マリオ

至福に至ろうとするエネルギーがあるがままを隠す

探求の先にはない

どこに至福はあるのか??どこにあるがままはあるのか???この探求は自我のエネルギーの特徴です、探求者です。私がそれを見つけ出すんだ、、ですがこの見つけるというステージは確実に幻想の世界で行われるがために至福は見つかることはありません。マリオが必死になってスーパーマリオゲーム本体を探している状態です、画像の中で。画像の中にゲーム本体は存在しないのです、むしろ画像全てが本体の投影です。

探求を諦める

マリオが画面の中で至福(ゲーム本体)を探すのを諦めた時実は最もそれに近い状態にあります。マリオが必死になって探している間は絶対に絶対に見つからないわけです。探すという行為が自分(マリオ)以外を見てますからそれはもう分離のエネルギーしかないわけです。分離(マリオ)が分離を探している状態です。我々が唯一できることはこの仕組みを理解すること、ゲーム内での行為によって至るではなく仕組みを理解しゲーム本体にマリオが再吸収されるのを待つだけです。

あるがままへの誘い

今ここで感じる苦しみはあるがままへの帰還、誘いです。今苦しみを何十年間もこのゲーム内で解決しようと懸命に努力し、物理次元では解決できないと思うと情報空間、スピの世界で解決しようと努力しました。ですがそれらの努力は報われません、、この自分が何者かになろうとする努力自体がゲーム本体(あるがまま)への帰還を妨げるのです。この苦しみは自分という存在が起こしている、この事実に向き合うことです。自分という存在が苦しみを作り出すのです。

経験はあっても経験者は居ない

経験者不在の経験のみ

私たちの通念では経験者が先ずそこに居て次に経験がある、、経験者、経験、対象の3セットでこの経験は成立していると考えています。幻想の世界ではその通りです。ですが経験者は幻想、対象も幻想であるとなるとあるのは経験だけです。幻想二つで経験が生み出されています。経験から幻想を引き算すると経験のみです。経験だけが毎秒毎秒重なり合い、、時間があるという思考が湧き上がり、、その思考を気づきの意識が気づきます。その思考を作り出す経験者は居ないしその思考に気づく経験者も居ないのです。

これからも死ぬまで経験者不在で経験だけが積み重なる

この体が誕生してから我々は経験だけを積み重ねてきました、経験者不在で。そしてこれからも経験だけが積み重なっていきます。毎瞬毎瞬、、経験は確実にあるのですが物質ではありませんから無です、、、経験という無を重ねて重ねていくのです。この無の集大成があるがままです、あるがままがたった一つのエネルギーであることはここからも分かります。

それが分かったところで

それが分かったところでこれから我々の人生に何か影響があるのか????我々は実はこの経験を積んでいる経験者を凄く重視するのですが、、、経験者って全く出てこないのです、、経験者って想像の産物でしかありません。経験者という想像の産物に重きを置くから緊張が走るのです、本質ではないからです。想像の世界、ストーリー、ゲームに入り込んでしまいます。本当は経験者(マリオ)は実在しません。それが本当に腹落ちするとこれからの人生(本当はない)は軽くなります。

自我の役割を剥がす

五感からの情報収集

自我の役割の一つ、それが五感から得たあらゆる情報を整理することです、、、例えばテニスプレイヤーであれば相手の顔色、息遣い、動きのキレ、顔色、筋肉の張り、、、、全情報をインプットして整理して、、、今日のプレイスタイルを判断していきます。100パーセントの力で戦うか、80パーセントぐらいにしとこうか、、などです。自我はこれをやっていると思っています。ですが実際には全部気づきの意識が気づいています、、その全ての情報を。そしてその気づいた情報に基づいて作戦が湧いてきます、、その作戦に気づきの意識が気づくのです。

思考を練り上げる

自我の役割の一つが思考を練り上げることにあります、、右に打とうか、左に打とうか、もしくは浮かせるか、もしくは接近戦か、、、よし接近戦にしよう!!!と、、作戦隊長的な役割を自我が担っていると思っています。ところがその全ての思考は勝手に湧いてきています、そしてどれを選ぶかも勝手に湧いてきています。そして湧いてきた思考に気づくのは気づきの意識です。

行動を起こす

練りに練った作戦を通じて実践するのも自我の役割です、、実際にこの体をそう仕向けなくてはならない、、、ところがこれも違います。実際にはその行動が勝手に起きています、勝手にその行動を起こしているのです、この体が。作戦とは全く違う行動を起こすこともあれば作戦通りに動くこともあるでしょう、、その全ては勝手に起きています。そしてその動きに気づくのは気づきの意識です。

