経験

「全部が自分」説

自分という概念は嘘

「全部が自分」説、、この言葉には矛盾が含まれています。それは自分という言葉自体が、、、この世界からの分離を表しているからです。自らを分ける=自分です。ですから自分という言葉は適切ではありません、ですが他に表現しようがないので「全部が自分」と表現します。そして見かけ上の覚者は「全部が自分」とは言わないはずです、、どちらかと言えば、、何もなかったが近いように感じます。この世界から自分が抜け落ちる、、という感覚でしょう。

経験しかないぞ

この世界には実は経験しかないんです、、何かが見えるという経験、何かに触れるという経験、、何かを香るという経験、何かが聞こえるという経験、何かを味わうという経験、そして思考を感じる経験、感情を感じる経験です。この何かや思考、感情というのは何かしらに付けた名前でしかないので、、、本当は経験しかありません。では経験とは何か????これを言葉で説明するのは難しいのです。この言葉にできない「経験」、、そして「経験」という言葉も何かにつけた言葉ですから経験という言葉が指し示す「なにか」しかないということです。

「なにか」は確実に在る

言葉にもならない、経験という言葉が指し示す「何か」は絶対にあります。ラーメンを食べれば経験という言葉が指し示す「何か」が確実に起こります。この何かをかき集めたのが「全体」という言葉が指し示す何かです。「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」が我々の本質です。

「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」から現象が生まれまた経験が起こり続ける

ここには「経験」という言葉が指し示す「何か」しかありませんから我々の本質はこの「何か」をかき集めたものです。この「何か」をかき集めたものから常にまたあらゆる現象が目の前で起き続け、、また「経験」という言葉が指し示す「何か」が起こり続けるのです。これが色即是空、空即是色です。これがただひたすらに起こり続けています。

本当の私はどこに居る????

ここ以外にいるのか????

「この体この思考が自分」じゃないとすると、、、、、本当の自分はどこに居るんでしょうか????どこか遠い場所に居るのか????どこか離れた場所?????であるはずがないんです。。本当の自分がどこか遠くにいるならば、、、ここはどこだ?????ここは偽物の場所なのか????です。もしも本当の自分がどこかに居るとしたら、、、ここしかないのです。そうです、、、ここにいるんです、間違いなく。

いまここに居るとして

いまここに本当の自分が居るのは分かった、、、、ではどこん居るんでしょうか????どこに隠れているのか????どこかに隠れれるとしたら、、隠れることができる残りの場所は何????となってしまいます。そうです本当の私はかくれちゃだめなんです。隠れた瞬間に、、隠す場所が本当の私以外になってしまうのです。つまり本当の私は、、、、どこにも隠れず、、、、ここに存在しています。目の前のコーヒッカップ、テーブル、あらゆる人々、、、この視界の全て、ここで聞こえる音の全て、香りの全てです。

この経験が本当の私の経験ではないとしたら

「この体、この思考である私」が感じる経験は誰の経験でしょうか????それが本当の私の経験ではないとしたら、、本当の私の経験とそれ以外の経験が存在してしまうことになってしまいます。そんなはずはない、、すると今ここで起こる経験の全ては本当の私の経験です。では本当の私と、、経験は別なのか?????本当の私と、、経験が別であったとしたら、、、経験は偽物になってしまします。違うんです、、経験もそのまま本当の私です。

ダイレクトパス

ここには経験しかないぞ!!!!

「この体とこの思考は私だ!」は嘘です。というかこれは想像です。真実ではないんです。なぜならばこの体も思考も実在しないからです。実在しないにも関わらずそれを私とすることはできます。ですが「私」という存在は間違いなく、、ありますよね!!!だって在るって感覚はありますからね、、、この在るって感覚がどこにあるかを突き詰めて、、、我々はこの体この思考が私って決めました。在る!!!のリンク先を体と思考に決めたんですが、、、その嘘を見抜きます。

