全体

「全部が自分」説

自分という概念は嘘

「全部が自分」説、、この言葉には矛盾が含まれています。それは自分という言葉自体が、、、この世界からの分離を表しているからです。自らを分ける=自分です。ですから自分という言葉は適切ではありません、ですが他に表現しようがないので「全部が自分」と表現します。そして見かけ上の覚者は「全部が自分」とは言わないはずです、、どちらかと言えば、、何もなかったが近いように感じます。この世界から自分が抜け落ちる、、という感覚でしょう。

経験しかないぞ

この世界には実は経験しかないんです、、何かが見えるという経験、何かに触れるという経験、、何かを香るという経験、何かが聞こえるという経験、何かを味わうという経験、そして思考を感じる経験、感情を感じる経験です。この何かや思考、感情というのは何かしらに付けた名前でしかないので、、、本当は経験しかありません。では経験とは何か????これを言葉で説明するのは難しいのです。この言葉にできない「経験」、、そして「経験」という言葉も何かにつけた言葉ですから経験という言葉が指し示す「なにか」しかないということです。

「なにか」は確実に在る

言葉にもならない、経験という言葉が指し示す「何か」は絶対にあります。ラーメンを食べれば経験という言葉が指し示す「何か」が確実に起こります。この何かをかき集めたのが「全体」という言葉が指し示す何かです。「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」が我々の本質です。

「経験」「全体」という言葉が指し示す「何か」から現象が生まれまた経験が起こり続ける

ここには「経験」という言葉が指し示す「何か」しかありませんから我々の本質はこの「何か」をかき集めたものです。この「何か」をかき集めたものから常にまたあらゆる現象が目の前で起き続け、、また「経験」という言葉が指し示す「何か」が起こり続けるのです。これが色即是空、空即是色です。これがただひたすらに起こり続けています。

今全体でなければ孤独を感じることはできない

孤独とは非孤独が感じるものだから

1億円を所有したことがない人間が1千万円を少ないと感じることはできません。暖かいを感じたことがない人間が寒いを感じることはできません。寂しいを感じることができる人間とは寂しくないを感じたことがある人間だけです。我々が孤独、不足感、違和感を今感じることができるのは今非孤独、満足、非違の状態だからです。主語が非孤独、非不足、非違和感だからこそ今、、孤独、不足、違和感を感じることができるのです。なぜ今かと言えば、、今しかないからです。時間とは思考が作り出したファンタジーです。

孤独を感じることができるという事実が自身が非孤独、つまり全体である証拠

全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体が今孤独を感じることができるのです。全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体(豊か)が今貧しいを感じることができるのです。全体の中に「この体の中に私が居る」という思考が湧くことで全体が今違和感を感じることができるのです。

ネガティブな感情は全体でなければ生まれない

虚しさは実でしか生むことができない感情です。主語が実だから虚しいを生むことができるのです。この私が虚しいを感じることは不可能なのです。なぜならばこの私は思考であって実ではないからです。実とは存在のことであり存在だけが虚しいを感じることができます。つまり毎日感じる虚しい、寂しい、苦しいという感情は全存在だからこそ感じることができるのです。全存在の中に「この体の中に私が居る」という思考を湧き起こすことで虚しい、寂しい、苦しいを今感じているのです。

究極の孤独を作り出すことができるのは究極の存在だけ

非孤独とはなんでしょうか????一人では非です、、非一人です、、、、つまり二人のことでしょうか???いや二人で居ても孤独感て生まれますよね???何十人と一緒にいても孤独感って感じるものです。非孤独とは全体のことです。我々は全体だからこそ究極の孤独を感じることができるのです。今全体だから今孤独を感じることができます。過去に全体だったから今孤独を感じているのではありません。過去という存在は思考でしかありません。

人間ができる前は全体だった

全体の起こりがただある世界

この世に人間ができる前の世界はただ全体の起こり、生命現象がある世界が広がっていました。全体から何かしらの生命現象が起こりそれをただ全体が認識する世界です。花が生まれ、鳥が羽ばたき、虫が動く、、ただそれだけ、、そこに人間という脳を持った生命現象が起こりました、その生命現象は脳を持ち、思考を操り、まさかこの生命現象の中に独自の意識を完成させました、それが今の人間のデフォルトです。言葉という言語で意識を作り出したのです。全体は初めて全体ではない感覚を手に入れることができたのです。この人間という感覚は後付けの感覚です、そのため人間は個別意識と熟睡時の全体意識の両方を所有します。朝起きて人間活動をする時は人間意識、熟睡時は全体意識というわけです。

