ワンネス

エゴが一番恐れていること

動きを俯瞰されること

エゴは実は存在しません、、ですからエゴの動きに対し無意識であることがエゴ存続の絶対条件になります、、そうなりますとエゴにとって一番の脅威とは、、エゴの動きを俯瞰されてしまうことなのです、、、気づきとはその動きを俯瞰してしまうことです、、、究極のい気づきとは何か?それはエゴ、自我の動きを完璧に俯瞰してしまうことなのです。

エゴはエゴの動きに無意識だから存続している

エゴは実は実態がないのですがそこに気づかれてしまったらもう終わりです、エゴの終焉です。ですからエゴは常に無意識化で動きを起こします、、、そのために思考に取り込み、、思考していることすら気づかない状態を作ります。。。自身がどういった行動を取っているか気づいてもいない状態がエゴ最高の状態なのです。だから「あなたは無意識にこういった行動を取っているよ」という俯瞰をエゴは恐れるのです。エゴの動きを俯瞰する存在とは無我、気づきの意識、ワンネスだからです。

本当は居ないのに、、、

本当は居ないにも関わらず自分が居るという大前提の大ドラマをやっているのがエゴです、、ここを見抜かれてしまったら、、、もう大ドラマに没入できない、、これはエゴにとって一番恐れていること、、エゴの終焉はこのドラマの終焉です、、そこでエゴはエゴに対し無意識の行動を他人から発見されるのを恐れます、、、せっかく無意識で活動できていたのに、、意識的になったらエゴは存在を維持できないからです。本当は居ないのですから。

自分をどう定義するかで自分以外(世界)が定義される

世界とは自分以外の定義である

本当の世界を知りたければ本当の自分を知ることです、、、自分が定義されると、、自分以外が定義されます、、これが見える世界(自分以外)になります。私たちは世界を見る前に、、、自分を定義し、自分以外を定義することで、、、定義された世界を見ているのです。分離解離した世界が目の前に広がっているのは定義された世界を見ているからです。自分をどう定義するかで、、自分以外(世界)が定義され続けているのです。

自分の再定義は、、世界の再定義

自分をどう定義するかで見える世界(自分以外)が定義され、、それに反映した世界を自分が今見つめています。自分という定義が変わってしまえば、、見える世界(自分以外)も定義が自動的に変わるため、、変わってしまいます。小さな子供は自分というものを定義していないので、、、見える世界も定義されていないのです、ワンネスに生きています。

自分が見える世界全てだった

本当の自分とは見える世界(森羅万象)そのものです、、自分以外と思っていた世界が自分なのです、、そしてこれを見てきたかつての自分の体も森羅万象の現れ、、です、全部ひっくるめて自分です、神です、気づきの意識です。自分の再定義が完成しますと、、、自動的に自分以外が再定義されます、、今回にあっては自分以外は無くなるという再定義です。全部が自分だったという再定義が完成します、、、すると見える世界が変わっていきます。

思考に振り回されているという、、気づきは素晴らしい

なんか頭の中の思考が大変で、、、

これは重要な気づきが気づきの意識の中で起こっています。頭がグチャグチャで、、、、本当にグチャグチャならば、、、それにも気づかない、、、思考がこの苦しみの根源であるという気づきが起きればそれはもう悟り間近です。あの人のあの発言でモヤモヤする、、、そうです、、このモヤモヤこそが苦しみの根源です、、思考と自分(気づきの意識)が一体化しています。苦しい場所(分離)に意識が向いているのです。

じゃあボーッとしてればいいんですか???

その通りです、思考に一切邪魔されない、、状態、、瞑想状態、無我状態は至福そのものです。ですがその思考のコントロールを自分がやるのだと思うと失敗します、、、コントロールできる自分が居ないことを悟るのです。思考とは湧いてくる温泉のようなもの、、、それをコントロールできてきたと思っている自分も思考です。ワンネスをバキバキに切り裂く存在思考を自分(思考)がコントロールしている(思考)という究極の思考ゲームの罠に居たことに気づくのです、気づきの意識が。

思考とは湧くもの

思考とは湧くもの、、、この気づきが起きますと、、、湧いてこなくなる、、、、面白い、、、あれだけ脳内でグチャグチャと回っていた思考が湧いてこないのです。なんという奇跡、そうです、、、思考の罠から抜けるには、、罠であるという気づきが起きればいいのです。気づく存在は誰?気づきの意識です。

気づきの意識はどこに居る?

