ワンネス

言葉で真実を現すという矛盾

我々は今言葉が作り出した幻想に居る

我々は今現在言葉が作り出した幻想、イメージの中に居ます、、、閉じ込められています、、この幻想の世界の中に居て、、、言葉で悟りを理解しようとしますと、、、新しい幻想を生み出すことになります。言葉とは幻想を生み出す道具です、、、「世界にはワンネスがあって、、」脳はすかさずにワンネスを想像します、、、はいこれでお腹いっぱい、、、「大いなる一つがあるんです、、、」大いなる一つを想像します、、、お腹いっぱい、、、違うんです、、新しい概念を覚えるのではなく、、、この世界が言葉で出来た幻想であることを体感した瞬間に、、ワンネスが現れるのです、体感として。

言葉の威力を知る

言葉とは魔力です、創造神です、、言葉をあまりにも多くの方は勘違いしています、、、引き寄せの法則????いやいや、、、今既に我々は観念の世界にどっぷり浸かっています、、、私が存在し、時間があって、空間があって、、、、、全部観念、幻想、イメージ、夢です、、、そんなことはない、、完璧に感覚があるではないか????夢の世界での感覚がこの夢を完璧に現実的に見せるのです。

やばい!!!TVを見過ぎた、、、

これが我々の悟りです、、、我々の悟りとはTVに夢中になって、、、いつの間にか時間が経ち、、、それに気づいたその瞬間、、これが小さな悟りです。。。意識がTV画面にがっつりフォーカスしました、、、、そしてそうだ 、、、、、私はこの体だった、、、、違うんです、、、この体でもない、、、この体にフォーカスが集まっているだけです、、、、そうだ、、、私はこの体ではなくて、、、、意識そのものじゃないか!!!!これが悟りです、、本当の悟りです。。。。TV画面に集中し、そこから悟り、、、この体に集中し、、そこから悟る、、、、何かに集中する意識こそが我々の本質です。

攻めの急所

自我の消滅

ワンネス、大いなる一つ、ブラフマン、アートマン、真我、神、、、なんでもいいのですが、、これらの言葉についてどれほど詳しくなろうと、、どれほど理論的に理解しようと、、、悟りに至らないのは、、、個人が居るというこの感覚をどうしても手放せないからです。。。。理屈としては分かるんです、、、ですが、、ハッキリとこの個人という意識を所有している、、、、、そこを抜け出せない

それは無理だろ

この体というのはあまりにも巧妙にできていて、、、この体の中に「自分が居る」と思い込めてしまう仕掛けが盛り沢山、、これが盛り沢山すぎて全人類が騙されるのです、、、、経験を積めばあらゆる思考、感想が勝手に湧いてきます、、、この店は嫌な店だな、、店長は愛想が悪いな、上司は今日は機嫌が良いな、、、、とこの間違いのない思考が、、、、この「私」を絶対的なものにしていきます。思考が湧くのは疑いようもない、、だからこの「私」も疑いようがないのです。

勝手に湧く

ということで悟りの攻めの急所、、、、「思考は勝手に湧く」ここです、、、これだけです、、、ここが腹落ちするとドミノが倒れ始めます。。。思考が勝手に自動的に湧いていることを認める、気づくと、、、もう自分が信用できなくなります、、、おい、何もしていないぞ!!!です、、自分とは何もしていない、、、既得権益、、、何もしていないのにお金を全部持っていく既得権益、、それはこの自分、自我、私の正体です。

既得権益を滅ぼす

実は何もしていない、、この私が、、、最高権力者にのさばっているのがこの自分という存在、、こんな存在を許容して、、幸福になるわけがない、、、ありえない、、、全く存在していない存在を勝手に作り上げ、、これありきの思考がガンガン湧き、それに右往左往する生活、、、ありえない、、、冗談じゃない。。。ということで、、、ここが悟りを開くための絶対的急所です。

今この瞬間の観念を確認する

今起きている現象は観念の現れ

個人が居てこの個人が歩む人生がある、、これが我々の基本的な認識です、、、この認識に基づく経験が積み重なっていき観念として形成されていきます。今自分の観念を確認したければどうするか???簡単です、、、今見えている現象、この現実(夢)を見ればいいのです、、この現実がどうなっているかが、、あなたの観念です。私を支える観念こそがこの現実(夢)です。

