人間ゲームの最重要機能、記憶

恐らく脳は記憶を受信する場所

スーパーマリオが大ヒットした当初記憶機能というものが存在しませんでした、ゲームはスタートしたらまさかの最後まで一気にクリアーしないと完結しなかったのです。記憶機能が存在しないからです。ところがスーパーファミコンが誕生してからスーパーマリオには記憶機能が完備しました、これにより途中でゲームを辞めても次の日は続きからプレイできるようになったのです。この人間ゲームは当たり前ですが記憶完備です、朝起きればしっかりと昨日までの記憶が蘇ります。ではその記憶はどこにあるのか?人間はこれを脳にあると認識しています、脳が機能不全を起こすと記憶が飛ぶからです。ですがよく考えてみてください、マリオゲームの記憶はマリオの中には存在しません、マリオゲーム自体に記憶されます。ということはこの人間ゲームの記憶は人間ゲーム自体に記憶されている可能性が高い、そしてその記憶をリンクさせる場所が脳ではないか、、、ということです。その証拠に幽体離脱をした人間の話を聞くとしっかりと過去の記憶を持っている、、、

人間ゲームとしては人間は脳に記憶がある

この人間ゲームとしては脳に記憶がしまってあります、ゲーム上はです。ですが本当は人間ゲームそのものに記憶があります、全体、神にあるということです。神制作人間ゲームにおいて記憶が人間の脳の中にだけあるなど考えられないということです。ゲームがスタートするとゲーム上人間の脳の中に記憶は貯蔵されます。人間ゲームのゲーム進行上どこかに記憶がなければゲームが成立しないということです。脳の記憶障害を起こした人間がある日突然記憶が戻ったということがあるのは記憶は神全体、ゲーム全体に記憶されていてそことのリンクが戻ったということです。スマホのデータがクラウド上に存在するように人間の記憶もクラウド、神、全体に存在します。

テクノロジーの発展はこの人間ゲームの種明かし

私はこの人間ゲームをマリオゲームで例えて説明しますが、、人間が発明したテクノリジーはこの人間ゲームの種明かしにあまりに最適です。釈迦やキリストがこの世のカラクリを明かした時とは違い説明が楽すぎる、、、どうやら神は人間ゲームの種明かしをする時期に今を設定しているのでは?そのような疑問が湧いてきてしょうがありません。一時期若者のことを悟り世代と呼んでいましたが、、これはあながち間違っていない。積極性がなく無欲な若者を悟り世代と言って揶揄していましたが違った意味でこれが真実を突いているかもしれません。

マリオゲームは2時間、人間ゲームは16時間が限度

プレイヤーはゲームが終われば夢から覚める

プレイヤーがマリオゲームに熱中している時はマリオになり切っています。自身がまるでマリオであるかのように感情丸出し、思考丸出し状態です。悔しがり、喜び、歓喜に狂い、マリオに成り切ります。ですがゲームに疲れてゲームを辞めれば元の生活に戻ります。マリオになり切っていた自分からプレイヤーに戻ります。とはいえマリオはどうか?もしもマリオに人格があるとすればマリオは常にゲームの中です。マリオが我に帰ってゲームをやらないという選択肢はありません。マリオとはゲーム進行中しか存在できないし、ゲームが始まればマリオの選択肢は大冒険を続けるのみです。マリオと大冒険は常にセットです。マリオとはゲームの中でしか意識を持てない存在なのです。

神は人間の熟睡中は夢から覚める

一方この人間ゲームはどうなっているか?人間ゲーム絶賛活動中、神は人間になり切っています。神などこの世にいないかのように人間になり切ってゲームを遂行します。そして夜が更けて疲れてきた時に人間は熟睡と言って意識を失います。この瞬間神は神に戻ります、人間ゲームに疲れた神は神に戻るのです。TVゲームは2時間ぐらいで疲れ果てプレイヤーは我に帰りますが、神は人間ゲームを15時間ぐらいして我に帰ります。そして人間8時間の睡眠の後また再び神は人間になり切ってゲームがスタートするのです。人間の記憶装置が機能して私は〇〇太郎であるという感覚が戻ることで意識ががっつりここに焦点が合わさるのです。人間になり切った神の完成です。朝は意識が朦朧としますが神意識から人間意識へのシフト期間です。マリオゲームスタート時にプレイヤーがジャンプ練習などをする期間です。