さっきから気づきの意識、気づきの意識言ってますがそれはどこに居るんですか???今ここで気づいている存在です、、、光、声、温度、視界に気づいている張本人です。。いやいやこの体が感じているんですよ、、違いますか???違います、、、この体が感じているという錯覚はたまに起きます、、、夢中になってラーメンを食べているときに、、、自分が食べているなんて思いませんよね???ラーメンを感じ尽くしているのが気づきの意識です。

分離に生きるのではなく分離の視点で生きる

分離そのものではなく

私たちは分離の世界にのめり込み、、本当に分離していると信じ切って生活していますが、、、本当は分離はなく、、分離の視点があるだけです。ワンネス、大いなる一つ、空そのものであることが真実でそこに分離を作り出したのはこの見かけ上の脳です、脳が名前を記憶することで、、、記憶された現象がボコっと便利しているように見えるのです。この見えるというのが最重要で、実際には一つです。

一つだった

一つだったが腹落ちしますと景色が輝き始めます、、音楽は天国の音色を奏でるようになります、人の中の無邪気が見えます、、、これは子供が世界を眺めている時の状態です。これが大人になってから戻るのです、、、何もしていないのに幸せ、、できればこのまま、、だけでいい。肩にのしかかる重荷は消え失せ、こなさなきゃいけない課題も消えます、、、、本当はないことを知っています。

分離視点で片付ける

ということで本当は一つです、、それが分かると焦ることができない、、、ただこの体(見かけ上)を通して起こる言動をこなすのみです。成否は全部全体任せ、気づき任せ、神任せです。それを判断する自分も実は居ない、、仏教では他力本願という言葉がありますが自力本願が不可能だということです、自力の自とは全体、気づきの存在、大いなる一つなのですから。あくまでも作り上げられた分離視点で淡々と片付けるのみです。

目の前の全体は本当に全体なのか???

九州で土砂災害が、、、

毎日ニュースを騒がす様々なニュースは本当に起きているのでしょうか????答えは起きていません。あなたの目の前以外で何かが起きるのは不可能なのです。事象というのはあなたの五感無くして起きようがないのです。ですから全てのネットニュースは見なくて大丈夫です。なぜならば何も起きていないからです、あなたの目の前以外では。これは物理学です、あなたの五感がなければ何かが起きる起きたということを証明できないのです。

九州で戦後最大の土砂災害が、、、

こんなニュースがあっても一切気にする必要がありません、なぜならばあなたの目の前で土砂災害が起きていないならば起きていないのです。いやそんなことはない、九州でそれを目撃をした人が何千人も居る、、、しかしそれは情報です。事実ではありません。目の前に全体があるにも関わらずあなたの目の前以外で何かが起きるならばもう目の前は全体ではないのです。非全体になってしまいます、非神、非ワンネス、非オールザットワンになってしまいます。

目の前は絶対に全体

覚者が話す内容は一致しています、目の前が全体だった、目の前が全てだった、いまここしかない、、、全会一致でこの意見です。先ずはそこを認めてしまうことからスタートしましょう、すると不思議にも全くニュースに興味がなくなります、そしてニュースを見ていないにも関わらず何も問題なく毎日が進んでいきます、それは当たり前のこと、、、目の前以外に世界(全体)は存在しえないのです。

「私は在る」は思考???

「私は在る」は思考ではない

「私は在る」という感覚、これは生まれてきてから今まで一切途切れることはありません、こも感覚、、この世界に間違いなく「在る」というこの感覚こそが我々をhuman ではなくhuman beingにしている根拠です。何をしていても何を考えていても、、この「在る」という感覚だけは不変です。不変のものが思考であるはずがなく、、「ある」とは神の意識です。そうです、我々はいかに人間活動をやっていても神の「ある」という感覚の中でそれが行われているだけなのです。

「私の在る」と「他人の在る」は同じ

「私は在る」と友人が感じている「私は在る」は別人の在るなんでしょうか、、、、違います同じ人の在るです。そうです神の在るです。世界中80億人の「私は在る」は全部同じ存在が感じているのです。それを神、ワンネス、大いなる一つ、、と呼称します。個人は皆この「私は在る」の存在を深層心理では認識していますからここに戻りたいのです。恐ろしく楽しい時も恐ろしく辛い時もここに戻りたいのです。そして戻ることを「目が覚める」と表現します。

