クッパ

至福に戻さない巧妙な仕掛け

観念通りの現実

この映画の凄いところは偽りの自己(この体この思考この感情が自分)があらゆる経験を積んで(錯覚だが)集めた価値観がそのままこの映画に反映され上映されるということです。これでは偽りの自己は自身が偽りで思うわけがなく『やっぱり!!!』とこの映画にこの主人公としてのめり込むkとになります。この世界ではこの私はしっかりと勉強しないと食べていけないよね!!!という価値観を持つと、、本当にそのように見える世界になるのです。これぞこの経験を積んでいる自分自身(偽り)の絶対的存在根拠になります。

今回のクッパはどうやらそうとう手強いぞ!!!

マリオをやっていて、、、どうも今回のクッパは見た目が強そうだぞ!!!という思考が湧いてきた時に、、その思考が反映され実際に強く感じた場合どうなるか????マリオはクッパの存在、マリオ自身の存在を疑うだろうか???ということです。これじゃ絶対にマリオが実は居ないなんて信じないのです。要は一旦マリオの存在を信じた時に、、周りの環境がマリオの観念によって都合よく変化するわけですから、、バレにくいわけです。

至福を感じてしまう瞬間

絶体絶命のピンチ、、いきなり大出血、大転倒、、、マリオ絶対絶命の危機、、、、こんな時があったとしましょう。。。。マリオが何も考える隙がなく、、全意識が問題解決に向かった時、、、どういうことだ???異常に気分が良い、、心が穏やかだ、、、こんな経験久しくしてないぞ!!!が起きます。その時ふと思うんです。。。なんで?????自分のこと考えている余裕がない時に、、なぜ????こんな楽なんだ????自分のことを一生懸命考えている時の方が苦しいって変じゃね?????です。

本当は誰もいないってマジかも????

そんな時に見かけ上の覚者が言っていた話がチラつくんです「本当は誰もいない」です。居るって思ってるから苦しんじゃね????間違ったことを信じてるから苦しいじゃね????自分が絶体絶命の時に至福をチラ見するってなんか凄い意味がある気がする、、、、、大正解!!!!!自分が居るって思えないぐらいにヤバイ時に至福になるって要は本当は居ないのが正解なんじゃねーの?????大正解!!!!!我々の本質は至福でしかないんです、、、自分が居るって思えないぐらいな状況の時、、、、本当の自分が偽りの自分に構っていられなくなり本当の自分に再発見したんです。

相手と喧嘩をする時、、、

喧嘩をしている時はこの体の中に自分が居ると思える

マリオがクッパと戦っている時、マリオの中に自分が居ると最大限に錯覚を起こすことができます。攻撃されれば悔しいという感覚、攻撃が上手く行けば嬉しいという感覚を持てるのはマリオが自分と同一視できているからです。所詮ゲームだからと思いながらあんなに面倒な操作など集中してできるわけがないのです。あそこまでなぜ子供はゲームに集中できるのか?それはゲームの主人公になり切っているからに決まっています。

友人と喧嘩をしているとき

この体が友人と喧嘩をしている時、友人はさもこの体の中に独立した自分が居るかのように人格否定をしてきます。あなたが悪い、、、そのあなたとはこの体の中に居る「自分」のことです。相手が強く、強くこの体に対し人格否定をすればするほどに私はこの体の中に自分が居ると錯覚を強化することができます。絶対に居るだろうこの体の中の私に向かって相手は攻撃の手を緩めません。そして私が相手に何かをいう時も確実に相手の体の中に確固たる「自分」が居ると思って攻撃を加えます。この攻防は体対体ではありません。体の中に居る自分対体の中に居る「相手」です。体の中に自分が居るという感覚を強烈に強化できます。

本当は体に向かってただ攻撃をされただけ

友人との喧嘩は自我、自分を強化します、ですが本当はこの体に向かって相手がただ攻撃してきただけです。その事実とこの体に自分が居るという錯覚は何も関係がありません。つまり何を言われようと、何を攻撃されようと、、ただそれを気づきの意識が認識、経験するだけです。相手がこの体の人格とやらを否定しようとも本当はこの体の中には自分は存在せず、、、ただ内容を聞くだけになります。もしくはとりあえずこの体の中に自分が居るという体で話を聞くことはできます。