この人間意識は後付けであり居心地が悪い

この人間意識の特徴は基本居心地が悪いということです、試しに家で一人きり何もしないでボーと外だけを見ていてください。強烈な退屈感、孤独感が襲ってくるはずです。この人間意識は何かをしていないと苦しくて苦しくて仕方ないのです。そして何かしらの行動をとると色々な経験を詰めて充実感が湧いてきます。不足感、充実感、退屈、刺激的、、、このようにこの人間意識活動はどこまで行ってもマイナスとプラスを行き来する世界なのです。釈迦はこれを苦しみの世界と表現しました。全体によりこの人間意識体験は大変エキサイティングで自我はこれを必死になって維持しようとしますが同時にこれは全体という歓喜、平和、安堵がこれを体験しているという自己矛盾を抱えています。そこに帰りたい衝動を抱えています。

人間がプールを楽しむ感覚に似ている

人間はなぜプールという呼吸がしにくい環境で運動をするのか?身動きが自由に取れない中であえて負荷をかけて運動を楽しんでいます。呼吸ができないこと自体は非常に苦しいこと、ですが同時にこの不自由さこそがエキサイティング、楽しさの要因でもあります。これぞまさに全体が人間をやる理由です。人間は苦しい、だからこそ面白いという感覚です。

プールで遊び疲れたら陸に戻るように人間を遊び疲れたら全体に戻る

プールで遊び疲れた人間が陸に戻るように、人間に遊び疲れたら全体に戻ればいいのです。人間という感覚は人間であることに集中するからこそ人間活動ができます。もしも自分から意識を逸らし他に集中でこることを見つけると人間意識が外れ全体に戻れます。没頭できることを見つけていきます。もしくは悟り、ノンデュアリティーというこの究極のメッセージに耳を傾けることです、すると人間であることが後付けであることがはっきりと分かり人間活動が緩んできます。緩めば緩んだ分だけ呼吸ができるようになります。

友人からの裏切り、この時自分の中に何が?

自分の中で起こったことを精査する

例えば友人から裏切られたとしましょう。例えば彼氏を寝取られたと、、、この時自分の中からどのような感情が湧いてくるか、、、、前から怪しいと思っていた、彼氏を奪うとは本当にゲスな人だ、、幼少期に何か不幸があったのでは?これが一度では無いはず、、あの髪型も服装も全部男を誘惑するためのものだ、、逆に友人の彼氏を狙ってやろう、、、、まあこんな感じであらゆる思考、感情が湯水のように湧いてくるでしょう。この全てを自分は自分の体から湧いてきたと勘違いします。この思考、感情はこの体無くしては絶対に湧いてこない、だからこれらの思考、感情は私のモノだ。誰がこれを疑うことができるか?ということです。ですが実際は違います、これら全ては気づきの意識、全体から湧いてきています。それをあなたの体がキャッチしただけです。そしてさも自分がこの感情、思考は湧き出したのだと勘違いします。そしてそれを脳に記憶させます。

思考と感情をテーブルに出してください

もしも思考と感情が本当にあなたのモノならばそれを今すぐにこのテーブルの上に出してみてください。当然出ません、、、思考も感情もテーブルの上に載せれるような物質ではないからです。あえて言えばエネルギーです、そのエネルギーは体の中に物質として蓄積されるわけでもなくただ脳に記憶されます。このエネルギーを作り出したのは自分自身だというこの錯覚がこの人生劇場、自分劇場をエキサイティングなモノにします。ですが実際はこの思考、感情は気づきの意識、全体からただ湧いたのであってそれを自分が所有したと錯覚しただけです。

この自分ゲームをすると、、、

このメカニズムを理解することができても、、、これからも当然あらゆる感情、思考は湧いてきます。ですが一旦この事実を腹落ちすることができれば湧いてきた感情を自分のモノにするというコレがなくなります。この体(自分)と湧いてくる感情、思考を切り離すことができます。そしてこれからもこの体を使って活動すればまたあらゆる思考、感情が湧いてきます、ですがそれは自分のモノではありません。ただ気づきの思考、全体から湧いてきただけです。マリオのプレイ中に湧いてくるあらゆるプレイヤーの感情とマリオが一切関係ないように、実はこの体と湧いてくる思考、感情は何も関係がないのです。