あれ、自我は何もしてない

そうなると自我は何もしていないではないか!!そうです、何もしていないのです、、何もしていないのならば自我って本当は存在しないんじゃ、、、そうです、存在しないのです、残念!!!え、、じゃあ、、みんなはこの体の総合責任者、CEOとして自我を持ち上げているけど、、その席には実は誰も座っていないということですか????その通りです。誰も居ません、、、マリオの中には誰も居ないように、この体の中にも誰も居ないのです。じゃあ自我が消滅する、自我が再吸収されるという言葉も幻想???そうです。本当は最初から誰も居ないのです。居ると思い込む感覚、エネルギーが消え去るのです。

自我の動きに気づくのも気づきの意識

どうしたら自我を消滅させれるか

悟り系を学ぶ方々は自我という存在を強く強く意識します、自我さえ消滅できれば、、、ですがこの自我ですが、、今この動きがあるのは気づきの意識がそれに気づいているからです。自我という動きは気づきの意識がそれに気づかなければ全く存在できないのです。全てはこの体の中にいる「自分」という存在が動かしている、、この思考に気づくのが気づきの意識です。

構造を理解する

脳が全現象を知覚しているという事実とは異なる概念を信じたことからこのマリオゲームはマリオが全部やっているという大勘違いが生まれていきます。実際は全て気づきの意識が知覚していてその知覚をゲーム上マリオの脳がやっているという、、、思考が生まれ、、その思考を気づきの意識が気づきます。五感と思考が組み合わさり、、この体の中に自分がいるぞ、、という概念が生まれそれに気づきの意識が気づくことで自我は完成します。コミュニケーションとは相互に自我を肯定しあう行為ですから益々自我は強固になっていくのです。

構造が理解できれば

構造が理解できますと、、、それをやったのは「自分」だという思考が湧いてきても、、いやそうじゃない、、が湧いてきます、、脳という機能を信じると、、脳の中に自分という存在が居るように感じてしまうのですがその嘘のメカニズムを打破できます。現象の変化は変化と同時に気づきの意識が気づいている、、この事実が完全なパラダイムシフトを起こします。主人公が自我から気づきの意識に変わるのです。

ゲーム上は脳が五感を作っているが実際は気づきの意識が気づいている

マリオの脳には五感を作り出す力はない

スーパーマリオが進化して五感の全てを再現したとしてもマリオがその五感を感じているのではありません。感じているのはプレイしている人間ですよね。これは全く人間ゲームも同じで人間の五感はゲーム上脳が作り出していることになっていますが実際には気づきの意識がその場で気づいています。味覚もゲーム上は舌にある組織から脳に繋がってとなっていますが、、、実際には気づきの意識です。

思考に気づくのも気づきの意識

ゲーム上は思考もマリオの脳内で作り出し脳内で感知しているとなっていますが実際には気づきの意識が湧き上がる思考に気づいているだけです。ゲーム上はマリオが思考を作り出したという思考が湧き出しそれを気づきの意識が気づくのです。ゲーム上はマリオの脳が全思考、全行動を作り出したことになっていますが実際には湧き出した思考、行動を気づきの意識が気づきます。この気づきを「私がやった」という感覚が湧きますがそれを気づきの意識が気づきます。

脳が実在しているを証明するのは無理

ゲーム上は全部脳が感知していることになっていますが、、これは全部幻想です。その証拠に脳が実在していると証明するためには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が必要になります、ですがこれは脳がやっていることになっています。ですがその脳が本当に実在していることを証明するにはまた視覚、聴覚、味覚、嗅覚が必要になります。五感を使っている人間が脳の存在を証明するのは不可能なのです。

全てを気づきの意識が気づいている

全てを気づきの意識が気づいているとなると時間の存在が必要なくなります。音が鳴ればそのばで音に気づき、風が吹けばその場で風を感じる、何かを食べればその場で味を感じ、思考が湧けばその場で思考を感じる、、全ての現象は湧き出た瞬間に気づきの意識に気づかれています。それをマリオが作り出した、マリオが感じたんだ、、、という感覚が湧き出した時にその場でそれも気づきの意識が気づきます。つまりタイムラグがないのです。原因と結果の法則が成立しなくなってきました。

スーパマリオには時間はあるのか???