気づきの意識にとってクッパもマリオも同列

マリオは勿論主人公だが、、、

スーパーマリオをプレイするプレイヤーにとってマリオも、クッパも、ピーチ姫も、クリボウも同列で重要です。マリオだけが重要でクッパは必要ない、クッパは必要だがクリボーはいらない、、、とはなりません。ゲーム上のキャラはどれも重要であり重要でもない、、、少なくとも優劣が存在しません。マリオが大好きだと言っても敵キャラが出現しなければ何も面白くないのでマリオも同時に要らなくなります。スーパーマリオをプレイする人にとって全キャラが大切ということ、それだけ。この人間自分ゲームも全く同じで出てくる登場人物無くしてこのゲームは成り立たないものです、色々な人間との出会いがあるから面白い、、生涯一人しか友人が居なければつまらない、、、この自分とされる人間も大切だが同列で出会う人々も大切です。

何かを経験すれば全部この体の中に居る自分が経験したと取り込む

旅行に行きます、、旅行に行けば全部この体の中に居る自分がそれを経験したと取り込むのがこの体の中に居る自分です。飛行機に乗った、旅先のホテルに泊まった、海にいってビーチを楽しんだ、美味しい料理を食べた、、、全部この体の中に居る自分が経験したと取り込んでいます。本当は全部それを気づきの意識が認識しただけです。全体がそれを経験しました。この体を使って旅行という経験を全体、気づきの意識がしました。全体、気づきの意識にとってはこの体も旅行先のホテルマン、現地人、全員が同列です。同価値です。

ピンチの時こそそれをこの体の中の自分が取り込もうとする

道で赤の他人から暴力を振るわれた、、、、体には傷が付き、服は引き裂かれ、バッグからはお金を取られる、、、こんな時体は自分の中の自分を発動させ、、、なぜ自分がこんな目に遭うのか?なぜこんな悲劇を私が背負ったのか?なぜ自分が狙われたのか???と体の中の自分がこの事件を取り込もうとします。ですが真実を話せば気づきの意識がそれらをただ経験しただけです、この体が傷つけられ、この体が纏う服が引き裂かれ、この体が所有するお金が盗まれた、、、これを気づきの意識が経験した、、、、となります。本当にこの事実を認識すると「なぜ自分ばかりが狙われるのか?なぜこんな不幸な目に?何かわることを普段しているからか?」という思考のループが湧かなくなります。

五感からの自分錯覚を見破る

食事を食べる

牛丼を食べます、視覚に牛丼が見えます、これを体は自分が見ていると錯覚します。ですが気づきの意識が見ています。お箸を手に取ります、お箸の感触を感じます。これを体は自分の体験として捉えます。ですが実際は気づきの意識がこれを経験しています。お箸が牛丼を掴み口に入れます、舌が牛丼に触れます、これを体は自分が感じていると錯覚します、ですがこれは気づきの意識が経験しています。鼻が牛丼の香りをキャッチしました、これも気づきの意識が経験しています。五感は常にこれを感じているのは体の中の自分であると錯覚を起こしたがります。ですが全部気づきの意識が経験しています。

マリオがクッパと戦う

マリオの前にクッパが登場しました、恐怖心が湧いてきます、これをマリオは自分から恐怖心が湧いてきたと錯覚します。実はプレイヤーが恐怖心を感じています。マリオはクッパがジャンプしているのを見ます、マリオは自分がその事実を見ていると感じます、ですがこれはプレーヤーマリオがクッパのジャンプを見ているのを見ています。クッパがマリオに襲いかかってきました、クッパの攻撃をマリオが受けます、、この時マリオは自分が攻撃を受けたと錯覚します、ですが本当はプレイヤーがマリオが攻撃を受けた経験をしています。マリオが経験していることは全部その外に居るプレイヤーが経験しているのであってマリオの中の自分錯覚ではありません。