「熟睡時」の感覚は楽しい夢よりも偉大

夜、夢を見る際には皆わかっています、、、楽しい、楽しい、エキサイティングな夢を見るよりも熟睡後の恍惚感の方が間違いなく上であると、、、大金持ちになり、大有名人になり、全てを手に入れた男の夢を見るよりも、、熟睡後の幸福感が上であることを。。これは全員が気付いています。そうです、、この人間人生でいかに楽しく最高で快適な生活をしようとも、、「私はある」の感覚の場所に戻ることの方が偉大であることを皆知っています。だから多くの方が太古の昔から宗教を求め神を求め続けてきたのです。

幻想に触れると重くなり、真実に触れると軽くなる

真実は軽い

今が重い時、、、今苦しい時に多く方はどうしたらいいだろと考えます、考え続けます、、、するとどうでしょう、、どんどん重くなっていきます。これはなぜか??思考の世界に入り込んだからです、酸欠の世界に入り込んだからです、「非二元」欠の世界、「神」欠の世界に入り込んだからです。「大いなる一つ」欠の世界に入り込んだからです。真実欠の世界です。真我欠の世界です。ワンネス欠の世界です。さすがに理解できたでしょうか?笑そうです、、、思考の世界というのは、、、、楽な世界からガンガンに遠ざかる世界ということです。

五感に集中していく

今が苦しい、、、そうしたら真実が足りていないのです、こう考えます。真実が足りない??そうです、今が足りないのです。体に意識を向けるのです、運動したり、食事をしたり、友人とおしゃべりしたり、、、、五感の活動に専念します。体はいつでも今にありますから体に意識を向ければ真実が押し寄せてきます。幻想の世界がぶっ飛ぶのです。運動を習慣化する、全ての作業を無心になって取り込む、思考を放置する、、、とにかく思考と距離を置く生活に切り替えるのです。幻想、分離を徹底的に排除していくのです。

反復に集中する

多くの方は自身のタスク処理に思考を使ってしまいます。どうやったら効率良くできるか、どうしたら無駄なくやれるか???タスクに思考を入れてしまい苦しみます。そうではなく単純に反復反復で処理していきます。一切の思考を排して思考の介在を抜くのです。1日に何度も取り組んで反復でタスクを処理していきます。最後までやり切る、、思考はこんなことを言ってきますが無視です。ガン無視です。思考は思考を使わせようと必死です、そこを反復で処理していきます。公文式です。これで全ての作業を思考抜きで行えます、五感のみで行えます。無我、無心、非二元が押し寄せてきます。

目の前にピカソがあるか落書きがあるか

悟りとはこのこと

ピカソとは目の前の生命現象を生命現象のまま絵にしました。ゴッホも目の前の生命現象を英明現象のまま描きました。モーツアルトも神秘的な音色が頭の中を流れそれを楽譜にしました。いずれも目の前の生命現象に気付いていたかいないかの違いです。我々人間は生き抜くためあらゆるモノに名前をつけまくり、自身の中は思考フルスロットルにして、、生命現象を切り刻み尽くして見ています。ピカソの絵が落書きに成り下がるまで切り刻んで見ているのです。

切り刻み方が異常になると自死を考える

この切り刻み方が異常レベルになると人はうつ病になったり自死を考えるようになります。考えれば考えるほどにこの生命現象を切り刻むことになり世界は重く曇っていくのです。思考の恐ろしさを知らない極限状態です。人は苦しければ苦しいほどに思考の入り込みます、これによって世界はより重く曇っていくのです。その世界では何をやっても面白くない、、こんな人生を続けて何か意味があるのか?となります。

思考は放置する

思考の凄さは、、、ピカソの絵が落書きに見えてしまうとこまで生命現象を曇らせることができることです。これが思考です、これでも思考を信用しますか、これでも思考を使いますか、これでも思考と一緒に生きていきますか、、となります。思考とはこの全体、神、ワンネスを切り刻んで切り刻み体験をするための道具です。どこまで切り刻み体験をするか??そこは注意が必要です。

非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。