コーヒーを飲む

目の前のコーヒーカップに入ったコーヒーを飲みます。先ずはそのコーヒーカップが視界に入ります。その時この私(体と思考)は存在しません、、、カップの映像だけです。実際に飲みます、、、この体、手が視界に入ります、、、、、口にします。画像だけあります、手の画像だけあります。香りだけあります、味覚だけあります、触感だけあります。終わり。この経験の中で体が実在しコーヒがー実在する、、、という事実は全くないんです。感覚を集めた経験しかないんです。それと在るという感覚だけです。

経験+在るという感覚だけ

ここには各種経験と在るという感覚しかありません。旅行に行こうと、どんな食事をしても、友人と会話をしても、、、「経験と在る」という感覚以外ないんです。この全てに実在するはずの物質って存在しません。つまりコーヒーカップもこの体も、、、物質として確実に在るって証拠はでてきません。少なくとも実在しているという証拠は出てこないんです。一方経験と在る、、、これだけは100%あります。だからこの世界は幻想だとしても、、経験は100%ありますから、、、、何もないというのもおかしい、、、経験が無限大に有る、、、世界です。逆に言えば経験しかない、、、世界です。何もないところから有るように見える現象が起き、その中で経験だけが積まれ、、、経験を寄せ集めてもやっぱり実在するものは何もなかった、、、です。

現象から大いなる一つを発見する

色即是空

「この体、この思考が自分」この大誤解を抱えながら生きてきたのがこの人生ストーリーです。ですがこの大誤解ストーリーは正直しんどいんです、正直いつまで経っても不安が消えない、孤独が消えないんです。だからもう辞めたいんです。ではこの体、この思考が自分ではないことを現象から説明しましょう。今目の前に観賞植物があります。この観葉植物が自分か自分じゃないか????の説明の前に、、この観葉植物という姿を私が見ているという思考を完全に外して冷静に観察します、、、画像だけがあります、、、よく見てください、、あるのは画像だけです。

私が観葉植物を見ている、、は思考

観葉植物をしっかり見てください、、、「私が観葉植物を見ている」なんて事実は一切わからないんです。だって画像しかないから、、観葉植物の。そこに私なんて居ないんです。次にこの観葉植物に触ってみてください。葉っぱの感覚だけがあります。もっと言えば感覚しかありません。私が観葉植物を触っているなんていう事実は一切ないです。感覚しかないです。私なんて存在しません。次にこの観葉植物の香りを嗅いでみてください。香りのみあります。次に葉っぱを千切って口に入れます、、葉の味がします。それだけ。

何が言いたいか?????

今の一連の動作において、、私が〇〇した、、、、という事実は全くもって証明できないんです。見えた、味がした、香った、触れた、、、という経験しかないんです、、感覚しかないんです、、、そこに「私は、、、、」なんて事実は何もないんです。つまりここには経験しか、感覚しかないんです。感覚だけが存在します。。。感覚だけが真実です。そこには「この体、この思考は自分だ」なんて事実は全くないわけです。どうですか???どこを探しても自分なんてものは登場しないんです。

感覚だけがある

我々の本質は、、この感覚だけです、、感覚だけ寄せ集めて寄せ集めて、、、それが全部です。私とか、自分とか、我々とか、コップとか、観葉植物とか、、誰かが誰かと見るとか、、、そんなの起こっていないんです。それは全部思考です。本当は感覚しか起きていないんです、この世界って。つまり感覚を寄せ集めて、、はい終わりです。寄せ集めて寄せ集めて、、、、何になりますか?????????無です。大いなる一つとは無なんです。そしてあえてあえていうならば「自分とは無」となります。