感じているのを中とするか、外とするか

マリオの中でスーパーマリオを感じているとするのも自由、マリオの外に経験者が居るとするのも自由です。マリオの中に自分が居るとなると深刻さが増し、マリオの外に自分が居るとなると深刻さが薄くなります、というよりも深刻になれない。この人間ゲームも全く同じ、この体の中に自分が居るとするか体とは全く関係ない気づきの意識がただ経験しているかで深刻さが変わってきます。

このブログをカフェで書いてる時

音楽が聞こえる、、、

私は今このブログをカフェで書いています。音楽が聞こえます、この音楽私の耳で聴いているということもできますが気づきの意識が聴いているとも捉えれます。パソコン画面が見えます、これも人間である私が見ていると捉えることもできますが気づきの意識が見ていると捉えることもできます。この体はありますがくPC画面と私の間には体は存在しません、ただ目の前にPC画面だけがあります。気づきの意識がこれを認識します。勿論目をつぶるとPC画面は消えます、真っ暗が見えます。気づきの意識が真っ暗をい認識します。人間としても捉えることはいつでもできますが気づきの意識としても捉えることができます。ブログをタイピングする時にPCに指が触れる感覚を感じます。これを体が感じていると認識することもできますが気づきの意識が感じていると認識することはできます。

マリオを意識しようとしなくてもスーパーマリオはできる

スーパーマリオをプレイする時、全体験をマリオがしていると錯覚してもプレイできますがプレーヤーがやっているという事実でもプレイできます。当たり前の話です。この人間ゲームも同じ、人間のなかに自分が居るという前提でプレイできますが、その前提を壊し全部を気づきの意識が体験していると捉えることができます、本当はこちらです。どこまでも人間の中に自分が居てこの人間をプレイしていると捉えることはできます、ですが全部をこの気づきの意識が経験していると捉えることができます。

マリオがコテンパンにやられて

マリオに五感があるとしましょう、その五感がある状態でクッパにコテンパンにやられた、、、マリオの中に自分がいると錯覚するのは容易にできます。痛いのですから、さらに悔しいという感情が湧いてきたら、、自分の感情と錯覚するマリオを作るのは容易でしょう。ですが本当は全部プレイヤーがやっています。このリアルバージョンが人間ゲームです。人間が感じる痛み、辛さ、苦しさ、悔しさ、、、これを自分の体が体験しているという思想、、、完璧に人間ゲームにどっぷりはまり込み、気づきの意識、プレイヤーは自分がやっていることを忘れます。人間ゲームの凄いところはこの体の中に自分が居ると錯覚を起こしても何一つ矛盾がないことです。

私たちは体ではない、、では何か?

答えはいつもシンプル

この自分劇場、この体の中に自分が居る、、、この大前提は非常に強固で革新に満ち素晴らしいアイデアです。体が動けば五感もあるし思考も感情も湧いてくる、、、だからこの体の中に自分が居るのは当たり前。ただもしもこの体の中に自分が居ないとしたら、、どこに居るのか???ということです。自分、自我それについてもしっかりとした打開策、代替案を持っています。そうです、自分は体の周りを囲っているという理論です。オーラという表現をする人もいます。ですがもしもそれも違う、、、となったならば自分はどこに居るのでしょうか?全部ということになります、視界入る全部が真の存在ということになります。

体の中に自分が居ないなら全部

自分が居るという感覚に絶対的に自信があるから、もしも体の中に居ないならば外にいる、、、この理論が生まれます。そして死んだならばこの自分はどこに行くのか?という理論に発展するのも当然なんです。スピリチュアルにハマったきっかけも江原さんが死後の霊とダイレクトに会話をしているのを見たからであり、そこに何の疑いを持ちませんでした。ですが今は分かります、自分が居るというこの感覚は絶妙な条件が合わさっての錯覚であるということが。五感、思考、感情、、これらが湧いてくるからこそこの絶対的な感覚に自信を持てるのです。マリオに五感が発達し、さらに思考、感情、この体の中に自分が居るという思考が湧き続けたら、、、マリオに自我が芽生えます。覚者が人間に対し「安心して苦しめ」と言うのはこのような理由からです。

