映画

神よなぜ????

パンではなく暴力が、、、

神父さんは神に尋ねます????神よなぜ、、この世界では争いが無くなることはないのか???なぜパンではなく暴力が蔓延しているのか???教えてください。答えを教えましょう、、、この世界は夢です、、あなたが一番恐れていることが現象化し夢化ししっかりと起こるのです。あなたの思考、観念がしっかりと現実化する、、これこそが神の力だと。

現実(現象化)を見て狼狽えるな

現実、現象、この夢に狼狽えるのは滑稽なことです、、、、これは夢ですから、、狼狽えれば狼狽えるほどに、、、恐れる現実は現実化するでしょう、夢化するでしょう。何が起きようと、、、これって夢だよね!!!これって私の観念が現実化(夢化)したものだよね!!!!という気づきがあれば狼狽えることはないでしょう。

現象と友達になる

ボールは友達、、キャプテン翼くんじゃないですが、、現象は友達、、これが悟りの本質です。現象を恐れるのではなく、、、現象は鏡、観念、友達です。忠実に観念を映し出してくれる完璧な映画です。この完璧さ、この完成度の高さに驚嘆してください。この気づきはあなたの人生を180度変えてしまう力があります、本当の気づきは人生を爆破する力を持っているんです。

究極のリラックスがもたらすもの

これが夢だと分かると

この現実が夢だって気づきが起きた時に、、この夢の中で何が起きるでしょうか????この現実が現実だって信じている時は緊張感があるんです。ですがコレが夢だって気づいたら、、リラックスが起きる。だって夢って分かった状態で逆に緊張するって難しくないですか????どうやったら緊張でます????夢って分かった夢の中で。

この究極のリラックスが、、、

この究極のリラックスこそが、、、この夢に遊びを作ります、、この夢に潤いを与えます、、この夢に温かさを与えるのです。街を歩く時に、、景色が綺麗です、、鳥の鳴き声に感動を覚えます、、全てに神々しさを感じることができます。夢だと分かった夢ってとにかく軽いんです、、この軽さはどこから来るのか???自我からはきませんよ、、、この軽さこそが本質、真我の軽さです。至福とは究極の軽さのことです。

ただもう緊張を味わえない

なぜアクション映画を見たいのか???なぜ任侠映画を見たいのか????それは緊張したいのです、ハラハラしたいのです。。。ですがこれが夢だと分かってしまったら、、もうハラハラができない、、そうです、、ハラハラしたければこれが夢だとバレちゃまずいのです。だからこのメッセージは万人受けしない、、このメッセージを聞いてはいけない人がたくさん居るんです。もうハラハラは十分、もう緊張は十分、もう七転八倒は十分と、、、本質から溢れてきた時に、、このメッセージが届きます。

陰謀論

陰謀論好きの行く末

陰謀論好きの人々は、、、最終的にどうなるか???恐らく第三次世界大戦に巻き込まれ、大地震が地球を襲い、宇宙人が侵略してきて、、地底人も侵略してくる、、、太陽が爆発し、、、となっていきます。なぜか???それはこれが夢だからです。。。宇宙人も地底人も知らない子供の人生にこれらが現れることは絶対に絶対にないのです、なぜか???知らないのならば登場しようがない、、夢で。

陰謀論は悪趣味な夢

SF大好きな人にとっては陰謀論は最高のオカズでしょう。だから今もしあなたの人生が波乱に満ちているならばそれらの情報をシャットアウトすればいいのです。それだけで人生(夢)から災難が消えていきます。アクション映画、ヤクザ映画、マフィア映画が好きな人も要注意、それらの人の人生(夢)に危ない人が登場する可能性が増えていきます。

分かっちゃえば簡単

これが夢だと分かれば簡単、、なぜならば毎晩見る夢ってどんな展開で進むかみんな知っています。だからそれをこの現実と呼ばれる夢でも応用するんです、、もしくはこの今展開されている夢こそがあなたの観念を映し出す鏡だと言うこと、、観念が見事に映像化されているのです。観念を常に観察し、、そうか自分の観念ってこんななんだと理解します。

観念地獄から出る

コレは夢です、、夢では自身の観念が常に常に投影されます。古い観念が捨て去られても新しい観念に囲まれる。。そうです、、我々は自身の観念からは脱却できないのです。。。。ですが唯一この観念から脱却する方法があるとすれば、、それは、、これが夢だと確信することです。夢だと分かればこの現実、現象は観念でしかなく、、観念であることが分かりますと、、、、書き換えれることも分かる。そして書き換えれることができるならば捨て去ることもできる。となるんです。観念とは所詮は思い込みであって真実ではないんです、真実が分かれば観念(思い込み)は消えます。