スーパーマリオとうゲーム本体には時間という存在をしっかりと埋め込まれてしるのでしょうか???答えはNOです。TIMEという表示が変化するように設定されているだけです。マリオは動くのではなく、、その瞬間瞬間に移り変わる点灯によって動いているように見えているだけ。その点灯の動きに気づく存在がいて初めて時間があるという思考が湧く、、その思考を気づきの意識が気づきます。

森羅万象の動きも同じ

この人間社会、森羅万象も全く同じです、、現象の動きの全てに気づく存在、気づきの意識がいるので、、その変化に常に気づきます、、、気づいた変化をつなぎ合わせた時に時間があるという思考、概念が湧き出し、、それを気づきの意識が気づくのです。猫という現象、、これが変化していく、、その動きの全てに気づくから、、猫が動いている、、という思考が湧き、、その思考に気づきの意識が気づく。。。です。時間も空間も全現象に気づく気づきの意識があるからこそ、、そのような概念が湧き出しそれに気づく気づきの意識があってなりたつのです。

経験しかしていない

マリオは実在しない

この世界はあるがままの体験の場所、ゲーム、マリオ体験の場所です。マリオ、クッパ、空間の全て、時間の全てはそおれらを経験する場所でしかなく全ては幻想です。その証拠にマリオにとってこの世界は実在しているように見えているだけ、触っているように感じているだけ、香っているように感じているだけ、味がしているように感じているだけ、、音が鳴っているように聞こえているだけと五感を使った経験しかしていないのです。クッパが実在しているという証拠は一切ないし、マリオが実在しているという証拠が全くありません。経験(無)が100%あり続けるという無(実在ではない)を積み重ねた世界です。経験をどんなに積み重ねてもそれは時間が実在しているという証拠にはなりません。

マリオも時間も空間も経験からの逆算でしかない

この世界があくまでゲーム(虚)である証拠は、、経験以外が何もないということです。経験があるから時間があるはずだ、マリオが居るはずだ、空間があるはずだ、クッパもいるはずだ、、、という推論の余地をでません。つまりあるがまま(スーパーマリオ本体)以外何もないのです。私は100パーセント居るぞ、、とマリオが叫んでも、、、、いや経験しかしてませんよね????で終わりです。

思考して行動しているぞ

確かに経験しかしていないかもしれない、でも思考し実践しているこの私が、、、と思うかもしれません。それも違うんです、私が思考し、実践しているように感じているだけです、、そう経験しているだけです。100%自由意志があって自由行動があるという証拠がないのです。この辺りから我々はこれがゲーム(幻想)でしかないことを、そして私も居ないことを認めるしかなくなってくるのです。

これを今私以外の何かが気づく

この気づきは実はマリオ(私)に起きているのではありません。マリオ(私)以外の何かが気づくのです。そしてマリオ(私)はスーパーマリオ(あるがまま)に再吸収されていきます。本当にそうだ、これはゲームで経験しかしていなかった、、時間もあるように感じていただけだった、、空間もあるように感じているだけだった、、そりゃそうだ、、ゲームだから。。。覚者が昔からいっているように、、、この世界は無で、何もない、、は本当だ。私も居ないしあなたも本当は居ない、、私たちは最初から救われている、全部愛(あるがまま)なんだ、、となります。

マリオの外に至福(ゲーム本体)を求めればそれは全体ではありえない

全体とはマリオも含めてのこと

至福とは全体のことです、至福とは大いなる一つ、至福とはゲーム本体です、、我々マリオはこの現象世界の中で名誉が、所得が、愛すべき人が、愛すべき仲間が、、、マリオを幸福に至らせてくれるのでは??と考えますが、、至福は全体のことですから、、マリオ以外に至福があったとしたらそれは全体では無くなってしまいます。つまりマリオが外に至福を求めた時点で至福は絶対に絶対に見つからないのです。

ゲーム内には至福はない

この現象世界は分離の世界ですから分離している「私」が至福に至るのは不可能です。私という存在自体が分離(不幸)だからです。つまりマリオとしてして至福には至れないことを悟り、マリオがゲーム本体(スーパーマリオ)に再吸収されるほか全体(至福)になる方法はないということになります。マリオ(分離)である限り、分離はひたすら続くわけでこの状態こそが苦しいのですからマリオは至福に至ることは絶対に絶対にないということです。

自分が熟睡する

熟睡時に自分(マリオ)を意識している人は居ません、、自分(マリオ)が抜け落ちた時に熟睡(至福)が訪れます。昨晩私は熟睡を味わい尽くした、、、、これは嘘です、、熟睡時には意識がないはずです。至福とはまさにこれで自分が抜け落ちた時に訪れるのです、、じゃあ我々は一生至福には至れないではないか????その通りです、「私」は絶対に至福に至れないのです。

時間ありきの表現は全てストーリー(ゲーム内)

アセンションが始まる、、

200X年、アセンションが起こり次元上昇が始まる、、、これ時間がないと成立しない表現ですよね???つまりこれはストーリー、ゲーム中の出来事です。ワクワクしたことをやるとラッキーが連続する、、、何かをすると、、次の瞬間何かが起きる、、、これも時間あって成り立つことです、、ストーリー、ゲーム内の話です。ついてる、ついてると連呼すると、、ラッキーが起こる、、、これも時間があってこそ成り立つ話ですよね、、これもストーリー、ゲーム内の話です。パワースポットに行くとラッキーが起きる、、これもストーリー、ゲーム内の話です。