経験自己所有の法則

人間とは経験を自分のモノにしていく生き物

色即是空、この色の世界に実は独立したモノなどありません。この色の世界を構築しているエネルギーはゼロです。ですからこの色の世界はゼロエネルギーで構成されています。ゼロエネルギーがまるで生命が現象しているかのように見せています。だから色なのです。ゼロエネルギーですから例えば鳥が空を飛んでいてもそれを構成しているエネルギーはゼロです。ゼロが集まって鳥に見えている、鳥の感触がある、鳥の泣き声があるだけです。人間はこの色の世界において脳を所有すことでこの体の経験を全部自分のモノとして記憶します。この体が多くの経験を積めば積むほどに自分の経験が増えていくという流れです。これによって色の世界に全く別物の物語が作られました。人間ストーリーです。覚者がこの人間ストーリーのカラクリを発見したときに夢から覚めた感覚だと称するのは人間が勝手にストーリー仕立てにしていたと気づくからです。このストーリーは作り物です。

自分の人生は作りモノ

自分の人生とは作りモノです、なぜならばこの体が経験することを勝手に自分が所有したとしているだけだからです。本当はただ体に経験だけがあります。この経験を脳が記憶して積み重ねてこの自分の歴史だとしたのが人生です。人間の記憶機能がなければただ経験だけがある、そしてその経験は全体の経験です。これを人間が勝手に自分の経験だと言い張り楽しんでいるのです。ですがこの人間勝手経験所有ストーリーは全体が行なっていますからこれは全体の遊び、神の遊びです。遊びは遊びですがまあまあ苦しい遊びですからこの神の悪趣味に付き合う必要はないんです。

経験の全てを全体に戻す

この体の経験を全部この自分のモノにすることもできますし、この体の経験を全て全体のモノにすることもできます。体の中には自分は実はいないので当然です、記憶を起動しなければ経験はそのまま全体の経験になります。音楽が聞こえる、食事が美味しい、お腹が空いた、仕事を辞めたい、、全部全体のからの起こりであり、全体の認識です。自分が所有しなければ。後付けの自分に経験を所有させればエキサイティングで楽しいですが苦しくもあります。自分が欲しがる経験は積めないか、もしくは積んでも直ぐに不足感が襲ってくるからです。

後付け機能を全て外す

芸能人がメディアで叩かれる

芸能人が不倫でメディアから叩かれるとしましょう。その芸能人はなぜか反省しなくていけないような強制圧力が周囲から起こります。ですがこれを自分の経験として所有しないことです。ただこの体がメディアから叩かれた、それだけ。それが起こっただけ。そしてこれからはそれをしないと決めるだけです。これを自分が言われたのだと自分がこの経験を所有しますと反省や後悔、苦悩が襲ってきます。

もしも仕事で干されたら

スキャンダルでメディアから叩かれた経験を自分が所有しなくてはならない、、、こう多くの人は思います。ですがこれは後付けです、人間が勝手にやっている後付けゲームです。これに参加しない。ただ不倫を今後はしない、それだけ。だがそれでももしもそれによって仕事が干されたら、、、自分の経験として所有しようと、しまいと起こる現象は同じです。もしも干されたらこの体ができる仕事を探すだけ、、、それだけです。全部は自分がこの経験を所有すらから苦しくなるのです。

自分ごとと捉えなければ仕事などできるわけがない、、、

これは嘘です、マリオゲームをやっているときにマリオになり切らなくたってゲームはできます、むしろ冷静に明晰にそれができます。マリオになりきればあらゆる感情、情動が湧いてきて苦しくなります、楽しいですが。もしも自分経験所有ゲームに疲れたならばこれをお勧めします。全部の経験を自分が所有するのは実は後付け、これは人間に備わった機能の一つです。これを手放しますと明晰さが湧いてきます。

人間解除メソッド

人間は後付け、、ここはポイント

人間はもともとこの世に存在しません、全体だけがありその生命現象だけがありました。生命現象を認識する全体だけがありました。ここに注目します、音が聞こえたら耳がそれを感じ取っていると思います、人間は。ですが実際はそれは後付け機能です、もともとは全体が音を拾っていました。人間が歩きます、視界が変わります、、これを人間は自分が見ていると判断します。ですが実際はただ変わる景色だけがあります、それを全体が認識します。水を飲みます、これを人間は自分が飲んだと判断します、これは後付けです。本当は飲んだという感覚だけがあります。これを全体が認識します。人間の経験を人間に所有させません。それは後付けです。本当はただ経験だけがありました。そっちが本当の世界です。人間が所有する経験は後付けでしかありません。