マリオに五感と思考、感情を与えてみる

マリオがクッパと戦う時に痛み、苦しさ、戦略を考える思考、そしてその感覚を自分のものだという思考を与えたらどうなるか、、、間違いなく自分が居るという感覚を持てるはずです。マリオ自身が痛みを感じそれを自分のモノとする思考があれば間違いなく自分がクッパと戦っていると思えるはずです。この自分がマリオという感覚はゲームケイレイターの望みです。本当は自分はマリオであるという認識はゲームクリエイターが認識しているのですが、、、要はゲームクリエイターがマリオになり切るという遊びをしているのです。それが我々人間です。

自我が芽生えたマリオはそう簡単には死ななくなる

もしもマリオに自我が芽生えた自分がこのゲームをやっていると勘違いしたらどうなるか?そう簡単には死ななくなります、死なないために恐ろしく慎重になるでしょう。一個の壁越えジャンプでも何度もシュミレーションしてから行うはずです。クッパと戦う時などはデータを集めて対クッパ、シュミレーションを完璧にするどころか寝首を斯くという奇策に走るかもしれません。もしくは賄賂を渡して穏便に済ませるという方法も取るかもです。こんなことは当たり前にやります。これって人間の行動のことです。人間がマリオですらも簡単に騙せるのですから全体、神が人間を騙すのなど屁の河童なのです。

自分至上最悪の出来事、自殺について

最大のタブーに切り込む

全体から自らが分かれた状態、自分にとって最低最悪の事件が自殺です。自らの命を自らが断つということになります。自身にとっても周囲にとっても最悪な出来事であることは間違いありません。ですがこれを全体の視点に経ってみたらどうなるか?例えば自分の友人が自殺をしたとしましょう、その事実だけを自分が認識する時、友人は大いに苦しみ大いに悩みその決断をしたんだろう、、自分に何かできることはなかったか?自分がもっと優しくしていれば、、、こんな思いが間違いなく湧くでしょう。ですが真実をお伝えすればそれは全体が起こしたただの現象です。自分以外に起きたものは全て全体が起こしたゲーム上の現象です。無礼承知でお伝えすればスーパーマリオに出てくるクッパがゲームの中で死んでしまっただけということになります。クッパが苦しんだという事実はなくただゲーム上でそうなりました、終わり。勿論亡くなった友人の部屋を調べれば苦しみの日記や手紙が出てくるかもしれません、ですがそれも亡くなった後に全体がそれを起こしただけです。失礼承知で続けますがスーパーマリオのゲームにおいて自分はマリオだけ、それ以外は全部ゲーム上の出来事になり他のキャラの自由意志はそこにはありません。

自分は常に周囲の行動に振り回されるが

自分は両親の離婚、両親の死、友人の闘病、友人の投獄、、、、、に常に振り回されます。それがこの自分劇場のデフォルトです。ですが真実をお伝えすればそれらはスーパーマリオゲームでの脇役キャラでの出来事、そこに意味は何もありません。意味があるように確実に見えますが。この辺りはこの自分劇場最終段階のネタバレになってきます。映画の中の「七人の侍」ではもしかしたら次々に仲間が戦いの中で死んでいくかもしれません、ですがそれも映画の中での脇役がただ死んだだけ、、、そう見えるだけ。。。映画ですからそこに意味はないのです。自分は間違いなく居ます、この体の中に錯覚として。ですがこれは全体が自分錯覚を起こしているだけです。友人の死や両親の死を悲しむことはない、、、そんなことを言いたいわけではありません。全体という絶対に失われることがない存在が失うという経験をしたくて起こしたのがこの自分劇場だということです。