悩みが多すぎると、人間意識から神に戻れない

神は人間活動中にあまりに多くの悩みを抱えますと、意識が人間に集中し過ぎて神に戻れない状態になります。思考がグルグル回り過ぎて人間意識が解除されないのです。そんな時は人間はお酒などを飲んで脳を麻痺させて思考を強制遮断し人間意識から神に強制帰還させます。神にとって人間に意識を合わせている期間は居心地が悪く疲れます。全知全能の神が無知無能の人間になり切っているわけですから当然です。記憶を使い私は人間であるというストーリーに入り込み続けるのは、人間がゲームキャラに成り切る、映画の主人公に成り切るのと同じです。人間は2時間ぐらいでゲームも映画も疲れ果てて辞めます、それはそこに意識を合わせ続けるのはパワーが必要だからです。本当はゲームキャラでも映画主人公でもないからです。

マリオにとっての完璧とゲームとしての完璧は違う

マリオにとっての完璧は、、、

マリオにとって完璧なゲームとはクッパに勝った時に最大限の祝福を受け、ステージが上がるごとに見た目も精悍になっていき、服装もゴージャスに、豪勢な食事にありつけ、、ピーチ姫からの感謝も盛大に、、こんなことかもしれません。ですがゲームとしての完璧さは違います。マリオのレベルに完璧に合った敵が完璧なタイミンングで現れる、一面をクリアーすると二面は完璧な微差でレベルアップされている、低過ぎても高過ぎても駄目、ちょっとだけ難しくなっている、そこが完璧。マリオにとっての完璧とゲームの完成度の高さは全く違うのです。

この人間ゲームはもっと完璧

人間にとっての完璧は、、完璧な家に住み、完璧なパートナーがいて、完璧な仕事があり、完璧な子供が居る、完璧な友人がいて、完璧な週末を送る。。。ですがゲームとしての完璧さは全く違います。その人間のレベルにに完璧に合ったレベルの仕事、パートナー、環境、週末、、、ということになります。マリオがどう思うおうとゲームとは難し過ぎても簡単過ぎてもダメなのです。この人間ゲームも同じ簡単過ぎても難し過ぎてもダメ、、その人に絶妙に合った難易度になっている、これが完璧。人間制作のマリオですら、マリオを扱うプレイヤーレベルに完璧に合った進展をみせることができます。この神制作人間ゲームがそこを踏襲できないわけがない、、もしろもっと正確無比にそこは行われる、そう思った方が賢明です。

今自分に起こっている問題は完璧な難易度

スーパーマリオにチャレンジするプレイヤーは自身のレベルに合ったステージで思考錯誤するはずです。何かの間違いでいつの間にかクリアーしてしまった、、それがありません。初心者は一面、中堅者は4、5面、上級者は最終ステージでの試行錯誤が起こります。これは人間も同じその方が今思考錯誤しているステージこそが最適ステージということになります。この神制作人間ゲームをそのような視点で眺めますと試行錯誤の意味が変わってきて面白くなります。

これをマリオのゲームと捉えると完璧過ぎる

熱海駅に降りて沖縄に着くことがない、、、

これをマリオのゲームだと思って見てください。人間ゲームです、視界に広がる世界をゲームだと捉えるととんでもない事実が理解できます。通常人間が制作したゲームは欠陥だらけ、BGMがいきなり止まってしまったり、同じ人に何度も話しかけると全く同じ回答しかもらえなかったり、クッパはマリオが後方移っても振り返ることができない、、、ところがこの人間ゲームは恐ろしいほどにこの欠陥がないのです。熱海駅に降りたら沖縄だった、、さんまを食べたらカラスミの味がした、、こんな事故がゲーム上で起きないのです。もしもこれがゲームだとしたら完璧過ぎるのです。

ゲームにのめり込むのではなくこの完璧性にのめり込む

ゲーム上のクリボー、パタパタ、ノコノコ、クッパにのめり込んで戦うのではなく、、、この人間ゲームの完璧さにのめり込んでみてください。この緻密さに驚いてください、、、ヤクザに喧嘩を売ればしっかりと買ってくれる、、お店でお金を払わなければしっかりと通報してくれる、、、友人のLINEを無視し続ければしっかりと怒ってくれる、、歩きタバコをすればしっかりと嫌な顔をしてくれる、、、この完璧さです。このような完璧なゲームは人間が制作できるレベルを完全に超えています。