仕事をしているときに自分がそれを所有しない

仕事をしていると様々な経験を積みますがそれを自分が所有しないのです、ただあらゆる経験があるだけ、それを自分が所有するという感覚は後付けです。自分とは本当はいなかったのです、脳が記憶機能を搭載するようになったときにこの体が経験することを「自分」が経験したと決めたのです、後付けで。それまでの人間の活動は全て全体がただ認識していただけです。何か悪気ちを言われた、、自分が言われたとこの経験を所有するから腹が立つのです。ただこの体が悪口を言われた、ただそれだけ。この感覚を所有してもそれでもこの自分とされる体には色々な災難が降りかかるでしょう。ですがこれを自分が所有しないことです。それは後付けです。

自分はいつも特別になろうとする

自分はいつも特別になろうとします、そのためにあらゆる経験を自分が所有し、この経験を積んだ自分は凄いだろ、と悦に入ります。この体が経験したことを自分が所有し、称賛を得ようとします、信頼を得ようとします、特別視してもらおうとします。これが自分の活動内容です。なぜ特別になろうとするのか?それは普通では苦しいからです、ですが実際は特別な存在になってもこの苦しさは続きます。人間がこの体が経験したことを自分ごとと捉えている期間は苦しみから逃げられないのです。

人間ができる前は全体だった

全体の起こりがただある世界

この世に人間ができる前の世界はただ全体の起こり、生命現象がある世界が広がっていました。全体から何かしらの生命現象が起こりそれをただ全体が認識する世界です。花が生まれ、鳥が羽ばたき、虫が動く、、ただそれだけ、、そこに人間という脳を持った生命現象が起こりました、その生命現象は脳を持ち、思考を操り、まさかこの生命現象の中に独自の意識を完成させました、それが今の人間のデフォルトです。言葉という言語で意識を作り出したのです。全体は初めて全体ではない感覚を手に入れることができたのです。この人間という感覚は後付けの感覚です、そのため人間は個別意識と熟睡時の全体意識の両方を所有します。朝起きて人間活動をする時は人間意識、熟睡時は全体意識というわけです。

この人間意識は後付けであり居心地が悪い

この人間意識の特徴は基本居心地が悪いということです、試しに家で一人きり何もしないでボーと外だけを見ていてください。強烈な退屈感、孤独感が襲ってくるはずです。この人間意識は何かをしていないと苦しくて苦しくて仕方ないのです。そして何かしらの行動をとると色々な経験を詰めて充実感が湧いてきます。不足感、充実感、退屈、刺激的、、、このようにこの人間意識活動はどこまで行ってもマイナスとプラスを行き来する世界なのです。釈迦はこれを苦しみの世界と表現しました。全体によりこの人間意識体験は大変エキサイティングで自我はこれを必死になって維持しようとしますが同時にこれは全体という歓喜、平和、安堵がこれを体験しているという自己矛盾を抱えています。そこに帰りたい衝動を抱えています。

人間がプールを楽しむ感覚に似ている

人間はなぜプールという呼吸がしにくい環境で運動をするのか?身動きが自由に取れない中であえて負荷をかけて運動を楽しんでいます。呼吸ができないこと自体は非常に苦しいこと、ですが同時にこの不自由さこそがエキサイティング、楽しさの要因でもあります。これぞまさに全体が人間をやる理由です。人間は苦しい、だからこそ面白いという感覚です。

プールで遊び疲れたら陸に戻るように人間を遊び疲れたら全体に戻る

プールで遊び疲れた人間が陸に戻るように、人間に遊び疲れたら全体に戻ればいいのです。人間という感覚は人間であることに集中するからこそ人間活動ができます。もしも自分から意識を逸らし他に集中でこることを見つけると人間意識が外れ全体に戻れます。没頭できることを見つけていきます。もしくは悟り、ノンデュアリティーというこの究極のメッセージに耳を傾けることです、すると人間であることが後付けであることがはっきりと分かり人間活動が緩んできます。緩めば緩んだ分だけ呼吸ができるようになります。

