ワンネス

子供はワンネス

朝起きて

子供はワンネスです、、朝起きた時に昨日はこうやって遊んだから今日はこれをやろう、、、、一週間こうやって過ごしてきたから今日はこうしよう、、、、一昨日は太郎くん、昨日は大輔君だったから今日は次郎くんと遊ぼう、、、という過去を振り返っての行動をしません。なぜか???それは自我が発達していないからです、自我とは過去が支える幻想です。

過去過去過去

あの時は上手くいったのになぜ今回は???学生時代はこのキャラで上手くいったんだけどなー、、、過去を振り返って自我は、、上手くいく方法を模索し、、今日という日をやります。自我とは過去から延々と連なるストーリー上のキャラですから、、、過去がなかったらキャラが成立しないのです。ですから自我にとっては過去が最重要になります。

過去と自我の関わりに気づく

過去と自我の関わりに気づきますと、、、自我は実はないことが分かります。過去がなかったら成立しないということは記憶が飛べば自我は崩壊します。だからこそ思考で過去を思い出し、形成して、、常にもっとも都合の良い自我をその都度作り上げるのです。

「今日これが出来なかった」プレイ

「本当はこれをやりたかったのに」プレイ

自己嫌悪は実は自我の巧妙な作戦です。今日本当はこれをしたかたんですが、、私って本当に駄目で。。今日本当はジムに行きたっかったんですが行けなくて、、、残念汗、、、、毎日これだけしようと決めてるんですが、、、本当私ダメ人間で。。。。全部これ自我の巧妙な自己嫌悪プレイです。作戦を立ててできなくて落ち込む、、、何が悪いのか?????今日自分が何が出来るかは今日今決まるのです、、湧き上がったその瞬間に行動が起こるのです。行動を起こせる自分など存在せず、、、存在しないのに行動をコントロールなどできようがないのです。自由行動など嘘です。

湧いたことをただ毎日やる

明日自分は何が出来るか????そんなことは明日にならないと誰にも分からないのです。なぜならば行動は湧くものであって自分で起こすものではないからです。何も出来ないならば、、それが湧いたのです。一日中ジムでスポーツしようが湧いたならばそれが起こったのです。本当は100やりたかったけれど今日は30しかできなかった、、、じゃないんです。湧いたことだけが毎日100%できるのです。つまり毎日100%やれるということです。

自分を責めるプレイを辞める

思ったことを全部今日はやれました、、、そんな日は一年に五回もないでしょう。。つまり成功確率は1%、、、そんな割りの合わない賭け事はしないことです。そうじゃなく今日はこれが湧いたからこれをやりました、、に変えます。いらないんです目標設定など、、無駄です。。。。それはプレイです、、自我の自虐プレイは余分です。ただしそれが起こったならばそれもそれで完璧です。そのプレイをワンネスが起こしたのですから。

音が色が香りが、、、

どこで感じるか

今部屋には音楽が流れています、この音楽科学的には、、耳の鼓膜が感じ取り、それが脳内で処理される、、となります。つまり脳が感じていることになっている。ですが、、実際にはどうでしょうか???音はもっと遠くにないですか????確実に脳内ではなく、、外にありますよね。これは光も同じこと、照明の光はどこにありますか???脳内ではなく、、そこにあるはずです。そしてそれが真実です。音も香りもその場所にそのまま気づかれているのです。私の脳が感じているなど後付け、空想、妄想です。

世界中の幼稚園児に

世界中の幼稚園児に「あそこに居る小鳥さんはどこに居るの???」と聞いて脳内に居ると答える子供は皆無でしょう。ワンネスそのものである子供がそう答えるということはそれが真実です。そして小鳥さんの声はどこで起こったの???と聞けば、、あそこ!!と答えるでしょう。つまり音もそこで起こっているのです。そしてこの目、この耳が感じ取ったと答える子供が居ないように本当はその場所がそれに気づいたのです。

