孤独感

老後が心配で心配で

今の苦しみが解っていないのに

いまなぜ苦しいのか?今なぜ不安感があるか??今なぜ不満足感があるのか???そこを理解していないにも関わらずもしくは理解していなからこそ人は自身の将来について不安になります。今ですら不満足なのに老後なんてもっと哀れになるのではないか????独居老人、孤独死、、、怖い怖い。ですがこれらが杞憂に終わるのは、、なぜ今苦しいのか????この答えがないからです。

若い時の焦燥感

若い時、体は自由に動き回り頭もキレる、、、、にも関わらず若い時期はなんか尖っていた、、若い時は常に怒りの感情が、、若い時っていっつも寂しくて、、、、聞いたことありますよね!!!!健康なはずがなぜか精神状態は荒れ荒れで、、、、です。なぜか?????「この体と思考が自分」この思考がより鮮明に描かれるからです、イメージ化されるからです。これによって孤独感分離感も鮮明に上がるということです。なんで若い時はあんなに苦しかったのか???それは偽りの自分という存在をありありとイメージできてしまう、、、、こんなトリックがあります。

頭が良い人ほど、、、

鬱病になるって頭が良い人が多いんです、、、こんなこと聞いたことがある人は多いはずです。思考がそのまま感情を作り出しますから、、その思考が真実から離れれば離れるほどにネガティブな感情が湧きます。ネガティブとは分離のことであり、、分離とは真実では絶対にありえないのでこれはあくまでイメージでしかありません。そのありえないことを頭あ良い人はイメージの中で描き続けることができるのです。結果ネガティブな感情も維持し続けることになります。頭が良い人はあるがままの世界の中に壮大な分離の夢を描くのです。

頭が良い人が真実に気づくと

頭が良い人はたったひとつの統合したエネルギー、至福の世界の中に思考でもって壮大な分離の夢、ファンタジー、幻想を描き、、ネガティブな感情を湧き出させ苦しみ続けます。この事実を頭が良い人が理解しますともう同じ過ちを犯さなくなり、、ベクトルは真実追求に向かうのです。イメージしたドラマが真実とあまりにかけ離れていただけだった、、ならば真実に気づけばいい、、となります。真実が思考の先にある真実に意識が向くのです。この体この思考そこが自分という仮説はあまりにもリアリティがあるために騙され続けてきましたが、、これが偽りであることは明白です。なぜならばネガティブ(分離)な感情がそれを証明しています。

毎週毎週みんなでパーティー

Facebookを見れば、、、毎週毎週パーティー三昧、、そんな方を見ますが、、、これって簡単な理屈、、、「この体この思考こそが自分」という徹底的にネガティブな思考がネガティブな感情を生みますから、、、それを解消するためには多くの人と分かち合って再統合したい、ポジティブな感情を感じたいという欲求です。個人という孤独な存在(イメージ)だからこそ多くの人と分かち合い(統合)、、ポジティブ(統合)の感覚を得体わけです。ですがパーティーが終わればまた一人(イメージ)を強固にしますから毎週パーティーが必要になるのです。

今全体でなければ孤独を感じることはできない

孤独とは非孤独が感じるものだから

1億円を所有したことがない人間が1千万円を少ないと感じることはできません。暖かいを感じたことがない人間が寒いを感じることはできません。寂しいを感じることができる人間とは寂しくないを感じたことがある人間だけです。我々が孤独、不足感、違和感を今感じることができるのは今非孤独、満足、非違の状態だからです。主語が非孤独、非不足、非違和感だからこそ今、、孤独、不足、違和感を感じることができるのです。なぜ今かと言えば、、今しかないからです。時間とは思考が作り出したファンタジーです。

孤独を感じることができるという事実が自身が非孤独、つまり全体である証拠

全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体が今孤独を感じることができるのです。全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体(豊か)が今貧しいを感じることができるのです。全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体が今違和感を感じることができるのです。