全体にとってこの自分は退屈すぎる、、

マリオがもしも敵と戦わなかったら、、、

もしもマリオが敵と戦わなえないゲームに変更されてしまったら、、、大変退屈なゲームになります。マリオが通る道を全キャラが素通りにしていってしなえば退屈極まりないゲームになります。なぜか?マリオには戦うという機能しか用意されていないからです。マリオは歌を歌うことも、スポーツをすることも、ビジネスをすることも何もできません、ただジャンプして走るという機能しか用意されていないのです。これは人間も同じです、全知全能の神がこの無知無能の人間ゲームをしています。もしも人間が何もしなかったら退屈なのです、神が、気づきの意識が、全体が、、、です。人間は活動してくれて初めて気づきの意識は安心します。

活動して活動して活動して、、、もうこの退屈脱却ゲームに辟易したら、、、

神、気づきの意識、全体がこの人間活動をするのは、、、何もしなければ退屈極まりないからです。人は何もしないと退屈という感情が湧きますが、、あれは確実に気づきの意識から湧いています。そしてそれを人間は自分のものにする、、、「あー退屈だ、、、」となるのです。何もしないと退屈が湧いてきますが、、、気づきの意識は、、ただ人間が何もしていない状態、、、マリオが何もゲームに参加しない状態が、、、耐えられません。人間にとってマリオが戦うしか能がないように、、、神にとって人間とは活動するしか能がないのです。ということで人間は今日も活動します。ですがもしもこの活動地獄に辟易したら、、、ゲームのネタバレを探求するゾーンに興味がでてきます。自己実現からの自己超越です。

今日も私は自己超越活動をする

神は人間を作りましたが人間は神に比べ無知無能ゆえに何もしないでいると退屈になっていきます。そこで人間に活動をさせます、人間は食べたり飲んだり寝なくては生きていけないように設定されているのはそのためです、もしも人間が太陽光を吸収でき何も食べず、寝ず、飲まずに生きていけたならば何もしないでしょう。この状態は神にとって退屈極まりない状態なのです。このブログを書いている私は、毎日ブログを書くということをすることで活動しています。活動していると神が満足しているのが分かります。何もしていないと神は退屈になり退屈という感情が湧いてきます、それをこの私は感じ取り自分のものにすると、、退屈だなーという言葉が湧いてきます。

気づきの意識にとってクッパもマリオも同列

マリオは勿論主人公だが、、、

スーパーマリオをプレイするプレイヤーにとってマリオも、クッパも、ピーチ姫も、クリボウも同列で重要です。マリオだけが重要でクッパは必要ない、クッパは必要だがクリボーはいらない、、、とはなりません。ゲーム上のキャラはどれも重要であり重要でもない、、、少なくとも優劣が存在しません。マリオが大好きだと言っても敵キャラが出現しなければ何も面白くないのでマリオも同時に要らなくなります。スーパーマリオをプレイする人にとって全キャラが大切ということ、それだけ。この人間自分ゲームも全く同じで出てくる登場人物無くしてこのゲームは成り立たないものです、色々な人間との出会いがあるから面白い、、生涯一人しか友人が居なければつまらない、、、この自分とされる人間も大切だが同列で出会う人々も大切です。

何かを経験すれば全部この体の中に居る自分が経験したと取り込む

旅行に行きます、、旅行に行けば全部この体の中に居る自分がそれを経験したと取り込むのがこの体の中に居る自分です。飛行機に乗った、旅先のホテルに泊まった、海にいってビーチを楽しんだ、美味しい料理を食べた、、、全部この体の中に居る自分が経験したと取り込んでいます。本当は全部それを気づきの意識が認識しただけです。全体がそれを経験しました。この体を使って旅行という経験を全体、気づきの意識がしました。全体、気づきの意識にとってはこの体も旅行先のホテルマン、現地人、全員が同列です。同価値です。

