問題はないです。SNS、友人付き合いにおいて人の評価を得ようとするメカニズムを理解せずに延々とそれに興じても常に虚しさが残るのはそれらが海(全存在)の代替品であること、そしてこの代替品は代替品ゆえに海(全存在)の穴埋めにはなっていないことを理解することです。ですが周囲から評価された時に一瞬の満足感、周囲から称賛された時の一瞬の安堵感、、、これらは本物です。目的(対象)を手にした時(波)に一瞬自我が消えてなくなります。この瞬間の安堵は本物です。自我が消え一瞬海(全存在)に戻ります。ですがこの一瞬をひたすらに追いかけても虚しいし疲れます。この一瞬で得た海(全存在)の安堵、歓喜、至福を延々とするための理解が重要になります。

海として生まれてきた者を波であると洗脳するには7年間の歳月がかかる

赤ちゃんは海としてこの世に生まれてくる

赤ちゃんがなぜ生まれてきて大人とコミュニケーションができないのか?それは彼ら彼女らは見た目は別個の存在ですが感覚は海として生まれてきているのです。そのため海が海とコミュニケーションしようとします、そこに言葉を介在する必要がないのは明らかです。海が海としてコミュニケーションするというのはあり得ることではないからです。ところが赤ちゃんは戸惑います、自分にミルクをくれるこの海(母)はコミュニケーションが伝わらないと。そして途中で気づくのです、目の前の海(母)は以心伝心できる相手ではないと。そこからはひたすらに父(別個の波と思い込む海)と母(別個の波と思い込む海)による別個の波であるという洗脳が赤ちゃん(海)に続くわけです。

7年間かけて完全洗脳が完成する

海として生まれてきた赤ちゃんにあなたは海とは別個の独立した波であるという洗脳、勘違いを起こさせていきます。これを人間界んでは教育と呼びます。波の世界の言語、概念、考え方、波として生き延びるためのサバイバル方法に至るまで、、延々とこの教育は続くわけです。赤ちゃんが完全に独立した波であるという実感を覚えるのにかかる歳月は7年ぐらいと言われています、7年間の歳月を使って叩き込まれたこの固定観念はそう簡単に解けるわけがなく故に子供になった赤ちゃんはもう自分の意思ではほぼこの洗脳を解けずに人生を終了させるわけです。それもそのはずいくら苦しみ悩んでもそれを解決しようとする思考が波言語だからです。思考を使えば使うほどに自身は海ではなく波であるという洗脳が強化されるのです。言葉は自身は波であるという大前提に作られています。波が作り出した言葉、思考を使って自身が海であったという記憶が戻るわけがないのです。逆に言えば言葉、思考こそが波を波で居続けるさせの、海であった時の記憶を思い出させないための最強の砦でもあるのです。言葉の主語は基本別個の独立した波であることが多く、言葉の基本構造が波の独自性を強固にするのです。

なぜ独立した波を前提にした理論が破綻しないのか

本来は海であるにも関わらず自身を独立した波であると思い続けるのは実は苦しいことです、なぜならば実際は間違いなく波は海の一部でありしかも独立していないからです。独立していると思い込むことはできても事実は独立していないのです。こんな矛盾を抱え続けて生きているのが人間という勘違い生命体です。こんな勘違いした生命体がルールを決め、法律を決め、道徳を決め、正義を決めてお互いを監視し合って生きているのですからそこに争いが絶えないのは当然のことです。お互いがお互いを勘違いしながら生きていて平和な関係が続くわけがないのです。世の中の悩みの7割近くが人間関係であるのは当然のこと。自身を独立した波であるという大きなる勘違いをした者同士の関係性はいずれ破綻を迎えます。