無我夢中の時に消える自分は実在しない

この体は常にあるが

この体は常にありますが、、、何かに無我夢中になる時、、自分の存在を忘れている時ってあります。あれ完全に無我夢中になっていた、、、自分ってそんな簡単に消せるんですか????という話です。もしも消せるならば、、自我は実在しないことになります。では自我はいったい何なのか????それは思考です。時に現れ時に無くなるのであれば思考でしかない。つまり自分なんていうものはやはり実在しないのです。

全思考はノーコントロール

そうだ!りんごを食べようと、、思考する時に、、、、その思考を自分が作り出したという自負はあるでしょうか????恐らく全くないはずです、、、なぜならばりんご食べよう!!!は勝手に湧いてきたに決まっているからです。例えば今日1日おいて思考する内容を最初に決めよう!はできないはず。今日は映画のことだけを考えよう!そう決めたとして、、数十秒後には、、お昼ごはんのことを考えるかもしれない、仕事のことを考えるかもしれない、、、つまり全くのノーコントロールなのです。

自分も思考でしかなく、、思考の内容はノーコントロール

これが真実です、、自分も思考、そして思考の内容は完全にノーコントロール、、、そして友人の中の自我も思考、そして友人の思考も勿論ノーコントロール、、、ノーコントロールな思考だけが行動だけが飛び交うのが人間社会です。そしてそれに気づきが起き続ける、、、それらの思考、行動に気づき続ける存在、、それを真我、気づきの意識と読んだりします。

思考分析を続けると、、、在るのは、、真我、気づきの意織

思考分析を継続していきますと、、、確実に存在するのは、、真我、気づきの意織だけです。ノーコントロールな思考、行動、あらゆる現象に気づき続ける存在、、この体の中に自我が実在しないとなると、、、それは真我、気づきの意識であると逆算されていきます。そうです私たち(思考)は真我、気づきの意識のことを「私」と呼んできたのでした。

あらゆるノンデュアリティスピーカーが必要な理由

エゴは最短距離では解体されない

エゴ、自我は、、、最短距離では解体されません。そんなに甘くはない、、何年もかけて育てあげた自我が簡単に消え去ってしまうほど甘くはないのです。そこで大切になるのが各スピーカーの方々です。あらゆる角度から真実を説いてくれます。経験しかないですよね!!と担当直入に説明する方、、ストーリーの方向から自我に完全に寄り添って説明してくれる人、、スピリチュアルな分野から、、悟りに導く方、自我の特性を詳細に描き自我を俯瞰していく方、エネルギーワークから解放に導く方、、、あげればキリがありません。なぜか???それはこの世界があるがまま、無限の存在の表現の場所だからです。

真実ほど面白いことはない

私は真実がどうなっているのかを探求するのが大好きです。真実ってどんな映画、アニメ、SFよりも面白いのです。人間はこの真実を知らずに自分たちが信じていることに振り回されて生きています、勘違いしながら生きているんです、これって最高に面白いコントです。勘違いは時に生命を落とすほどの悲劇まで作るのですから作り物の映画よりはるかに面白い、リアリティーショーです。

このリアル映画を解明したい

釈迦が伝えるメッセージを本屋で立ち読みした時に私はようやく辿り着いたと確信をえました、幼少期からなんとなく疑問に思っていたことが氷解したのです、、これだ!!!と確信しました。私ではない何かがこれだ!!と叫んだのです。そこから既に20年の歳月が流れています。今も私は私というストーリーを毎日歩んでいますがその当時のような重いストーリーでは全くなくなっている、この事実が真実への探求を起こし続けます。

脳が無限の表現を可能にした

脳はなぜあらゆることを想像できるのか????

脳はなぜファンタジーを想像できるのか????100年後の地球、宇宙人の生態、スターウォーズのような映画、、、人間の想像力は無限です、本当に無限のように湧いています。なぜでしょうか???何がそれを可能にするのでしょうか????それはこの世界は無限の鏡、あるがままの鏡だからです。「無限」MAKEユニバースです。もしくは無限ISユニバースです。ですからこの宇宙ではどのようなファンタジーも脳内で表現できるのです。

いや所詮は脳内ですよね????