全く同じお店に入っても

例えば友人と全く同じお店に入っても感じる印象は違いますね、、一方は安くて美味しい店、一方は高くて不味い店、、、と。。。これを左右する存在は何だ????それが観念です、、、大いなる一つ、ワンネスが我々の目に入った瞬間、観念によるイメージ化が起こり、、、そこにあらゆる分離した現象が起きるのです。するとその視界を見て感情が起き上がり、それに気づきます。もうこの現実(夢)が本当であると感じるサイクルに入ります。脳はこの夢を現実であると信じ込ませることで、、この現実(夢)からこの体(自分)を守ろうとする動きを起こすのです。この夢が現実的に見えてもらえないと困るのです。。だからこそ本気で思っていること(観念)がこの夢を作り出し、、、これは間違いなく現実であるという思い込みを起こさせるのです。

観念が大いなる一つを分離した現象に見せ(夢)それを体験することで益々その観念が強化される

観念こそがワンネスを分離した現象化に導きます、、結果、、その夢(現実)を見た自分は、、これを現実と勘違いできるのです、、つまりこの自分は一生この夢を現実と思い続けることが出来るわけです。この自分をこの夢(現実)の中に一生閉じ込めることができます。「やっぱりそうだ!!!」が生きていると連発されるのは、、、観念がこのワンネスをイメージ化しているからです。私が経験した全てが今この目の前に現れています。だから今見える世界が私の観念を証明してくれているのです。

観念書き換えの嘘

多くのスピリチュアル本ではこの観念を好きなように書き換えて好きな世界を作りましょう、、と提案します、、ですがこれは、、、本末転倒、、、これを自由意思で書き換えることができる個人は存在しませんし、、観念を書き換える自由意志も存在しません。。。ただただ淡々と事が起き続け、、、観念が自動的に書き換わっていきます。

ストーリーの半ばまできてますが、、、

充分ストーリー背負ってますが何か????

いきなり「私」はイメージで、、この人生は夢の中の物語に過ぎない、、、て言われてしまっても、、、もうストーリーはかなり進んでいますから、、、どうすりゃいいんですか????という話です、、、、、何も問題はありません、、、このストーリーをストーリーと見抜いて生きていくだけです、、、これを漫画だと気づいて漫画を読んでいきます、、、、これを映画だと気づいて映画を観ていきます、、、

ワンネスの中でストーリーを敢えて生きる

ワンネスの中で、、、ストーリーを敢えて生きていくしか道はありません、、、分離を分離と見抜き、、分離の世界を生きていきます。。。この私をイメージと見抜き、私を生きます、、、、、何が変わるのか???深刻さが抜けます、、湧いてくる思考、行動が確実に変わります。。。。ストーリーを現実と勘違いしていた時の思考や感情が激変します。。。一度本当の現実を知ってしまったら、、もうストーリーを現実とは思うことはできません。

超現実

我々が生きる世界を現実と呼ぶならば、、超現実という場所があり、、その超現実の中で現実社会が広がっているという見方もあります。この現実は超現実から浮かび上がった世界、、、超現実を言語で分断し、、イメージ化し、、作り上げた世界こそが現実の世界です。。。今現実世界は超現実から湧く幻想ですから、、そこに居ることになっている人々はいつか超現実に戻りたいと切望します。。。

ストーリーの中で悟るという嘘

ストーリ上で悟ることはない

これは夢です、、この夢の中で悟るのは不可能です、、夢だと気づくことはできます、これが悟りです。。夢の中で私は悟りブッダになった、、、これは理論が破綻しています。。。この現実世界(夢)で私(イメージ)が悟りました、、、おかしい、、、、悟りとはこの現実世界(夢)が現実世界ではなく、、夢っだったという気づきです。私だと思っていた存在がイメージだった、、実は居なかったという気づきです。

この言葉こそが夢を作り上げていた

この言葉こそが、、、夢を作り上げた張本人でした、、、見かけ上の「私」が使うこの言葉がこのたった一つのエネルギーを分断し個別化し、私を作りあげ、、この私の物語を作り上げていたのです。この言葉とはワンネスの世界のプログラム言語、、この世界になんでも作り上げてしまします、、その第一番が「私」という存在、、さらに数万の言葉を覚え、、この世界は完全な分離の世界(見かけ上)になります。ここはもう既に夢の世界です。