この人間ゲームが完璧過ぎて全員がゲームであることを忘れている

子供の頃はみんな知っていました、これがゲーム、夢であることを。ところがこのゲームが完璧過ぎて徐々に徐々にそれを忘れていく、、、記憶に過去の経験が積み重なっていくごとにこの自分がリアルすぎる存在になっていく。ゲームであるはずがない、、それほどまでに完璧なのです。人間が持つこの五感、思考、感情、、、そしてこの完璧な舞台、、、神は全員がこれをゲームであると忘れるほどの完成度でこのゲームを作り出しました。

自分が突然総理大臣に選ばれることがない、、、完璧

もしもこのゲームがポンコツゲームだったらこのブログを書いている私が突然総理大臣に選ばれるという奇跡が起こってもおかしくない、、ですがそれは絶対にない、あり得ない、、、これがこのゲームの完璧さの証明です。この私に突然長澤まさみから連絡が来て求婚されることが絶対にない、、これが完璧なのです。多くの方はこの現象をシビアと白けていきますがここがこのゲームの緻密さ、完璧さ、詰めの深さです。この視点でこのゲームを観察しますとこのゲームに対する全く違った感動が生まれます。

神の顕現が違う顕現になってどうする?

もう既にあなたは神の顕現

もしも今の自分自身が大嫌い、こんな自分など終わりにしたいと考えていても、それは神の顕現です。神の顕現にも関わらずこんな自分が嫌いと思っています。そしてその思考も神の顕現です。自分が新しい目標を持って違う自分になりたいと心から思うとして、、今の自分もそして違う自分も全て神のエネルギーです。形や姿は違えど構成物質は完璧に同じ神の顕現です。だからと言って目標を持つなと言いたいわけではありません、今も神の顕現で、なりたい自分も神の顕現であるという事実をお伝えしているだけです。

違う自分になるのも神の遊び

目標を持つことが悪いことではありません、それはそれで重要なことです。ですが目標を掲げる今の自分もなりたい将来の自分も構成物質は神であるというこの事実を理解する必要があります。今の自分も神、なりたい自分も神ならばそこに優劣は一切ないのです。ただ形を変えた神が存在するだけです。自分の不足感を解消してもそれが解決には至らないのは今既に神であるにも関わらず不足感を埋めてもやはり神なのです。神が不足感というやはり感情を感じている、その感情すらも神のエネルギーです。

神は不足感体験ゲームをしている

神が自我を作り出したのは不足感を体験するためです。ですから自我を維持した状態で違う自分を目指しても不足感を無くなることは絶対にありません。この自分も神の顕現ですから完璧です、ただしこの自分という自我のエネルギーは不足感を湧き出す仕組みを作り出すエネルギー(神)なのです。不足感すらも神のエネルギーです。神は自ら不足感を味わいたくて自我を作り出したのです。ですから人間(神)は常に違う人間(神)になろうとしますがそれで不足感(神)がなくなることはないからです。

この仕組みが理解できてくると、、、

この自我のメカニズムが理解できてきますと自分(神)は違う自分(神)になろうとするんではなく神そのものに帰還することに興味が湧いてきます。ゲームの途中でどうやらこれはクリアー(至福)はないなと分かってきますと急にやる気がなくなるのと同じです。自分ゲームには至福はないのです、なぜならば自分そのものが神であるにも関わらず不足感が湧いているというこの仕組みこそを解決しなけければ至福には至れないのは当然です。

記憶こそ大いなる勘違いの集積

自分と記憶はセット

人間の記憶とはなんでしょうか?人間の記憶とはこの体が経験したこれまでの集積ということになります。この体が経験した集積とは自分ストーリーそのものです。人間は歳を重ねるに従い自分という思考が強固になっていくのはこの記憶をベースにしているからです。あらゆる経験を重ねていけばいくほどに自分は何層にも重ねられていき大きくなっていくのです。またこの自分という存在に絶対的確信を持つようになります。それは記憶された経験があるからです。

自我形成に伴って分離感が増していく

自我形成、自分形成はこの脳の記憶がベースになっているのですが、それ自体には何の問題もありません、もしも問題があるとするならばそれに伴い分離した独立した自我、自分感が同時に増していくことです。分離感が強まれば強まるほどに自分を守らなくてはという思考、感情が湧き出しそれはこの人間の体を守るために大変有効です。ですがこれは同時に分離感、孤独感、不足感を湧き出させる原因にもなるのです。人間がどれほどの独立性を維持しようとも全部は神のエネルギーで形成されていますから神でなくなることは不可能です。ということは全体、神が、、、独立性だけが大きなった存在になってしまったということになります、全体の中で。最大の矛盾、パラドックスが生まれるのです。