脳内の話であって実際には起きえないじゃないですか、、脳内のビジョンであって現実ではないですよね????では脳内に現実では起きえないようなビジョンがなぜ人間の脳には湧くのでしょうか???見たことがないような世界をなぜイメージできるのか???人間の脳は。それだけでも凄いのです。そしてもっともっと言えば脳は幻想であって実在しません、、本当はただビジョンだけが起きたのです。

本当は脳はなく、、ただビジョンだけが起きた

脳は実在しません、幻想、3D映像です。つまりビジョンはただ起きたのです、、、凄いことです、、ただビジョンが湧き起きたのです。では今見ている景色と想像のビジョンは何がいったい違うのか????実は何も違いはないのです、、現実と呼ばれる世界のビジョンも、、空想のビジョンも見るという経験でしかないのです、同じ経験です。現実のビジョンは触ることができる、、、、そうです、、触るという経験が起きます、それだけ。

ところが

本当の本当のことを言えば、、我々は空想のビジョンの中で、、、ラーメンの香りを嗅ぐという経験、味わうという経験、、コシを楽しむという経験、、、器を持ち上げるという経験をどこまでも緻密にできます。つまり現実と呼ばれる世界で起きることと、、想像のビジョンで起きることは同じなのです。

無限の経験を積む場所

この現実世界も空想の世界も経験というものを積むことができる無限の場所なのです。無限の経験を積める無限の楽園です。私という思考をぶち上げ、、その私がいる人生というストーリー、ファンタジーをぶち上げ、、その人生を楽しむというファンタジーをぶち上げています、、、まさに無限のための無限による無限の表現(経験)です。我々の本質は無限(あるがまま)なのです。

素晴らしい人生?

人生がなかった!?

私の人生は良い人生だった、、誰でもそう感じて寿命を迎えたいものです、ですが実際には人生ってないんです。人生が存在するためには人生を歩む自我が必要になるんですがそれは実際にはありません、空想、妄想、幻想としては100%存在します。思考としては100パーセント存在するのが自我です。ですが真実においてはないのです、そんなエネルギーは存在しないんです、なぜならば世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

コーヒーカップも、時計も、自我も存在しない

コーヒカップという独立分離した存在は本当はないことを皆知ってますよね、、だって元々は陶器であり陶器の原料は土です、そして土の原料は火山灰だったりします。ですから無いんです、本当はそんなもの。時計も金属の集合体、金属は元々岩の中の材料でしかない、、だから時計なんてものは存在しません。つまりこの世界に独立した何かなどないんです。自我とはこの体の中にあるとされる想像物です、ないんです本当は。

だから人生はない

コーヒカップの人生、、、これはディズニー映画の話です。時計の人生、、これもアニメーションの話です。この体の人生、これもアニメーションの話なのです。コーヒカップの中に間違いなく思考を操る存在が居るはんずだ、、、となってもコーヒーカップ自体が本当は土の塊でしかないのでそれはファンタジーです。人間の体という本来は全く独立していない存在の中に思考が湧き出しこの中に自由意志が居るはずだというファンタジーを作り出したのです。

人生がないとして

人生がないなんてなんて空いんだ、、だとしたら何のために生きるのか????違うんです、、人生がないことが分かってしまったらこのような質問は出るはずがないのです。究極の至福からこのような質問は出てこないのです。空しさを作り出している自我が、、この質問を投げることで生存を図っているのです。我々は何も考えず真実に触れていけばいいのです、するとどこかで真実が思考のファンタジーを再吸収します。

お互いが目覚めるために存在する

幻想の意味

真実はたった一つです、この真実にたどり着くために全幻想が存在します、、苦手な相手、結婚相手、友人、子供、親、、、全ての幻想がこの真実に導くために存在しているのです。ですから人間関係は常に苦しみが伴うのです、悟りが開かれる、目覚めが起きるまでこれはエンドレスに続くのです。マトリックスの映画に出てくるエージェントスミスはまさにこの役、主人公のネオが覚醒するまで誕生し続けていきます。つまりエージェントスミスは覚醒の最大の味方でもあるのです。

悟りが開かれるまで、、

この苦しみは、、悟りが開かれるまでエンドレスに続きます、成功を治めても、大金を得ても、名声を得ても、安定を得ても、、、確実に苦しみが終わることがないのです。それは大いなる勘違いをしているがためにです。大いなる勘違いはこの幻想の世界で食べていくには有利ですが同時に苦しみを生み出すのです。ということでこの苦しみを解消するには悟る以外にないのです。

悟りに興味が出たら

悟りに興味が出始めたならばそれは大きなチャンスです、、仕事、友人関係、などの物質的、精神的満足を追いかけても一切幸福になれないことに気づけたならば、、、本気で悟りに意識が向かうことになります。ですがこれは誰しもに起こることでは絶対になくだからこそこれはチャンスなのです。そしてそうなったらこっちのもの、仕事、友人関係、地位や名声などのために頑張るなど辞めてしまってただひたすらに悟りを追い求めます。そして追い求める存在自体が実は存在していないという気づきが起こるまでこれを続けます。