視点を変えた瞬間

窓の外を見た瞬間

見かけ上の私が窓の外を眺めます、、、その眺めた瞬間、、木や、鳥、花を認識する前の瞬間、、この瞬間が、、、ワンネスです、、大いなる一つ、真我です、、、たった一つのエネルギーがそこに在ります。人から声を変えられ振り向いた瞬間、、まだそこの誰がいるかの認識がない瞬間、、、この瞬間こそがワンネス、大いなる一つです、、、私たちは、、分離独立しているように見える世界をしっかりと信じ過ぎてしまって、、この瞬間をないことにしてきました、、ですが本当はいつも在ります。

コーヒーを飲んだ瞬間

コーヒーを飲んだ瞬間に注目してください、、まだこれがコーヒーという認識が起こる前の瞬間に注目します、、この瞬間が真我です、ワンネスです。コーヒーだという気づきが起きる前の瞬間があります、、経験だけがある瞬間があります、、経験という言葉さえもない瞬間があります、、言葉が全く関与しない瞬間があります。。。ここが真我、ワンネスです。

私がステーキを食べた、、、

私がステーキを食べたというストーリーが湧き上がる前の瞬間、味覚だけが起きる瞬間、味覚という言葉さえ起きない瞬間が必ずあります、、この瞬間が真我、ワンネスです、、、、私が真我になるのではありません、、言葉にならばい存在、、真我が在るのです、その瞬間に。イメージの私は全くここに関与しません。関与するとすれば「私」が真我になったという思考が起きる時だけです、、それはストーリーです。真実ではありません。

幻想と見抜いて幻想を活用する

幻想と見抜くと観念が崩れ落ちる

我々はこのたった一つのエネルギーワンネス常に言葉を生み出し、、分離独立したように見える世界を築き上げました。これがこの夢の登場です、、、分離独立したものが最初にあってそれに名前をつけたのではありません。音を組み合わせた「名前」を覚えることでそれをイメージ化し、このたった一つのエネルギーの世界に、、分離したように見える「物体」を登場させたのです、、これはマジックです、イリュージョンです。この気づきが起きても、、、目の前に鳥は現れます、、、このマジックを見抜いたところでこのマジックは目の前で登場します、、、ですが今までとは全く違うこと、、それはこれがマジックだと知っているということです。

「私」の「物語」というマジック

私の物語は完全にマジックです、、言葉が作り出したイメージ、イリュージョン、幻想です。そこに気づいてしましますと、、真剣にこのマジックに付き合う気はもうなくなります、、、マジックで起きたことに汗を垂らす、、、ないです。ラスベガスで見たマジックを見てその後1週間寝込んだ、、、、聞いたことがありません。つまりマジックと見抜けば、、、もう深刻になれないのです。

マジックを楽しむ

マジックは楽しむものです、、つまり我々は今後この人生というマジックを楽しんで生きていくことができるのです、、マジックと見抜いてマジックを楽しんで生きていきます、、、このマジックの世界は化学反応(縁起)の世界ですから、、何かアクションを起こせばストーリー上、マジック上、、何か反応が起きます、、この反応を楽しんで生きていく、、、

「私」という絶対的現実存在というマジック

「私」という絶対的超現実存在、、これがマジックだったという気づきはこれまでの観念、価値観を根底から崩してくれます、、このビルの崩壊が起きますと、、、急激にこの人生(マジック)は楽になります、、重さが取れます、、、人生こうあるべきが壊れます、、暑苦しさが消え落ちます、、、深刻さが壊れます、、、

これは情報ではない

情報の前の世界

景色が入れ替わった瞬間、、我々は一瞬ワンネスを見ています、、、何かを食べた瞬間、、我々はワンネスを感じています、、、見る、感じるも、、これも二元の世界でのことであり、、、視界そのもの、味そのものになっているのです、、その次の瞬間には、、、あらゆる物が溢れ出し、誰が何を経験した、、というドラマが湧き出します、、、非二元のメッセージは、、その何もない瞬間、ワンネスそのものの瞬間に誘うメッセージです。

情報は新しいレイアーになる

知識を覚えるその知識がその人の中の新しいレイアーになります、、、全く何もない世界に新しい現象を生み出すレイアーになります、、、悟りとは、、、これが全部レイアーであるという気づきです、、、新しいレイアーを構築することではありません。ですが多くの場合、、悟りのメッセージはその人に新しいレイアーを作ってしまいます。