ネガティブな感情は全体でなければ生まれない

虚しさは実でしか生むことができない感情です。主語が実だから虚しいを生むことができるのです。この私が虚しいを感じることは不可能なのです。なぜならばこの私は思考であって実ではないからです。実とは存在のことであり存在だけが虚しいを感じることができます。つまり毎日感じる虚しい、寂しい、苦しいという感情は全存在だからこそ感じることができるのです。全存在の中に「この体の中に私が居る」という思考を湧き起こすことで虚しい、寂しい、苦しいを今感じているのです。

究極の孤独を作り出すことができるのは究極の存在だけ

非孤独とはなんでしょうか????一人では非です、、非一人です、、、、つまり二人のことでしょうか???いや二人で居ても孤独感て生まれますよね???何十人と一緒にいても孤独感って感じるものです。非孤独とは全体のことです。我々は全体だからこそ究極の孤独を感じることができるのです。今全体だから今孤独を感じることができます。過去に全体だったから今孤独を感じているのではありません。過去という存在は思考でしかありません。

物理的失敗時に気づくこと

何も変わらない

物理的成功時にはお金がなくなってしまったら相当ひもじい精神状態になるのでは???です。ですが実際にそのような状況に置かれてみた時に気づくのです、意外と何も変わらないと。お金とはあれば使いたくなるものですが無ければ使いたいという欲望がないので何かを買いたい、使いたいという欲求が減るのです。結果欲求不満にはならない、、となります。多くの方は今ここで感じる違和感の理由を物質的な何かのせいにしたがるのです。お金が少ないから、家が狭いから、旦那が気が利かないから、、と。ですが本当は本当はこの違和感は「自分」というこの存在自体が生み出したものなのです。

物理的失敗時に気づく

物理的失敗時に、、対して何も変わらないや、、、だからこのままでもいいや、、とはならない。。やはり自分という存在から発せられる違和感、孤独感、苦しみは常に続くのです。。経済的失敗がこの違和感の理由ではなかった、、このことに気づくだけです。ですからこの時こそチャンス、本当の本当の違和感の原因を解消に意識が動くのです。ただし自分を無くそう、自分を無くそう、、、という努力は、、自分にとっての目標になるので自分を強めます。

自分を無くそう!も画面内の努力

マリオが、、、苦しみの原因はマリオ自体だったと気付いて、、、マリオを画面から消そう、消そうという努力をしてもそれは画面内での努力になります。努力をしているのは誰ですか??マリオです。自分の尻尾を捕まえようと動き回る狐のようです。そうではなくマリオが全体に再吸収される仕組みに気づくのです、そもそもマリオの中には自分は居ないんです、居ないことを理解すれば居るという錯覚は消えます。誤解を解くだけです。

孤独感は思考が作り出した産物

本質は孤独ではない

一人では何もできない、いつも友達と一緒に居たい、、、なぜならば孤独だから。これは思考が作り出した孤独感です。本質はこれ全部です、いつもこれ全部、、全部が全部、、これが本質です。この中に自分という存在が居るという感覚が生まれ(現象化)ることで分離感が生まれ(現象化)し孤独感が生まれ(現象化)したのです。本当はコレしかないのでそこに孤独などないのです。これは全部です。

なぜ鳥は孤独ではないのか?

一匹の鷹が北海道の大草原の上を飛びます、、人間であれば孤独を感じることもあるでしょう、、その鷹から孤独を感じませんね。鷹には自我がありませんから鷹にとって自分とは見える景色全てです、この全てに気づくしか起きていないのです。鷹のボディを自分という概念がないということは見える世界全てが自分です(自分という概念はないが)朝目覚めて寝るまでに気づかれる現象の全てが自分です(自分という概念はないが)

悟りとは

悟りとは自他が無くなることです、見える世界、聞こえる世界、全てがここにある、以上です。それを見る私も存在せず、それを聞く私も存在しません。ただ現象が起き気づかれる。この感覚が分かってきますと孤独感が湧いてこなくなります、誰も私に注意を向けてくれない、誰も私に構ってくれない、、という思考が湧かないのです。それは真実ではないからです。真実は孤独を払拭します。

面白いって何????