ネタバレが腹落ちすると死が怖くなくなる、、、

自分というものが全体から分かれたモノであるということ、実際には分かれることはできず分かれたという錯覚が起こっただけということ。このことが徐々に腹落ちできるようになってきますと死にたいする恐怖心がなくなってきます。これは全体最大のジョークであることが分かってきます。ジョークですがこの人生劇場に真剣に取り組んだ方がオチでしっかりとズッコケることができます。吉本新喜劇でもたまに真剣モードがないと笑いになりません。最初から最後までボケ倒しでは笑いは起きなくなります。一方このブログを書いている自分はこの自分劇場をまだ終わらせたいとは思っていません、ですから死にたくはない。ですがかつての死を恐れる感情はとうの昔に終わりました。特に死んだ後に対する恐怖、どこへ行くのだろう?という漠然とした不安は今はもうないと断言できます。自分というこの全体の錯覚、ジョークが終わり全体に戻るだけです。だからこそこのジョークが継続されるうちはこのジョークを最大限楽しもうと思います。

人生の勘違い

テクノロジー進化の秘密

人間というのは面白いものでこの体の中に自分が居るというこの感覚に絶対的な自信を持っています。なぜかと言えば、、、友人も親も、会社の同僚も、TVに映るタレントも、町内会のおじさんも、、みんなそう信じているからです。大統領も、ノーベル賞受賞者も、日本国宝者も、マザーテレサもです。みんなが全員そう信じて疑わないのだからそれが真実である、、、これが人間という動物の中の一種だけが頑なに信じることです。この体の中に自分が居る、、、一方他の動物はどうでしょう?鶏も猫も、ライオンも、魚も、虫も、、、どの種もこの体の中に自分が居るとは信じていません。断言できます。なぜかと言えば信じるには言葉が必要だからです。言語を持たない(発達していない)種に何かを信じるという芸当はできないのです。ということで地球の頂点に君臨する人間様だけがこの体の中に自分が居ると信じている、ということになります。一方、体の中に自分が居るというアイデアはこの人間という種の発展に貢献しました、他の種では絶対的にできないような繁栄を極めました。テクノロージーを発展させ地球に人間の住めない場所はない、、というところまで居住空間を広めていったのです。

その一方で人間のストレスは何も解消されていない

この体の中に自分が居るというアイデアは、人間に脅威の発展をもたらしました。ですがその一方で人間は果たして幸福になったのか?ということです。人間は確かに年々文明が進化し産業革命、IT革命と便利を極めています。ですが幸福度という点に関しては実はあまり変わっていない、、、ここを追求する科学者は中々いません。国家をあげて国民の幸福度調査に乗り出すということも今後ないでしょう。なぜか?調査をすれば壊滅的なデータがでてしまうからです。結論から言えば「人間が発展できたのは人間が不足感製造機だから」ということになります。人間とは不足感、孤独感、分離感製造機なのです。この体に自分が居るという誤認識は常に居心地の悪さを生み出します。それを解消すべくあらゆるテクノロジーが発展しました。

最大のタブー「この体の中に自分がいない」

人間は脳が発達して言語を操るようになりました、その結果この体の中に自分が居るという認識をでの人間全体で保有するようになりました。これは言語がなくてはできません。その証拠に生まれてきた赤ちゃんはその後何年にも渡って「太郎くん」と呼ばれ続けます、これはこの体の中に太郎という全体から分離した存在が居るという洗脳です。そこには勿論悪意はありません、言語を使いこなすことで人間という種はそこまで進化してしまったのです。つまり自分という存在をこの体の中に作り出すほどに進化したということです。湧いてくる思考も感情も、、この体の中で起こっているという認識を作り出したのです。スーパーマリオというゲームの中でクッパが進化を独自繰り返し、、突然意識を持ったようなものです。そしてクッパはまさかのマリオの邪魔をしなくなるという結末、マリオと一緒にピーチ姫を救うと言い出す始末。

偽りの自分はメリットを聞きたがる

偽りの自分は不足感でできている

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中で神が人間になり切って、人間がいるかのような状況を作り出しこの夢物語を歩みます。人間が実際に実在するわけではありません、人間が実在しているかのように見える世界を神が作ったのです。マリオがいてクッパがいてクリボーがいてスーパーマリオは完成します。同じように主人公(私)と脇役を多数配置してこの錯覚ゲームはリアリティーが出て来ます。これは神が作った夢、ゲームですからリアリティーさにかけては右に出るものはありません。全知全能の神が無知無能の人間を作り出しそれに成り切っているわけですからこのゲーム、夢は不足感全開、欠乏感全開、、これがポイントになります。無知無能の人間が欠乏感全開になった時にどういう行動をとるか?メリットを追求します。コスパを追求します。損得を追求します。これが答えです。