間違っているのは大人

子供とは自我が形成されていませんから真実をそのまま口にします、、自我が形成され思考を学ぶことで、、そうかそういうメカニズムなんだという思考を覚えます。そしていつの間にかそっちが真実であるという大錯覚を始めるようになり「苦しい」が起こるのです。「苦しい」はいつも大誤解が起こすのです。「私が居る」も思考が作り出した感覚です、この感覚がこの世界で確実に起こるようになり同時に「苦しみ」「分離感」「緊張感」が起こったのです。ですがそのことには無自覚なためこの苦しみをなんとか解消しようと「思考」が起こり、、「この私が何かを手に入れることでこれを解消しよう」というストーリーが生まれます。そしてこの思考がまた「緊張」と「分離」を作るのです。

自由意志の否定は輪廻転生を崩壊させる

そもそも

輪廻転生とは、、人間が行った誤った行為を来世で解消するために何度も生まれ変わり霊的成長をしていくことが前提で起こった考え方です。ところが人間には自由意志がなく、、全ての行動言動は自動反応であるというのが真実です。つまり人間の全行動はワンネスから起こる現象に過ぎないことからそこに間違いなどあろうはずがないのです。自由意志を行使した結果時に過ちを犯し、それを改善するために生まれ変わるという概念は完全に勘違いであることが分かります。

解脱とは勘違いからの目覚め

つまり解脱とはそれらの勘違いからの目覚めであるということです、人間には自由意志もないし自我も存在しないという気づきが起こりまでこの自我ストーリーが続いていたというだけの話です。今世で犯した罪は来世で償います、、という考え方は、、真実ではなく大誤解です。輪廻転生とは大誤解をベースにした概念に過ぎないということです。そういった大誤解から目覚めて真実に目覚める時、、そこにはワンネスしかなく、、最初から悟っていたという気づきが起こります。

自我を前提にしたストーリーの消滅

解放、目覚め、解脱とは、、、自我を基本にしたストーリーの消滅です。本当は自我は現象幻でしかなくつまり現れて消える概念です。この概念が分離と緊張という「苦しみ」を起こし、それをこのストーリー上で解消しようとする動きが人生であり輪廻転生なのです。そもそも自我は幻であり実在はしていなかったという気づきは自我をベースにしたストーリー全てを崩壊しその後に残るのは自我が存在しない現象のみです。そこには分離と緊張は存在せず真の安らぎが残ります。

主役(体)と脇役(全体)を入れ替える

多くの方は逆をやっている

多くの方はこの体が主人公で体を取り巻く環境が脇役だと思っています。ですが本当はこの環境こそが主人公、本当の私です、そしてこの体は脇役なのです。環境とは何か???この夢そのもの、、この夢は空、絶対、ワンネスの顕現そのものです。そして我々の本質はそれなのですから。その中にこの体が夢の一部として顕現したのです。そしてこの体がいつもこの夢に登場することから序列が一気にトップに上がりその中に「自分が居る」という思考が固定化されたわけです。

体と環境はいつもセット

生まれてきてこの方、、この体そしてそれを取り巻く環境がセットで登場し続けてきました。そうです環境+この体でこの夢は成り立っているんです。環境だけでもなくこの体だけでも成立しないのですからどっちが重要ということはありえないのです。ところが我々はこの体の方が重要と信じることで同時に虚しいを感じるようになってしまったわけです。

今見ている世界

今見ている世界、夢そのものが私です、、だからその夢の中で人と競り合ったり、人よりも偉くなったりしても、、何の意味もないのです。この夢自体が自分自身ですから。鏡に写ったこの体の中に自分が居るとやはりこの夢の中で教わりそうだと信じてきただけです。鏡もその中に写る姿も全部夢です、、そしてもう一度そのことを思い出しますと平和至福が蘇ってきます。私たちは何も手に入れる必要がないのです、なぜならば見る世界全てが自分自身だからです。