面白いは、、、ありのまま

日本はお笑い天国です、、、、TV番組を観れば、、、いつもお笑い番組が放映されています、、、お笑いとは何でしょうか????人が笑うのは何を感じているのでしょうか?????笑いとは、、、この自分が全くコントロールできずにことが進むことを諦めることなのです。。。。何年も準備して受験をしたら、、受験日を間違えた、、、、この人間の悲しい性こそが笑いです、、、実は何もコントロールできていない、、、ここに人間が触れると、、「ホッとする」そこに笑いが生まれる、、、、

何一つコントロールできていない

本当は何もコントロールできていないのです、、、本当は、、、どこまでも、、、その真実を垣間見ることで笑いが起きます、、、、何一つ、、本当はコントロールできていない、、、、、この事実は感じる力を上げなくては理解できない、、、、、この事実を感じているのは幼児です、、、、つまり、、幼児レベルに体を解放するれば、、、、この究極の真実を感じることができます。

なぜコントロール出来ているという勘違いが起きたのか????

分離した個人が「全てをコントロールしている」という勘違いが起きなければ、、、、全体を感じることはできません、、、全体は全体ゆえに、、、、分離しているという確かな感覚がなければ、、、この世界を構築した意味がない、、、ということになります。そういう意味では、、、徹底的な分離感、、徹底的な孤独感はこのゲームにおいて重要な要素であるということです。

徹底的な孤独感を癒してくれる

現在のお笑い芸人とは、、、この徹底的な孤独感を癒してくれる存在です、、、世の中って本当はこんなんですよ、、、という真実を、、、笑いというツールを通じて、、、表現しているのです、、、そんなに深刻になる必要はないですよ!!!です。みんな全然自分のことなどコントロールできていないじゃん、、と気軽な気持ちにしてくれるのです。もしもこれが真実でないならば、、、誰も癒されない、、、となります。

本来は孤独ではありえない

この世界全部が私だから

今孤独だとすれば、、、それは個の視点で生きているからです、、、この体の中に主人公が居るという視点で生きている時、、、孤独感が湧いてきます、、、、本当は、、、この世界こそが自分であり、、全部が自分ならば孤独感は湧いてきません。。。。全部が自分、、、見える世界に起こる生命現象の全てです。いやいや、、この体の中は自分の思うように動くけど、、、他は全くコントロールが利かないし、、全然自分じゃないですよね、、、違います、、、この体の中の全思考、行動、感情も全くコントロールが効いていないのです本当は。コントロールしているという勘違いが起きているのです。つまりは全部がコントロールが効いていない。

理解が進むと、経験が起きる

この事実が理解できてきますと、、徐々に経験が増えていきます、、この事実を証明するかのような経験が起こり始めます。本当にその事実が起き始めるのです、、、思考、感情、行動は勿論起こりますが、、その起こりが自分では起こしていないという経験が起き始めます。だからこそ先ずはこれを理解する必要があるのです、経験を起こすために理解が必要になります。

経験が起これば気づきが起こる

この世界は理解したことを経験でき、経験することで感情が湧きその感情に気づくことで、、確信に変わっていきます。つまり新しい観念が完成していくのです。ですから先ずは学ぶというプロセスが必要になります。学ばなければそれを経験できないのです。経験できなければそれは確信に繋がらない、、つまり同じ観念の世界を生き続けることになります。学びが新しい経験を作り、経験が気づきを起こし、気づきは完了です。気づきとは、、完全に疑いが晴れた状態です。