人間とは「苦」である

こういうメカニズムから独立した、確固とした大人ほど苦しみが多いという悲惨な事実が生まれます。大人、自分として成熟すればするほどに分離感、孤独感、不足感が湧き上がっていくのです。このメカニズムを生み出したのは神、全体であり全ては神の遊びです。ですからこの事実は決して想定外ではありません、むしろこれを経験するために人間を生み出したのです。ですがこの事実を理解できる段階に至った人はもうこの苦しみから解放されてもいいかもしれません。人間ゲームを心底遊び倒し、辛酸を舐め尽くし、七転八倒し尽くしたならば次の段階にシフトする時期かもしれません。

問題を起こすのは常に自分だがそれを起こしているのは神

起きる出来事を自分ごととして問題化していく自分

朝起きた瞬間に人間の体の記憶装置が起動することで、この体は私で、〇〇という名前で、、職業は〇〇である、、、と自分人間が誕生します。これは全体、神が変化した状態、全体、神の中から浮かぶあがった状態です。この自分人間は記憶力を持つのでこの体に起きる経験を全て自分の経験として記憶していきます。そしてその経験に基づき思考が固まっていきそれも自分の価値観として所有していくのです。こうして自分劇場が全体、神の中で形成されていくのです。悟り系の書籍ではこの自我形成を悪の根源と称するものも多いですがこの自我形成の成分、エネルギーは神、全体という一つのエネルギーです。つまりこの自我形成は神、全体が起こしているのです。

自我形成はどこまで行っても神の遊び

この視界に広がる世界は色の世界です。神が色として表現している世界です、この色の世界において人間は独自の進化を重ね脳を所有するようになりました。これにより思考が生まれ、その思考が記憶されていくことで人間は自分というアイデアを創造するまでに至ったのです、神が作った色の世界に自分が誕生したのです。これは神の表現の進化でもあります。この自分を作り出しているのは間違いなく神です、神は神自身が作り出した世界に自分というアイデアを所有する生命体を作りだしたのです。その生命体は活動のほとんどを記憶して「我が人生」を誕生させました。そしてそこに起こる様々な体験を自分に起こったとしてさらに記憶するという流れです。

この現象界に神でないものは一つもない

この現象界で起こる出来事で神が起こしていないものは一つもありません、ヒトラーもスターリンも、プーチンも、世界中で非難の的になっている人物の活動、思考の全ては神のエネルギーです。本人は自分が考え出したものだと言い張るでしょうが、、、神でないエネルギーは皆無です。神でないエネルギー、思考、活動があるならば一体それは何か?ということです。神とは全体のことであり全体の中で繰り広げらえる出来事、人間の活動、思考、感情において全体のエネルギーでないものなどあろうはずがないのです。全出来事は神が創造したものです。

道を行き交う人々の全ての行動は神の顕現

ということは私が街を歩く時に行き交う人々、人々の会話、行動、全てが神の顕現ということになります。飲み屋で喧嘩をしてるお客さん同士は神の顕現の一つです。全部が神の遊び、表現です。その出来事を見て自分はあらゆる判断を下すでしょう、、ですがその判断すらも神の表現ということになります。神の表現ということはこの判断は自分の判断ではないのか?ということになりますが判断を下しているのが神としての自分ということです。街を歩いていて不平不満、愚痴が自身の中から湧き上がったとしてもそれは神の顕現なのです。神が不平不満や愚痴などこぼすわけがないとあなたは思うでしょう。ですが神は愚痴や不平不満を吐きたくて人間を進化させたのです。

深い眠りから目覚めた時は体の疲労回復以外の何かが起こっていることを知っている

深い眠りとは人間から神に戻っている

深い眠りを侮ってはいけません。深い眠りとは人間に扮している神が神に戻っている時なのです。だからこそ熟睡時から目覚めた時はとんでもない充実感、安堵を感じるはずです。あの安堵感をお金で払って手に入れることはできません。人間としての活動であの境地の安堵を経験できないのです。あの安堵は人間を同一視する状態から外れた神の状態です。熟睡の安堵とは神そのものの安堵です。

人間は毎日神を思い出している

人間の熟睡とは神への帰還です。人間扮する神が神に帰還している状態、それが熟睡です。主体客体の世界、人間が何かを得たり、達成したり、日々のストレス解消では絶対に得ることができない境地です。それが熟睡、神、ワンネスです。そしてその神が朝目覚めて起床すると人間に戻ります、人間の記憶装置が稼働して我は人間あり、我は〇〇何べいである、、我は会社員である、我は長男である、、、と記憶が蘇り自分劇場がまたスタートするのです。そして神は今日も人間に成り切って生活をスタートします。マリオをスタートする人間と全く同じメカニズムです。