ワンネスに意図はない

意図があるならば、、、

コレは夢です、完全に夢です。この世界はワンネスがみる夢ですが、、なぜワンネスは自我を作り、そして解放に至るのか???そこに意図はあるのか???という話です。結論から言えば全てにおいて意図はないんです、なぜかと言えば、、もしもワンネスに意図があるならば、、、例えば解放を味わいたいという意図があるならばさっさと解放が連発するでしょう。個人という幻想を作りだしさっさと解放に至らせるでしょう。ですが実際にはそのようにはなっていない。

意図がないとなると、、

意図がないとなればではなんのためにこの幻想、夢が起きたのでしょうか????残念ながら、、、これはこの二元の世界、夢の世界の質問なんです。意図を持つという表現事態が夢の中でしかできないですよね、時間という幻想ありきの質問なんです。自分という幻想は意図を持って何かをする、、、という表現が可能ですが、、これがまさに夢の中でのことなのです。夢の中の状況で、、ワンネスの意図があるか???という質問が矛盾しているのです。

空、ワンネス、絶対から現象が起き上がり

空、ワンネス、絶対から現象が起き上がり、、、それによって気づきが起き上がり、、ただ無限の現象があるという気づきが起きました。その気づきの中で私という思考が起き上がることで、、私が何かをしたいが起き上がり、、この無限の現象を体験するという現象が起きました。私が居るという思考が起き上がることで同時に孤独、違和感という思考も起き上がり、、それを無くしたいという思考も起き上がったのです。そして今まさにそれを無くそういう動きが起きているのです。全体が退屈だったとか、神が退屈だったとか、神が無限を体験したいとかいう思考は、、、全て空、絶対、ワンネスの外で起きている現象です。

夢の中で、、いまこの瞬間以外は何も起きていない

就寝中の夢の中、、今見ている現象以外は存在しない

就寝中の夢の中で、、、大親友が出てきて二人で居酒屋に行った、、、そして食事会話を楽しみました。。その時、、もう一人の大親友が出てこなかったけれどあいつはあの時何をしていたんだろうか???と疑問に思うだろうか????思うわけがないんです、、なぜか???夢とはその瞬間瞬間の現象以外ありえないからです。両親も奥さんも、子供も、会社も、、夢の中に出てこなければ、、、存在しなかったのです。あの時奥さんは??あの時子供は??あの時会社は?????は疑問自体がおかしい。

この現実世界もまさかの同じ

この現実と呼ばれている世界、この現象界も全く同じメカニズムでできています。今この瞬間に現れている現象以外は全く全く存在していません。地元の友人も、かつてのクラスメイトも、かつての友人も恋人も、、、、今ここに居ないのならば実在しないのです。なぜそれが言い切れるか???それはこの現実が幻想であることは間違いないからです。幻想であるということは夢と全く同じ、、そして夢と同じでノーコントロール、、

分かった、、これが夢だとして、、では誰が見ている???この夢を

それは分かった、、夢としましょう、、この現実は。。。。じゃあこの夢を見ているのは誰なんですか?????「私」はこの夢の登場人物に過ぎないわけで、、じゃあ誰だ???誰がこの夢を見ているんだ???〇〇という存在、、という名前は絶対に絶対にありません。なぜか???誰それという名前があるならば、、その存在以外の存在がいることになってしまいます。それをあえて説明するならば全部、全体、唯一無二、非二元、ワンネスがこの夢を見ています。

悟る!悟る!悟る!

眠る!眠る!眠る!