ストーリー、ゲームの中は、、、

ストーリー、ゲームはあるがままの無限の表現ですから、、、ある決まった因果が成立することは絶対にないのです。決まっていたら無限の表現ではなくなってしまいます。こうやったら女性は必ず落ちる、、こうやったら絶対お金を稼げる、、こうやったら人気者になれる、、、法則が決まっているならばこのゲームは無限ではなく有限のアートになってしまうのです。ですがこのゲームは無限(あるがまま)の表現ですから決まったルールはありえないのです。

時間の中では至福に至れない

時間の世界の中では至福には至れません、、こうやったら至福になる、、、この法則に従えば至福に至れる、、全部時間のゲームの中の話です。至福とはスーパーマリオゲーム本体のことで画面の中に至福(本体)は落ちていないのです。時間の中には至福がないことをマリオが悟りこの画面からマリオ共々抜け出た時に初めて至福に至るのだという気づきが重要です。

どうやって目覚めるのか???

意図して目覚めるは絶対にない

自由意志は本質の世界には絶対にありません、ゲーム上自由意思があるように見えているだけで実際にはマリオに自由意志はないのです。ですからどうやって目覚めるのか???という疑問を持っている間は目覚めが起きない可能性が高い、なぜならばマリオが全力で悟ろうとしているからです。大勘違いが続いています。むしろ真逆でマリオが意図して悟ることはないのだから勝手に目覚め解放が起きるのを待とう、、このスタンスが解放に近い感覚です。眠ってやるぞ眠ってやるぞ!!と鼻息荒く準備するよりも眠りに落ちるのを待つ感覚です。

誤解を解き続けることで準備はできる

自由意志はない、それを主導する自分もいない、、、周囲の人間も実は自由意志はない、このゲーム上には至福(ゲーム本体)は落ちていない、、こういった誤解を解くゲームに夢中になっていきますとリラックスが起き始めます、緊張感が抜けてくる、、よく分かんないけど頑張るって無駄だよね、、よく分かんないけど放っておけば寝れる(解放)よね、、、みたいになっていきます。この段階は小さな気づきが起きやすくなります。もう周囲に振り回されて頑張り続ける、、から卒業できるはずです。

死ぬのが怖く無くなっていく

死の恐怖は大変わかりやすいポイントです、死に対する恐怖は自身の本質に目覚めているか否かが判断できます。本質に深く触れていきますと理屈ではなく死への恐怖が減ります、友人の死、親の死などに対してもネガティブな感情が起きません。どこまで本質として生きているかが大きく出るのです。野生動物が親の死を引きずらないのは冷徹だからではなく本質そのものだからです。原住民族が死をお祝いするのは本質的に生きているからです。

あるがままはなぜ今もこのゲームを続けるのか?

最初から完璧ならば、、、

最初からあるがままはそのままで完全完璧ならばなぜこの意味不明なゲームを続けるのでしょうか???必要ないではないでしょうか、完璧なんだから。そうではないのです、完璧完全ゆえに自分自身が完全完璧であるとういうことを体験できないのです、自分自身がそれを体感したいだからこそあるがままの中に不完全不完璧(マリオ)を作り出し完全完璧を追い求めさせ最終的にそれを味わいたいのです(解放)完全完璧を体験するには不完全不完璧にならなくては成れない、ただそれだけです。

最大の悪趣味

最強のイケメンが自身がイケメンであることを実感するには一度ブサイクになってそこからイケメンに成ってみないとイケメンの素晴らしさ、イケメンの重要さを体験できない。こんな悪趣味なゲームをあるがままはやっているのです。あるがままが無限の存在であるがゆえに無限を体感するには無限そのものでは無限を体験できない、そこで無限ではない形(マリオ)を作り出し無限を追い求め無限の経験を体感しているのです。

だから幼児は全てに感動している

自我が形成されるまでの赤ちゃんは全ての物に興味を持ち感動しています、触って遊んで目を輝かせています。これは自分(あるがまま)が自分(あるがまま)を味わっているのです、面白いのです、楽しいのです。自我が形成されるにつれて究極の不完全(思い込み)になるのですがその場所は苦しいからこそ自我は至福(あるがまま)を追い求め続けるのです。やがて対象(アイテム)には至福がないことに気づき対象でないのならば全体(ゲーム本体)が至福なのではと悟り(画面離脱)に興味を覚えるわけです。