勘違い波野郎の暴走

勘違い波野郎は常に苦しい

勘違い波野郎は常に苦しみます、勘違いしてますからその存在自体が無理があるのです、無理があるのはストレスになります。波が起き上がり波が海面を動いている時に他の波から様々な声かけを受けることでこの波は海とは異なり独立していてこの波の中には自分が居るという勘違いが起きたのです。これはどこまでいっても勘違いですから苦しいのです、なぜ苦しいのか???この波の動きは海の動きに左右されており、、波独自の自由意志など全く関係なく動くからです。にも関わらず波は独立していると勘違いしていますから自由意志で自由に動けると思い続けるということです。

俳優がロックスターを演じ続ける苦しさ

ある俳優がロックスターを演じます、、演じるにはパワーが必要です、なぜならば本当は違うからです。これは海も同じ、本当は海だから波を演じると疲れるのです。だから人間には睡眠が必要になるのです。眠りに落ちるのはなぜか???それは人間としての個人を生きるのに疲れるからです。本当は人間でもないし個人でもないのです。

それでも勘違いは続く

周囲の波の影響で新しく生まれた波は自我を芽生えさせていきます、つまり周囲の影響が自我育成の大きな要因なのです。ですからこの自我は嘘なのでは??と気づき始めても周囲は自我全開で活動していますからこの嘘を完全に見破るのは大変なのです。ですが逆手にとって自我の存在の傾向を研究していきます、どのように自我が働きその人を操っているかを見定めていくのです。

海になった時に迷える波を救おうと思うのか???

波の活動は完全完璧

海の立場になった時、波の活動は完全完璧であったことが分かります。海にとって波は自身の一部であり、、その波が波活動をしていたとしてもその活動が海の本意とは異なることはありえないのです。なぜならば海が関与できない、海がコントロールできない波は存在しえないからです。海にとって波は完全完璧な活動でしかないのです。俺は波だと言い張る輩が現れたとてそれも海の表現でしかないのです。海の見ていない隙に勝手なことしやがってあの波め!!はないのです。

不良の波は存在しない

どのような波も完璧な海の表現です、波がどのような思考、感情を持とうとも、、それも完璧な表現です。海は最初から完璧な海でありこれ以上進化向上などする必要がないのですから波も同様に完全完璧なのです。ただ波としての活動が始まり海としては経験できない無限の経験を積んでいるだけなのです。どのような経験も海としてはできない経験であり全て完璧なのです。

禁止事項があるならば最初からやらせない

波としてこれだけはやっちゃいけない、これをやったらお終いよ、、、そんものはないのです。海は海として経験できないことを全部経験したいのです勘違い波野郎としてなんでも経験したい、、それが海の本望です。勘違い波野郎としての全部の勘違いを経験したいわけです。勘違い波野郎が実は海だったと気づくまでこの流れはエンドレスに続くのです。

波が努力して海になるということはない

波が海になるために努力は必要か?

波が実は海だったという気づきを得るのに波としての努力は必要でしょうか???もしも努力が必要だとしたら波ではないという事実を理解することだけです。波が海になるために進化向上が必要だとしたらそれはなんでしょうか???もしもあるとすれば波ではないことを理解するための素地を作ることかもしれません。もしくは波を維持するための強固なエネルギーの壁を柔軟にすることぐらいでしょうか。

頑張って頑張って海になる???

波として精進しいつか海になりたいと思います、この表現は滑稽です、、そもそもが海そのもので勘違いで波活動をしているのですからその勘違いを明晰にすれば良いだけです。波活動が勘違いであることを証明するためには湧いてくる思考のこと、自由意志のこと、自我の仕組み、これらを理解していく必要があります。勘違いというのは真実を知ることで解決するのです。真実を知ればなぜ誤解が解けるのか???それは誤解を解くのが真実そのものだからです。

自分(波)は真実なんて勘弁してほしい

自分(波)は真実なんて勘弁してほしいのです、なぜならば自分(波)が消えてなくなってしまうことを知っているからです。自分(波)を消すために活動するなどこれはもう自殺行為ですから積極的にやるわけがないのです。つまり自分(波)にとっては暴挙、テロ行為、自傷行為のようなものです。ですが散々波活動を通じてそれでは救われないことに気付いていれば海であるという実感が蘇ってきているのでそれらの活動が阻止されない可能性があるのです。

波が実は海だったという気づきは経験なのか?