レイアーをレイアーと見抜く

悟りとは、、、全ての情報がどうやってこのレイアーになりうるかに気づくことです。。。名前を覚えるとそれがこの現象界に出現する、、、この仕組みを理解しますと、、、、もう今までのように目の前の出現に緊張しなくなります。。。だってただの現象に対してイメージを重ねているだけですから。。。この人は有名人なんです!!!と紹介を受けても、、、というイメージがついた人というイメージだという気づきがあります。。これで終わりです。イメージを本質と勘違いし、、そのイメージの中で本質(絶対幸福)を見つけようとする試みが苦しみを生み出します。

大人とはこの夢を現実だと信じる人たち

大人になる

大人というのは、、、この夢を現実だと信じて生きる人たちです、、それだけ、、、子供とはこれは夢だと見抜いている人たちです、、、、子供から大人になるとは、、、夢を現実と勘違いすることです、、、、悟りとは再びこれは夢だったという気づきが起こることです、、、この体は夢の中の登場人物に過ぎない、、、たったこれだけ、、、、神、大いなる一つ、ユニティー、ワンネス、、、、言葉で出てくる偉大らしき存在の数々、、、なんのことはない、、、、、この夢を見ているこの私のこと、、、という大オチ、ギャグ、残念な結末、、、

こんな簡単なトリック

簡単すぎる、、、これが夢だった、、、集団洗脳、、、これは現実ですよ、、、という集団洗脳、、、騙された、、まんまと騙された、、、、、、この目の前の視界以外、、、何も起きていない、、夢だから、、、、さっきまで一緒に遊んでいた友人は、、、家に帰れば存在していなかった、、、騙された、、、こんな簡単なトリックに、、、やられた、、、

夢は完璧

この夢は完璧なのです、、、本当は家に帰ればクラスメイトは存在していないのに、、、次の日に学校で会えば、、、一人一人が家での活動を教えてくれる、、、この夢で、、、、完璧すぎる、、、これでは騙される、、、試しにこっそり一人の友人の家に押し掛ければ、、、ちゃんとそこに居る、、。騙される、、、この夢は完璧過ぎて騙されます、、、、集団催眠に全員でかかっている、、、

全体と自分のどんでん返し

周りが自分でこれが自分以外

究極の騙し絵、、これがこの世界の真実です、、、究極の騙し絵、、どういう騙し絵なのか???それはこの体が自分以外で、周囲が自分だったという気づきです、、、真逆、、そうです、、このコントロールできる体こそが自分以外で、、全くコントロールが利かない周囲が自分です。全くコントロールできないのに、、自分ってどういうこと????コントロールが利かない、、のが普通なのです、、これが真理なのです、、真理とは何もコントロールできる存在は居ないという気づきです。つまりコントロールできない存在こそが自分自身、見える世界の全ては自由意志ではコントロールできませんから自分です。

だとしたらこの体は何だ???

周囲は全部コントロールできない、、だから自分、、、では、、コントロールできてしまうこの体、、この体は誰のものだ????心臓の動きはコントロールできない、、自分、、、、腎臓の動きも、爪も、肌の育成も髪の成長も、、、分泌物の生成も、、全部コントロールできない、、つまり自分、、、、唯一コントロールできる存在思考、行動のみ、、、、これは誰のものだ????この究極の例外は誰だ???

コントロールできているという思考がただコントロール無しに湧いている

「唯一コントロールできているこの思考と行動は私がコントロールしている」という思考がコントロール無しにただ湧いています、、、これでコントロールできている存在が完璧になくなりました、、全部が全部コントロールされていない、、、全部が全部真我の動き、つまり自分です。。。最後の難関、、、思考と行動、、、これはコントロールできている思い込む思考が湧いている、、、コントロール無しに。

「私が居る」の中で何もコントロールなく起こり続ける

真実はこうです、「私が在る」この絶対的感覚の中で、、、何一つコントロールなく、、、あらゆる現象が起き続けています、、この体も含め、、全部が全部コントロールなく事が起こり続けています、、この体を通じた経験の全てはコントロールなく起こり続けます、、、この起こる動きのエネルギーが自分、真我、無我、ワンネスです。