熟睡とは記憶装置をオフにすること

熟睡時の特徴とは記憶にないことです。何時間熟睡したという感覚は寝起きにないはずです。つまり記憶が働いていないのです。人間は記憶がなければ自身の存在を維持できないもの、その記憶をオフにすることで神に戻ります。人間は起きている間でもこの状態に近づくことができます。何かに没頭する時に実は記憶機能がオフになっています。自分の存在を忘れます、無我、無心の状態とは記憶がオフになっている状態でもあります。この時人は神に戻ります、自分の存在を忘れています。人間扮する神が扮していない状態です。

映画に夢中になれなくなる時期

映画はフィクションだから夢中になれなくていい

私は学生時代に毎週1本の映画を見続けました。恐らく社会人になる前に何百本の映画を見続けたと思います。映画から学べたことは半端なく多く海外の人々の人生観、人生を映画を通じて学びました。それはもう食い入るように観たのはこの我が人生をこれからどうしたらいいか?という漠然とした不安からでした。だからこそ自分とは違う境遇の人が味わう経験をモノにしたかったのです。ところがです、、、何百本の映画を観倒しても全答えが見つからない、、、

社会人になって本気で人生に悩み始めた、、、

社会人になって本気になって人生について悩み始めました。今やっている仕事をどうしても好きになれなかったからです。かと言って他に夢中になれそうな仕事もない、、学生時代の何百本の映画はこの悩みには一切答えてくれませんでした。とにかく本気になってこの悩みに悩みきった時に精神世界の書籍が湯水のように体に染み込んできました。そこには夢のような内容が書かれていて私の悩みを一時的に拭ってくれたのです。引き寄せの法則、正負の法則、運気の法則、カルマの法則、波動の法則などなど、、、私はこれらの理論にすがり結果その当時の悩みを解決できました。

その後映画に夢中になれない

自分の人生がエキサイティングになっていき、映画以上の波乱万丈を味わうようになってくるともう映画を楽しめません。映画とは退屈な人生におけるスパイスなのだと実感しました。もしも自身の人生がエキサイティングならば映画を観たいなど思わないということを知りました。結論を言ってしまえばこの人生もフィクションです、神が、全体がこの体になり切るというフィクション映画です、もしもこの映画に没入できるとその中でさらにフィクションを見たいという欲求が減るのは納得できます。

自分という記憶をしっかりと持ちながらこの世のカラクリを解明する

悟とは子供に戻ることではない

悟るとは、ただ子供に戻ることではありません。しっかりとした自分という記憶を所有しながらこの世のカラクリを理解することです。マリオに成り切ってクタクタに疲れたプレイヤーが実は俺はマリオではなくプレイヤーだったと気づくことです。その時にマリオになり切っていた記憶はあります。マリオになり切ってこんなこともあんなこともやったなと。。はっきりと記憶しています。ですがもう自分の存在はマリオではないという気づきが完璧にあります。これが悟りです。

人間も全く同じ、、、自分は人間ではない、、

この身体の中の自分も全くこれと同じです、この身体の中に自分が居るという自分劇場のことははっきりと覚えています。幼少期はこんな子供で、中学時代はあんな苦労を自分はし、大人になってからは七転八倒だった自分、、、ですがそれは神の思い込み、全体の思い込みであるという完全な気づきです。この体が経験することすべてを自分が所有し記憶し、それによってこの体人生が始まります。この体をより逞しく生きながらえるために思考が湧きそれも自分のものにしていきます。寂しい、嬉しい、楽しい、辛い、、あらゆる感情も自動反応で湧いてきますがそれも自分のモノとしていくことでこの体人生、自分劇場は続いていきます。

自分ごと捉えてきた人生から、、自分ごとと捉えさせられてきたという気づき

この世には完全に独立したこの体、自分が存在していてこの体、自分が生き抜いて行く道こそが我が人生。これがこの世に住んでいる人々の共通認識ですが、、、これはマリオをプレイするプレイヤー同様に、人間をプレイする神によって作られた人間物語です。人間物語は確実に経験できますが、、この物語の中に何も知らずに居続けるのは実は大変。どこかでこのカラクリに気づきプレイヤーに戻るのもいいかもしれません。