自我OSを必要としない体

守るために、、

この体を守るために、、形成された自我OSですが、、、これに頼り切った状態は基本苦しい、、、、体を守ることはできますが、、、、虚しさ、退屈に、、、常に襲われます、、、、なぜか?????この世界の真実を知らないために、、、全くの勘違い生活をしているからです、、、、、この体があって、、その中に自分が居て、、、この世界を生き延びる、、、、というのは勘違いです、、、ですから目指す先にある幸福が、、、全く違う場所にあるのです、、、、

空を見る

空を見る、、この一瞬の体験を、、、、最高に感じるか、、退屈に感じるか、、、ここが全てです、、、幼少期は、、、、空を見るだけで楽しかった、、、、、ですが今は退屈、、、なぜ??????なぜか?????五感が閉じているからです、、、五感が閉じれば、、、、体験が薄くなるのです、、、、唯一の真実、、、体感に、、、、思考が混ざり込み、、、、ありのままの真実に触れられなくなっています。

思考が混ざる????

思考が混ざるとは???つまりこうです、、、、、、考えながら、、、、カレーを食べると、、、、味がしない、、、考えながら、、映画を見ても、、、集中できない、、、、、、全ての経験は無思考になることで、、、感動が生まれます、、、、この逆転現象が起きているのです。。。。五感が鈍ることで、、、思考が周り、、、思考が回ることで、、さらに五感が鈍る、、、、という負のスパイラルに入っているのです。

退屈な世界???

多くの方がニュースを観てホッとするのは、、、、苦しいのは私だけではない、、、と思えるからです、、、だからニュースには、、、、暗いニュースが多いのです、、、、、ホッとできるからです、、、、ですが本当は、、、五感が鈍り、、、、全ての現象を、、、暗く感じる、退屈に感じる、、、、体になっているのです、、、世界をそう感じ取るのではなく、、、その五感こそが世界を作り出すのです、、、この世界は完全な幻想であり、、、、本当は感じることはできないのです、、、

感じることができない????

そうです、、、本当はこの体も、、、この世界も幻想であり、、、、感じる、、、がおかしいのです、、、ですがこの幻想は、、、、感じるために作られた故、、、、、感じることができる、、、、、無限という存在が、、、無限ということを「感じる」ために作られた世界なのです、、、、退屈も至福も感じることができるのです。

退屈を散々味わったならば、、、、

退屈を散々味わったならば、、、、、もう味わう必要はない、、、、、そしてこの体を健康に健康に導くことことで、、、、五感を研ぎ澄ましていくことで、、、自我OSが、、、大我OSにアップグレードされます、、小周天OSが大周天OSにアップグレードされます。

体は全部知っている

もしも体が全部知っているならば

「体は全部分かっているんです」そんなメッセージはスピ、ノンデュアリティ業界では多く聞かれる話です、、だとしたらなぜ今充実感が薄いのか???なぜ毎日が退屈なのか?????簡単です、、今の体、今の体のコンディション、、、、にとってベストな行動が取れているだけです、、、、?????え???今退屈だとしても完璧な体の行動が起こっているんですか?????その通りです、、、、今の体に寸分違わず完全な思考、行動が起きているのです。

行動を変えたければ体を変えればいい

簡単な話我々は完全に体に支配されているのですから、、、体が変われば全行動、全行動が変わるという当たり前の事実を受け入れればいいのです、、、、そしてこの体は完全に悟りの現れなのです、、悟りの現れの、、、行動、思考、、、ですから、、、体は全部分かっています、、、、この体の状態を物理的に改善していく、、体をリラックスさせていく、、、体を浄化させていく、、、、するとその体に見合った行動思考が湧いてくるわけです。

思うように行動できない、、、

今の体のレベルにおいて完璧な行動が起きています、、、恐怖のエネルギーが溜まっていれば、、、恐怖を感じないように小説や、映画、などのエンタメを楽しむようになっている。体が浄化されていれば、、、五感を使った現実内での楽しみを選ぶ、、、と、、、、全部が全部体のベスト行動が起きるのです、、、そして今その行動に満足を感じていないのならば、、、、体を浄化すればいい、、、それだけです、、、、

体が健康ならば、、、

体が健康ならば、、、体はTVゲームを選ばず、、、、体はこの現実世界で遊びを探します、、、、体は全部知っていますから、、、その体のレベルに見合った行動を選ぶのです、、、、行動を変えようとしても全くの無駄、、、体を変えてしまうのです、、、次の行動に見合った体を最初に手に入れてしまいます、、、、勿論その行動が起きるか起きないかは、、「自分」は関与できません。