大いなる勘違いをした状態で日々前を向いて生きていこうとすればあらゆる幸福マニュアルが必要になる

自身を海ではなく独立した波であると勘違いした状態でそれでも生きていかなければならないのがこの人間ゲームです。当然苦しいわけです、なぜこんなに小さいのか、力がないのか、影響力がないのか、人気がないのか、稼げないのか、貧しいのか、、、とあらゆる不足感、孤独感、渇望感、絶望感が襲ってきます、それはそのはず海の広大な感覚、海の喜び、歓喜、海の安心感を知っている(当たり前)存在が自身を波と勘違いすればあらゆる感情が中から湧いてくるのは当然です。しかも生まれてきた時(赤ちゃん)は間違いなく海として生まれてきたのです。喪失感たるや半端ないのです。だからこそ芸能人はバレても不倫をするし、犯罪もするし、お金持ちがなぜか万引きをする、成功者がなぜか他人を羨むという珍現象が生まれるのです。それもこれも初期設定の勘違い、大海原が自身を波だと勘違いしたことからこの不幸は始まります。

非二元ブームはなぜ起こったか

この現実がどこまで行っても苦しいことに大勢が気づき始めた

自我は先ず経済的満足を追求します。腹が減っては戦ができん、では無いですが自我は先ずは経済的満足を追求します。収入の良い仕事、将来性のある仕事、恋人、家、結婚などなど、、そして多くの満足を得たにも関わらず全く満足できない自分自身に驚愕します。得た直後は満足感はありますがその後にくる喪失感、退屈感の襲撃、この感覚にほとほと疲れ果てたのちに次に求めるのが精神的満足です。地位や名誉、プライドをみたし精神的満足を得ていきます、しかしここでもまた挫折が、、、どこまで行っても全く満たされない心、欲望の存在です。そこで次に登場するのがスピリチュアルと呼ばれる精神世界への探究です。ここではオーラ、チャクラ、ハイアーセルフとこの世界ならではのヒエラルキーが登場しそこを着実に登る山登りが始まります。この探究、この山登りこそが本当の幸福、至福に自分自身を目覚めさせてくれると。ところが、、このスピリチュアルの探究でもやっぱりダメ、どこまで登っても全く至福に至れないのです。ここまできて初めて人は非二元、悟り、というアイデアにたどり着くのです。そう、自我の探究、自我の山登り、自我の向上では至福にが至れないということを。自分を自分と思い込むこの自我こそが不幸、不足、枯渇、孤独を生み出してきた張本人であることに気づいてしまうのです。これが非二元、ノンデュアリティーです。

もう山登り、自分向上は辞めたい、、

あの人は素晴らしい、あの人は悟っている、あの人は何かが違う、、、この人を称賛する自我の動きは実は苦しみのメカニズムです。人を持ち上げるということは人を見下すことでもあるのです。つまり人間を階級で考えているのです。この考え方は世の中には人間という個別の存在がありそしてそこには称賛できる人もいれば逆に見下げるべき人もいるという山登りを証明します。自分よりも先に登っている人、自分よりも登れていない人がいるというこの強烈な錯覚こそが人を苦しめるのです。もうそろそろ気づかなくてはなりません、世の中に称賛すべき人も非難すべき個人も存在しません。全ては存在の顕れ、存在の現象化、存在の人間活動です。全て全く同じ粒子で構成されています。上下比較できる対象ではないのです。人を称賛すればそこに至っていない自分自身を見下すことになります、無価値観を強めます。人を見下せばその時は悦に入れますがそれも一時期、そのあとはただのプレッシャーに変わります。人間同士の比較も、人間という存在のカラクリも見破る時期が来ました。

夢の登場人物を比較する無意味さ

あなたは自分自身が毎晩見る夢の中での登場人物に優劣をつけることに意味を感じるでしょうか。自分自身で作っておいてそこに優劣をつける意味はありません。もちろんゲームとして優劣をつけることは自由ですがそこに何か価値はありません、ただの遊びです。これはこの現実社会も同じです、夢の登場人物に優劣をつけそこに自分自身も入れて比較しプレッシャーで苦しんでいるのが人間ゲームの苦しさの一つの原因です。どこまで山登りして自分自身を高めてもそこには答えがないことをそろそろ気づく時なのです。夢の登場人物として自身を高めていくことと至福とは何も関係がないことを悟る時が来ました、これがノンディアリティー非二元です。比較する対象は何もないということ、自分と他人も、自分と対象物も何もない、、ただそこには夢の登場人物がいるというだけです。