最後の気づきは経験ではない

波としての人間活動が続きあらゆる経験を積んでいきます、最初は経済的欲求を求めていく、次に精神的欲求を求めていく、、、それでも全く満たされない。なぜならば自分を波だと思っているから、そしてこの波の中に自分という存在が居ると勘違いをしているから。この勘違いが苦しみを生み出しているのですから波としての波活動は全く報われないわけです。ですがその本質が分かり本当は自分は波ではないんではないか???そしてこの波の中に居ることになっている自分はフェイクなんではないか???という疑問が起き始めます、なぜ起きるのか??それは本質は海だからです、当然なのです。そうだ海だ、、は波の状態での気づきです、波が海そのものになるときにそれを経験する自我がもういない、、自我こそが波を維持してきたわけですから。この経験、波から海へのシフトは経験とはいえません。

主語が変わってしまう

波だと思っていたら実は海だった、、波を取り巻く環境の全てが自分だった、、、これは経験とは呼べないような経験でしょう。この経験とは呼べない経験が波の最終目標です、波の最終地点です。波は自由意志で動き回っていたと思っていたら実はその自由意志と呼ばれるような思考は海としてのものだった、だから時に全く上手くいかず時には上手くいくというシステム。思考は海からガンガン起こり、この波が自分だという思考もやはり起きる。そして同時に常に閉塞感、違和感、孤独感が起き上がります、海から。

孤独感が起きるのがおかしいのだ

簡単にお伝えすれば波として完全分離しているならば孤独感が起きるっておかしいのです。完全分離したらその状態がパーフェクトなのだから「足りない」という感情、「寂しい」という感情が起きるわけはないのです。つまり孤独感こそがこの波が自分という思い込みが真実ではないことを教えてくれているのです。私は波として完全独立しているという思い込みこそが孤独感を生み出す最大原因なのです。

不快感が生まれることがおかしいのだ

もっとこういう生活がしたい、できればお金が欲しい、できれば高級車が欲しい、できれば別荘が欲しい、できれば有名人になりたい、できればインフルエンサーになりたい、できれば人気者になりたい、、、全部全部波だからこその願いです。波が波として完全独立したらこの世界は完璧の鏡ですから欲求不満なんど起きえないのです。波という状態、そして波が独立しているという思考が真実は異なっているからブザーが鳴り続けているのです。それが不快感です。

波が浜辺で消滅した時に大海に戻る体験をする

波(個人意識)は消滅し、大海(真我)を知る

波(個人)はこの体の死を体験する時に大海(真我)に戻る体験を積みます、、、これが悟りです、、実は波ではなく大海だったという気づきです。波ではなく思考ですから、、、ただ大海である状態を知ります。個人は言葉が作ったイメージ、概念、思考ですから、、これが幻想であることを腹の底から理解しますと大海(真我)だったという気づきの体験が起きます。

究極の体験

我々(波)においての究極の経験こそが大海だったという気づきです。この気づきが起きることが悟りです、、ということでこれを完全に理解してしまいます、、自我形成(波)のプロセス、波と大海の違い、、自我(波)の動きの特徴、、波物語のカラクリ、、波としての経験が観念を作りそれが体験する世界を作り出す、、分離の世界の構築方法、、

確かに私は海だ!

知識の上での、、私は海だ!!という理解は重要になります、、なぜならば我々は腹落ちした感覚を体感するように設定されているからです、、、私は被害者だ、、これを完璧な感覚で信じていると、、被害者を経験します。。私はラッキーだ、、これを完璧な感覚で確信していますと、、これを体感します。。私は海そのもの、真我、、これを完璧な感覚で理解が起きますと、、それを体感する経験が起きます。

プールで泳いでいたらいつの間にか海にいた

この脳内映像は完璧過ぎる

スーパーマリオなど三十年前のゲームは詰めが甘く至る所で完成度が低い、穴に落ちて死ぬはずが落ちても死なない、、クッパが同じ動きしかできない、、画面端ではマリオが映らなくなる、、などなどあってはいけないミスが多いのです。ところがこの自分ゲームではそんなミスは一切起きない、、、友人Aと遊んでいたらいつの間にかBに変わっていた、、、プールで遊んでいたら海になっていた、、山を登っていたら家に戻っていた、、こういったミスが起きないのです。この完成度の高さこそがこのゲームの醍醐味、感動です。