寝るためにベッドに入ることは重要なことです、ですが入ってから集中して集中していざ眠ろう!は逆に眠れない。それでは無理です。悟りも全く同じ、そこに意識を向けることは大切、ですがそれが執着になると逆に難しい。そのバランスは重要です。

真実を理解していくことは

真実を理解していくことは寝具を整えていくのと同じです。寝具が整っていきますと当然眠りに落ち易いわです。ベッドを掃除し枕を綺麗にし加湿器をつけて暖房を入れる、、、こうしていくと瞬時に眠りに落ちることができます。悟りもこれと同じ、真実の仕組みを理解していきますと悟りに落ち易いということです。

再吸収、再吸収、再吸収

眠りに落ちる時、主語は自分じゃないんです。自分が眠りに落ちるってちょっと違和感があります。眠りに落ちる時って自分が無くなる感じですよね。悟りも全く同じ、自分が無くなるのですから主語は自分じゃないんです、、では誰が主語なのか????自分を眠りに落とす主語って誰ですか???居ませんよね、それをあえてあるがまま、全体、ワンネスと表現すんですがこれは非常にやっかいでどの言葉を用いても違うんです。言葉を当てはめれる存在ではないんです、眠りに落ちる時、どこかに吸い込まれうような感覚があります、、そのどこかです。でも間違いなく我々は眠りに落ちれう時にそこにアクセスしてます、そこに波長を合わせてる。悟りとはまさにそのどこかに波長を合わせ再吸収してもらう感覚です。

眠る時にあそこに行こうとは思っていない

眠るに落ちる時に、、さああそこに行こうとは思って寝ないですよね、、、あそこではないんです、、今ここに間違いなくある、今確実にあるこの場所です。悟りとはどこか遠くに行くことではなく元々ここにある場所に帰る感覚です。本当はずっとここにあるのに見えなくなってしまった場所、そこに再吸収されるように準備を重ねていきます。

最初に理解がある

なぜ苦しいのか????

なぜ苦しいのか???先ずはこの疑問、思考から始まります、、、そしてそれを毎日思考するわけです、、、なぜ???なぜ?????なぜ????そしてその探求が始まります、、、、ですがこの探求は多くの場合は非常に困難な探求になるのです???なぜか????それはこの苦しいの理由がさっぱり分からないからです、、、、そして多くの場合、、、それは、、、、、ワンネスがワンネスであることを思い出すことである、、、という結論を知ります。。。ですが、、、、じゃあ、、、、どうすりゃいいんだ???です。答えが分かったとて、、、、するべきことが分からない、、、、、

思い出し方を教えろ!!!

それが分かったとて、、、、どうやって思い出せばいいのでしょうか??????瞑想、ヨガ、座禅、マントラ、お経、、、、今度はそれが分からない、、、、、迷路地獄、、、、これを知識で解決しようとすれば失敗します、、、、なぜならば、、、知識は、、、、退屈を埋めるために発生したため、、、、知識は本当の意味での解決を図る道具ではないからです。。。。。真実を発見するのは体であり、、、体に真実を発見させます、、、知識は、、、、退屈を解消するための道具です。理解が終わったら、、、体で再発見させます。

目の前にある

真実は実は目の前にあります、、、今も真実しかありません、、、、今も悟っていて、、、、真実をありのままに見ています、、、ですがその真実は、、、、虚しい、、退屈を表現した真実ゆえに、、、、ここから逃げたいのです、、、自我システムという真実の表現の中で我々は苦しんでいるのです。。。。体の中に自分が居るという、、、この観念が真我の中で起こり、、、苦しみが生じます、、、、この観念からくる苦しみが体を蝕み、、その蝕みが、、、退屈を生じます、、、、このサイクルを断ちます、、、蝕みを強引に解消します、、すると、、、本当の真実、、静寂である真実が顔を出します、、、頻繁に顔を出すようになります、、、、静寂の真実が手招きします、、、

もう少し

静寂の真実から手招きが起き始めたら、、簡単、、、、ただ体の蝕みを解消していきます、、、体の感覚から、、そして理解をさらに明晰に、、、そしてまた五感を研ぎ澄ます、、、そしてまた深い理解を、、、、この繰り返し、、、、何かを手に入れる、、安定した暮らし、、常識、、、、これらは正しい五感の開発、深い理解によって勝手に起こります、、、、追い求めるのではなく、、ただ普通に手に入ります。

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、