波になる前は海だった

波の経験の前に海の経験がある

海であることを忘れた波はあらゆる経験を重ねますが、波は元々海です。海としての経験を積んでいました、そこから突然波の経験が加わりました。もともとは海の経験のみです、そして海でありながら波であるという経験が後付けで追加されたのです。これは大変重要なポイントです、波の経験とは後付けなのです。だからこそ波が何かに集中することで波であることを忘れた瞬間に海の経験が湧き出してくるのです。海の中に魚の動き、潮の流れ、竜巻、海で起こる全てがそのまま経験として認知されます、他人が他人事に見えないのです。全てが海として認識されていきます。

音楽が流れれば音楽になり、風が吹けば風になる、、、、

人間あることは波であることと同じです、人間でないとき全体だけがあります、波でないとき海しかありません。人間は何かに集中し自分が人間であることを忘れると全体になっています、波は何かに集中し波であることを忘れると海になっています。風が吹けば風をそのまま感じ、音楽が流れればそのまま音楽を感じます、そこに人間は必要ないのです。波である時は魚が飛べば波視点でそれを確認します、上空に鳥が飛べば波視点でそれを確認します。ですが波が何かに集中し波であることを忘れるとき海がそのまま魚、鳥に気づきます。人間視点、波視点はあくまで後付け視点です、我々人間はこの後付け視点で日々生きているだけです。

人間としての後付け視点が消え去ると全体視点だけがある

人間が何かに没頭し我を忘れると、、人間視点が消え去ります。その時全体視点が湧き出てきます。音楽が音楽のまま認識されます、人が人のまま認識されます、花は花のまま認識されます、ゴッホやラッセン、モーツアルト、ベートーベン、などの偉人とは人間視点を放棄して全体視点でモノを音をそのまま認識していたと思います。それをただこの体が描いただけ、楽譜に刻んだだけ。ですからそこには人間としての損得、勝敗、感情の全てが抜け落ちています。

ゼロエネルギーがこの世界を作っている

ゼロはどこまでいってもゼロ

この世界を構成しているエネルギーはゼロです。ゼロエネルギーでこの視界に広がる世界は構築されています。ゼロというエネルギーが様々な形状を作り出しさもこの現実があるかのように見えているのがこの世です。どこまで行ってもゼロはゼロですからこの世は虚像ということになります。ですがこのゼロエネルギーで構築された体が体以外と交わることで経験が生まれます。体を作り出すエネルギーもゼロエネルギー、そして体以外もゼロエネルギー、ということは経験もゼロということになります。どこまで行ってもゼロはゼロです。

色即是空

色即是空、空即是色という言葉があります。空とはゼロです、このゼロが色を生み出しました、色とはイロ(シキ)とと読みますが、、、空がゼロですから色も当然ゼロです。この世界は様々な形態を見せ多様な世界を構築しているように見えますがこれを構築しているエネルギーはゼロです。ということはこの目に見える世界に在るものは全てゼロエネルギーでできています。にも関わらず人間の体(ゼロ)が食べ物(ゼロ)を食べるときに感じる味覚は確実にあります、これは何なのか?ということです。これは大変重要なポイントでして経験は確実に在るのです、経験という形にならないもの(ゼロ)だけは確実に在る世界、これが色(ゼロ)の世界です。

空の世界はゼロ、色の世界は経験(ゼロ)

経験というのは形のない世界(ゼロ)です。これが色の世界の正体です。我々は間違いなく形状を持っています、ですがこの形状はゼロエネルギーでできています。この私の体は確実に在るように見えます(色)そしてこの体は確実にあらゆる経験を積むことができます、、、ですがこの経験とは証拠を出せないモノ(ゼロ)だということです。我々は経験を積んでいるからこそこの体の存在に疑いを持ちませんが、、、この体の存在証明を経験(ゼロ)に委ねているというところが面白いところです。