当たり前過ぎて誰も感動していない

このゲームの完成度は高過ぎて誰もそれに感動ができなくなっている、これが人間が不幸になるポイントです。それゆえ目標や夢を追い求め刺激から幸福になろうとするのです、ですがこれは邪道、見当違いです。ゲームの完成度に浸ることこそがこのゲーム最大の至福なのです。お金持ちになったらちゃんとタワマンに住める、貧乏になったらちゃんと取り立て屋が来る、、、この寸分狂わないゲームの完成度こそが醍醐味なのです。しかもこの映像は全て感知する体抜きには成り立たないのです。

五感が無ければこのゲームは消滅する

あなたの五感が無ければポルシェの色は消滅します、あなたの嗅覚が無ければ松茸の香りはこの世から消滅します、あなたの触覚が無ければこの世から高級皮のソファーの手触りは消滅します。五感がこの世界を作り出しているのであって体験そのものはどこにも落ちていないのです。全ての体験を作り出すこの五感こそが素晴らしいのであってポルシェの乗り心地も、高級ワインの味も、高級ソファーの手触りも全て人間の五感に依存しているのです。

海と小波の関係

波は神の人間体験

波は神の人間体験です、波は海の一部です、これが神です。波は独自の意識を獲得し日々波として生きています。ですが本当は全部海からのうねりです、思考も感情も行動も海からのうねりですが、、波は独自の意識を獲得したと錯覚し日々波体験を行います。波体験は如何せんサイズが小さい故に困難を伴います、ですがサイズが小さいからこそ自由気ままにこの大海を動き回れるという特典が付きます。小さいからこそこの小さい立場での視点で大海を遊び尽くせるわけです。魚と一緒に動き回ったり、太平洋から大西洋に移動してみたり、北極付近に遠征したりです。

波はあらゆる体験を積み最終的に大海に吸収される

波はあらゆる体験を繰り返し多くの経験を積みました、波としての成功体験失敗体験を積み重ねていきました。あらゆる欲求を満たしていき最終的に気づきます、「自分」って本当は誰なんだろう???これが波の究極の質問です。波としてこれまで生きてきたが、、本当に波は波なのだろうかと、、、その時ふと自身が実は海であったことを思い出します。散々動き回ってきたこのフィールドこそが自身であったという気づきが訪れます。

波になる前は海だった

波の経験の前に海の経験がある

海であることを忘れた波はあらゆる経験を重ねますが、波は元々海です。海としての経験を積んでいました、そこから突然波の経験が加わりました。もともとは海の経験のみです、そして海でありながら波であるという経験が後付けで追加されたのです。これは大変重要なポイントです、波の経験とは後付けなのです。だからこそ波が何かに集中することで波であることを忘れた瞬間に海の経験が湧き出してくるのです。海の中に魚の動き、潮の流れ、竜巻、海で起こる全てがそのまま経験として認知されます、他人が他人事に見えないのです。全てが海として認識されていきます。

音楽が流れれば音楽になり、風が吹けば風になる、、、、

人間あることは波であることと同じです、人間でないとき全体だけがあります、波でないとき海しかありません。人間は何かに集中し自分が人間であることを忘れると全体になっています、波は何かに集中し波であることを忘れると海になっています。風が吹けば風をそのまま感じ、音楽が流れればそのまま音楽を感じます、そこに人間は必要ないのです。波である時は魚が飛べば波視点でそれを確認します、上空に鳥が飛べば波視点でそれを確認します。ですが波が何かに集中し波であることを忘れるとき海がそのまま魚、鳥に気づきます。人間視点、波視点はあくまで後付け視点です、我々人間はこの後付け視点で日々生きているだけです。

人間としての後付け視点が消え去ると全体視点だけがある

人間が何かに没頭し我を忘れると、、人間視点が消え去ります。その時全体視点が湧き出てきます。音楽が音楽のまま認識されます、人が人のまま認識されます、花は花のまま認識されます、ゴッホやラッセン、モーツアルト、ベートーベン、などの偉人とは人間視点を放棄して全体視点でモノを音をそのまま認識していたと思います。それをただこの体が描いただけ、楽譜に刻んだだけ。ですからそこには人間としての損得、勝敗、感情の全てが抜け落ちています。