どちらが居心地が良いか

自我、無我

覚者は、、、孤独感、不足感、焦燥感、から解放されます、、、この私というイメージ、妄想が、、この物語を作り出し、、、この中に収まっていますと、、、孤独感、不足感、焦燥感が湧き出してきます。この事実を見抜き、、この物語から脱出したのが覚者です。この体は勿論残りますが、、この体の中に私というアイデアがありません、、構って欲しいという衝動も起きないのです。話しかけられた時に、、「私」というアイデアを想像し、、その時は「私」として振る舞います。ですが会話が終われば「私」というアイデアは消滅し、、全体に戻るのです。

体とは無我そのもの

体とは無我の表現、真我の表現そのものです、、、体は自我ではありません、、自我は体が生み出したアイデアです。。。。ですから静かに体と共にあるとき、、無我です、、、体をマッサージして、、緊張を緩めれば、、自然と無我に入れます、、、、マッサージの心地よい感覚、、これを感じているのは無我です、、、そのまま無我としてそこに在る状態になります。

真我が作り出した体、体が作りだした自我

自我とは突き詰めれば真我が作り出した、、真我が体を作り、体が自我を作った、、この自我の存在を実在だといく勘違いが起き、この自我実在ストーリーが作られました、時間という概念も作り、空間という概念も作り、、完全な劇場です。自我はどこまでいっても脳が作りだしたアイデアですからこの事実をしっかりと見つめれば自我は消えます、、自我ありきのストーリーも消えます。

孤独感を幻想と見抜く

私は一体何をやっていたんだろう、、脳が作り出した「私」というアイデア、、脳が作り出した、、分離社会、、この中で私という幻想がこの分離社会を生きるというでっち上げの中で生きていました、、、この体を安全に維持するのが最大の目的です。このことに気づきますと、、孤独感、焦燥感、不足感が湧いてこない、、、なぜならば私とは、、この世界そのもの、、現象そのもの、、大自然そのものです、、私とは脳が作り出した「私」というアイデアではない、、、それは100%。もうアイデアとして生きるのは終わり、、人と接する時だけ、、、「私」というアイデアをでっち上げ、、対応するだけ。

必要悪としての自我

セルフイメージは脳が作り出した必要悪

私、自分、我、、、なんでもいいのですがこの自己意識は、、脳が作り出した生命維持機能です、、、これは錯覚ですが、、この錯覚があるがゆえにこの体は、、その中に自分を所有し、、二重の意味でこの体を安全に維持活動させようとします、、、危ないとこに近寄らせない、、という動きは体、自己意識この二つで防衛されるのです。この自我、セルフイメージを作り出すことで、、人間という種は飛躍的に人口を増やしました。

苦しい

ただし問題点もあります、、苦しいということです、、、孤独感、不足感、焦燥感を自我(セルフイメージ)は生み出します、、必要悪をこの場合は捨てたいのですが体は絶対に手放さない、、、なぜならばこれは体を維持する上で有効だからです、、、だとしたら自我が必要のない状態にするしかない、、この自我の働きを俯瞰して、、自我の活動をしなくてもいい状態にする、、これが大切になります。

より俯瞰する

自我というのがいかに働きこの体を保っているのかを理解します、、、自我の目的はこの体を守ることにあります、、体が食べれていれば基本はいい、、そしてこの体がより長期的に安全である状態を目指します、、地位、名誉、社会的評価に関心が出るのもこの一つです。自我の動きを完璧に理解することで、、自我の暴走、自我への完全集中、意識が自己意識に取り込まれることを防ぎます。意識を自己意識ではなく、本当の意識に戻します。ここが静寂の場所、平和な場所です。

何者かになりたい

イメージがイメージに憧れる

小さい子供に自我が芽生えてくると、、、仮面ライダーになりたい、、という衝動が起こってきます、、これは自分はこの小さい非力な存在であるというイメージが子供の中に作られたからです、、、そこでもっと強い存在、もっと逞しい存在に憧れるという衝動が起きるのです。自分というイメージに意識が集中することで、、仮面ライダーというイメージに興味がでます。