ピンチの時こそそれをこの体の中の自分が取り込もうとする

道で赤の他人から暴力を振るわれた、、、、体には傷が付き、服は引き裂かれ、バッグからはお金を取られる、、、こんな時体は自分の中の自分を発動させ、、、なぜ自分がこんな目に遭うのか?なぜこんな悲劇を私が背負ったのか?なぜ自分が狙われたのか???と体の中の自分がこの事件を取り込もうとします。ですが真実を話せば気づきの意識がそれらをただ経験しただけです、この体が傷つけられ、この体が纏う服が引き裂かれ、この体が所有するお金が盗まれた、、、これを気づきの意識が経験した、、、、となります。本当にこの事実を認識すると「なぜ自分ばかりが狙われるのか?なぜこんな不幸な目に?何かわることを普段しているからか?」という思考のループが湧かなくなります。

このブログをカフェで書いてる時

音楽が聞こえる、、、

私は今このブログをカフェで書いています。音楽が聞こえます、この音楽私の耳で聴いているということもできますが気づきの意識が聴いているとも捉えれます。パソコン画面が見えます、これも人間である私が見ていると捉えることもできますが気づきの意識が見ていると捉えることもできます。この体はありますがくPC画面と私の間には体は存在しません、ただ目の前にPC画面だけがあります。気づきの意識がこれを認識します。勿論目をつぶるとPC画面は消えます、真っ暗が見えます。気づきの意識が真っ暗をい認識します。人間としても捉えることはいつでもできますが気づきの意識としても捉えることができます。ブログをタイピングする時にPCに指が触れる感覚を感じます。これを体が感じていると認識することもできますが気づきの意識が感じていると認識することはできます。

マリオを意識しようとしなくてもスーパーマリオはできる

スーパーマリオをプレイする時、全体験をマリオがしていると錯覚してもプレイできますがプレーヤーがやっているという事実でもプレイできます。当たり前の話です。この人間ゲームも同じ、人間のなかに自分が居るという前提でプレイできますが、その前提を壊し全部を気づきの意識が体験していると捉えることができます、本当はこちらです。どこまでも人間の中に自分が居てこの人間をプレイしていると捉えることはできます、ですが全部をこの気づきの意識が経験していると捉えることができます。

マリオがコテンパンにやられて

マリオに五感があるとしましょう、その五感がある状態でクッパにコテンパンにやられた、、、マリオの中に自分がいると錯覚するのは容易にできます。痛いのですから、さらに悔しいという感情が湧いてきたら、、自分の感情と錯覚するマリオを作るのは容易でしょう。ですが本当は全部プレイヤーがやっています。このリアルバージョンが人間ゲームです。人間が感じる痛み、辛さ、苦しさ、悔しさ、、、これを自分の体が体験しているという思想、、、完璧に人間ゲームにどっぷりはまり込み、気づきの意識、プレイヤーは自分がやっていることを忘れます。人間ゲームの凄いところはこの体の中に自分が居ると錯覚を起こしても何一つ矛盾がないことです。

ただ音だけがある

マリオのBGMはマリオが聞いていない

スーパーマリオではBGMが鳴ります、このBGMマリオには五感がある場合マリオは聞くことはできます、ですがマリオが聞かなくてもプレイヤーが聴いています。この自分劇場も同じです、我々には聴覚がありますからお店に入ればBGMが聞こえます、ですが同時にこれをプレイヤー、気づきの意識が聴いています。人間の聴覚としても聞けます、ですが気づきの意識としても聞けます。マリオがキノコを取った時に効果音がなります、この効果音をマリオの耳でも聞けます、ですがプレイヤーとしても聞けます。雨を降ると人間としても私の耳が聞けます、ですが気づきの意識としても聴いています。我々は音楽をきくと体の中の自分が聴いていると認識します、これをただ音楽が流れていると気づきの意識として捉えていきます。この体の中に自分が居るという認識をこうして外していきます。

いつでも「この体の中の自分が経験している」に戻すことはできる、、

スーパーマリオに集中してる時は、クリボーからのダメージも、倒した時の効果音も、スターを手に入れたときの無敵状態も、、、マリオが経験しているかのうように錯覚することができます。ですがこれは全て錯覚です。この人間ゲームも集中している時は全部を人間(自分)が経験しているように認識できます、ですがこれが錯覚です。本当は音楽を全体として聴き、この体が味わうコーヒーも全体が経験しています、食事をすれば人間が美味しいと感じていると錯覚していますが、全体が経験しています。友人と喋ればこの体が楽しんでいるように感じますが全体が感じています。マリオが経験していると認識するのも自由、人間が経験していると認識するのも自由ですがそれは錯覚です。