気づきの意識にとってクッパもマリオも同列

マリオは勿論主人公だが、、、

スーパーマリオをプレイするプレイヤーにとってマリオも、クッパも、ピーチ姫も、クリボウも同列で重要です。マリオだけが重要でクッパは必要ない、クッパは必要だがクリボーはいらない、、、とはなりません。ゲーム上のキャラはどれも重要であり重要でもない、、、少なくとも優劣が存在しません。マリオが大好きだと言っても敵キャラが出現しなければ何も面白くないのでマリオも同時に要らなくなります。スーパーマリオをプレイする人にとって全キャラが大切ということ、それだけ。この人間自分ゲームも全く同じで出てくる登場人物無くしてこのゲームは成り立たないものです、色々な人間との出会いがあるから面白い、、生涯一人しか友人が居なければつまらない、、、この自分とされる人間も大切だが同列で出会う人々も大切です。

何かを経験すれば全部この体の中に居る自分が経験したと取り込む

旅行に行きます、、旅行に行けば全部この体の中に居る自分がそれを経験したと取り込むのがこの体の中に居る自分です。飛行機に乗った、旅先のホテルに泊まった、海にいってビーチを楽しんだ、美味しい料理を食べた、、、全部この体の中に居る自分が経験したと取り込んでいます。本当は全部それを気づきの意識が認識しただけです。全体がそれを経験しました。この体を使って旅行という経験を全体、気づきの意識がしました。全体、気づきの意識にとってはこの体も旅行先のホテルマン、現地人、全員が同列です。同価値です。

ピンチの時こそそれをこの体の中の自分が取り込もうとする

道で赤の他人から暴力を振るわれた、、、、体には傷が付き、服は引き裂かれ、バッグからはお金を取られる、、、こんな時体は自分の中の自分を発動させ、、、なぜ自分がこんな目に遭うのか?なぜこんな悲劇を私が背負ったのか?なぜ自分が狙われたのか???と体の中の自分がこの事件を取り込もうとします。ですが真実を話せば気づきの意識がそれらをただ経験しただけです、この体が傷つけられ、この体が纏う服が引き裂かれ、この体が所有するお金が盗まれた、、、これを気づきの意識が経験した、、、、となります。本当にこの事実を認識すると「なぜ自分ばかりが狙われるのか?なぜこんな不幸な目に?何かわることを普段しているからか?」という思考のループが湧かなくなります。

自分が全体を隠すメカニズム

自分とは全体からの分離錯覚状態

自分とは全体から分離できたのではありません。分離していると錯覚できた状態のことです。あくまで錯覚ですから実際には自分は全体から分離できません。全体から分離していると錯覚しているだけです。ここ最重要です。本当に全体から分離できたならばもう全体に戻りたいという衝動は生まれませんし不足感も分離感もないはずです。一つの完成したものですから。ですが自分は実際には分離できません、なぜならば全体は一つのエネルギーであり分離できないからです。あくまでも分離した存在があると錯覚している状態、これが自分、人間です。

自分とは分離したという錯覚のこと

神はいつでもあなたを見捨てはしない、、、これは当然のことです、なぜならば「あなた」という独立した存在はなく、独立しているという錯覚がそこにあるだけだからです。つまり一度もあなたは神でなかったことなどないのです。神から独立したと錯覚をしていただけです。神があなたを見捨てないどころかあなたは実在していないということになります。だからこそ見捨てることなどできません。

自分錯覚ゲームに疲れたら

全体から分離できたと錯覚することの成功した自分はこの体の中に自分が居ると信じ行動します。朝は山に行きキノコをとり、昼は海に行って魚を釣る、夜は自分の寝床に戻って獣に襲われないような場所で休む、、、こうしてこの体を安全に確実に生存させる方法を取得しました。それが現在のこの文明の土台になります。ですがこの分離錯覚には問題点があります、それは分離感、孤独感、欠乏感を伴うということです。全体がこんな小さな体を全てだと勘違いするわけですから欠乏感は半端ないモノがあります。ということでこの欠乏感解消のために分離錯覚した自分は常に次のモノ、ヒトを追い求める旅を続けることになるのです。もしもこの欠乏感に疲れてしまったらこの事実を思い出す他ありません。