敏腕社長になりたい

子供はやがて成長し社会人になると、、、今度は敏腕社長になりたい、、、カッコ良い仕事ができる先輩のようになりたいという衝動が湧きます、、、これも同じ、、、私という「自己意識」が出来上がることで、、不足感が同時に湧くようになり、、その不足感を埋めるために、、目標というイメージが必要になったのです。ですが実際に敏腕社長になれたところで、、、何も不足感は満たされない、、、一瞬の安堵以外は、、、

何者になっても無駄

結論から言えば個人意識は何者になっても無駄なのです、、なぜならば何者になったという個人というイメージは全く解消されないからです。この個人が居るというイメージこそが苦しみ、不足感、孤独感、分離感を生み出すのですから、、、、このイメージがただのイメージであることを見抜く以外に解決はないのです、、「わ・た・し」というのは言葉です、、この言葉がイメージを作り上げ、、さもこの経験の全てを所有する私が居るという壮大なストーリーが作られました。。自己意識、、、自分が居るという意識です、、、意識ですからこれは実在ではない、、、このとんでもなく簡単なトリックに人間は騙され続けているのです。

脳が進化し「私」を作り上げた

人間の脳は進化し、、この「私」というイメージを作りました、、この私はこの分離した世界を生きるというストーリーを作ったのです、、、脳はこの体を安全に維持するために、、このような仕掛けを作ったのです、、、事実人間は人口を増やし続けている、、、これは脳の大きな偉業です、、、ですが同時に人間はイメージの世界に閉じ込められて、、苦しみも味わうようになりました。。。これが人間の宿命です。

ベクトルが外に行く

ベクトルが外に行けば

この私、イメージとしての私、概念の私に意識が集中していますと、、孤独感、分離感、欠乏感が同時に湧いてきます、、、その場合これを埋めるのは外に向きます、、この私を埋めてくれる何かを探す旅にでるのです、、これが私ストーリー、私物語です、、私を埋めてくれる何かを探し続ける旅です。。。そして見つける何か、、例えばお金、友人、パートナー、名誉、地位も全て、、、イメージ、概念でから、、、空想が空想を手にれているだけ、イメージがイメージを手に入れているだけ、概念が概念を手に入れているだけ、、、何も満たされない旅です。

途中でそのことに気づき

おかしい、、何を手に入れても満たされない、、一瞬の幸福が起きるが直ぐに元の状態に。。。それは当たり前、私というイメージ、概念、妄想が、、、手にれる何かもイメージ、概念、妄想ですから、、、実は何も起きていない、、、そこに苦しみ始めた時に、、、私というイメージが問題なのでは???私という自己意識が問題なのでは???と気づき始める人もでてきます。

ベクトルじゃない

私という個人が居るという概念、イメージ、妄想こそが苦しみを生み出している、、、この気づきが起きますと、、、もうこの私を満たすというやり方、、外に何かを求めることに興味がなくなっていきます、徐々に。ベクトルが外ではなく、、、かといってこの私の内側でもない、、、ただ俯瞰したい、、、ただ真実を知りたい、、という衝動だけが起こるのです。。。このイメージの私に関心が湧かない、、、この私に構うにはもうたくさんだ、、

真実だけを探す

もう私が真実を探す、、、、の私が居ない、、、ただ真実を知りたい、、、、という衝動が起きます、、、すると段々と分かってくる、、、、この私はイメージに過ぎない、、さらに、、周囲のある名前がついた物は全てイメージ、、そして評価、批判も全てこのイメージに向けて起こるものだと。。。イメージが最大限の評価を受けて至福に至る、、、わけがない、、、至福とはイメージに焦点が向かず、、、どこにも焦点が向かない状態、、意識が意識として在る状態です。