五感+思考+感情、、これに脳の記憶装置を加えて完成

神が見る夢では人間(本当はいない)に五感を与え、見えて聞こえて、触れて、味わえて、嗅げる機能をつけると同時にその世界を現象化、バーチャル化、リアル化しました。人間の五感機能分だけ世界がリアライズされるのです。さらにこれに思考を加え、感情を加えることで不足感をいかに解消していくか、、思考を繰り返しながら観念を作り上げていきます。それに記憶力を加えることで過去を作り出しストーリーが完成します。湧き上がる不足感をあらゆる観念が感情化しそれを思考で解決していこうという試みになります。

不足感全開の無知無能人間は最初はメリットを重視するが、、

神にとって人間は無知無能です。その人間は不足感全開になりそれをなんとかして解決しようと行動します。人間ができることと言えばなるべく損をしないで生きたい、将来後悔しないような人生を歩みたいということになります。周囲から教えてもらう損が少ない人生を目指すようになるのです。進学しかり就職しかり結婚しかりです。ですがどこまで行っても消えないこの不足感は常に自分を追ってきます。この損しない生き方ゲームは死ぬまで続くのだろうか?ということです。神は人間を無知無能に作りはしましたがそれは不幸に浸かれと言っているわけではありません。その状況から神に戻ることを最終ゴールにしています。このブログでは神が教えてくれるあらゆるヒントを掲載します。

どうせ夢だから笑って暮らす

例えば濡れ衣を着せられ、、

例えばですが友人から最大限の裏切りにあったとしましょう。預けていたお金を全部横領されたと、、、多くの方は死にたいほどに傷つくでしょう。ところがです、、、これが夢でありその友人は登場人物の一人に過ぎないということを心底理解していたら彼の行動を責めるという感情が湧くでしょうか?多分湧かないはずです。なぜならば彼の心情を察し、彼の思考回路を想像してこうこうこういう理由でやったんだな、、という推測を元に人はその人間を恨むのであってこれが夢であると分かっていたらそのような推測をしません。夢ですから。夢を見ている存在の思うように展開しているだけです。勿論友人を突き詰め、白状させればそれなりの理由を吐くでしょう、、ですがそれすらも夢の中での出来事です。徹底的に真実追求に命をかけて友人を追い込むこともできますが、夢の中でそうなっただけと開き直ることもできます。

夢だと分かっていて果たして深刻になれるか?

これが夢だと分かっていて日々の出来事に果たして深刻になることはできるでしょうか。これが夢なのになぜ深刻に捉えることができるのか?ということです。人々はこれをとんでもない確実な現実であると捉えて生きています。みんなで「これは現実である」という暗黙のルールを決めて全員で縛りあっています。勿論夢の中で。これが幻想、夢であると心から理解できるともう深刻に物事を受け止めることができなくなります。夢だと分かればこっちのもの、もう脇役の顔色を伺う必要はありません、脇役の心配も全くする必要がない、、脇役はこの夢にリアリティーを与えるために登場します。クッパやクリぼう、ピーチ姫のように。ですがこれは全部幻想、夢です。

夢だと分かっていて果たして悩むことはできるか?

これは夢です、どう考えても夢です。神が見る夢の中で主人公として私を演じている夢です。これを夢だと分かったときに果たして重く悩むことはできるのか?ということになります。夢の中であらゆる悲劇、惨劇、事件が起きたとしてもそれも夢です。勿論、家族や親友、大事な仲間に何かあったらその瞬間悩むかもしれません。ですがそれでも夢です、残念ながら夢です。夢の中で起きる出来事の全ては夢を見ている存在(ワンネス、神)が好き勝手に決めていますから諦めるしかありません。これをサレンダーと言います。