コンサートに行く

コンサートに行きます、あまりに煩いので耳栓をしました、、、人間として聞こえる音量は下がりました、、ですが同時に気づきの意識が認識する音量も下がります。やっぱりしっかり聴きたいと耳栓を外します、すると人間の耳として聞こえる(錯覚)音量は上がります、ですが気づきの意識が認識する音量も上がります。不味い料理を食べる時鼻をつまむと味覚が半減したようになり食べれます、鼻をつまむと人間として味覚が減る感覚を得ます、ですが同時に気づきの意識として味覚の半減を感じます。全部が全部、人間としてこれを経験するか気づきの意識としてこれを経験するかです。悟りを開くとは「自分が居なくなること」という認識が世間であるかないかは分かりませんが実はこんな簡単なことです。

気づきの意識で観察する

マリオの体感を全て観察していく

スーパーマリオの中でマリオが体感していくことを気づきの意識として体感していきます。マリオがクリボーに出会います。クリポーを発見します、クリボーにぶつかります、痛いという感覚を持ちます、血が出ます、クリボーにジャンプして踏みつけます、足にクリボーの感触があります、クリボーが潰れます、手が痛みます、体温が上昇します、嬉しいという感情が生まれます、よし次に行こうという思考が湧きます、、、気づきの意識として全てを観察する時、マリオという独立した存在は居なくなります。マリオを経験する気づきの意識だけがあります。このように我々の人間活動も同じように気づきの意識として観察していくと体の中の自分が居なくなります。

体の中の自分は経験を自分のものとする思考のこと

気づきの意識で観察するのと一般の人間活動の大きな違いは、、、経験を自分のもの(体)とするかしないか、、、これだけです。実は我々は全経験、全思考、全感情を自分(体)のものとして捉えているだけです、この捉えがなくればマリオを操るプレイヤーに直ぐになれます。主人公が180度変わります。主人公の次元はいつでも変えることができます。

プレイヤー、気づきの意識、全体の視点に戻る

今コーヒーを飲んでいます、コーヒーが口に入ります、苦味を経験します、喉を通ります、冷たさを感じます、安堵感が湧いてきます、、、これを今までは体の中の自分が経験していると認識してきました。これをしません。この経験だけがある、経験を積んでいるのは気づきの意識、ゲームプレイヤーです。またコーヒーを飲みます、コーヒーの香りがします、今度はミルクの味がしました、甘みを感じます、喉を通ります。これを体の中の自分が経験したという認識をしません。ただ経験だけを観察します。主体客体の世界が崩れました、経験だけが湧き続ける世界です。

自分は対象がなくては存在できない

何かを感じ、何かを思考するからこそ自分が居ると錯覚できる

自分が居るから、何かを感じ、何かを思考し、何かをすることができると思っています。ですが実際は逆です、何かを感じ、何かを思考し、何かを実行できるからこそ自分が居るのだと信じているのです。もしも何も感じず、思考もないのならば自分が居ると信じることはできません。対象があって初めて自分はこの世に存在すると信じることができています。主体客体セットで自分は存在できるのです。

五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、この体の中に自分が居るという思考も湧く

この体に五感があって、思考が湧いて、感情が湧いて、それらをこの体の中の自分が所有しているという思考がさらに湧くことでこの自分は存在できています。何かしらの対象があることでこのプロセスは成就します。コップがあって、それをこの体が視覚で確認し、この体が触って確認し、持ち上げて確認し、このコップは美しいという思考が湧いてきてきて、このコップが欲しいという感情が湧き、それらの感覚を所有するのはこの私であるという思考が湧くと、、この自分の存在を信じます。

この自分という存在を絶対的に信じる限り、苦しみは消えない

対象に対する五感プラス思考、プラス感情を通じて自分が居ることに絶対的な自信を持つわけですが、、、この錯覚を信じる限り、、不足感、欠乏感、欠如感が癒えることはありません。自分という存在は全体が作ったゲームであり、そこにのめり込むほどにギャップが生まれ苦しみが湧いてきます。全体がこの小さな体であると錯覚を起こせば不快感が湧くのは当然なのですが、、この分離の世界に一旦のめり込んでしまうとなかなか脱出できません。