悟り(非二元)解説

全員が妄想神経症

大なり小なり

人類とは全員が妄想神経症です。この私が居るという妄想、この私をなんとしても生き延ばせなくては、、という妄想、、、この妄想故の神経症にかかっています。人類全員がこの体の中に自分が居ると信じているのですからここから抜けるのは至難の技、、ほぼ不可能でしょう。そして一人そこから抜けようと「私なんていないんじゃ???」なんて言おうものならば、、、コテンパにされます。だから黙って静かにシフトするのです。

周囲の反応も神経症

悟りという言葉に嫌悪感を抱かれるのも神経症の現れです。自我システム以外のシステムが今ないのですからこれを捨てるなど、、到底考えも及ません。自我システムをなくしてしまうなど、、自殺のようなもの、、恐ことを言わないでくれ、、です。ですが本当はこの自我システムを運営しているシステム(大我)がしっかりとあり自我システムが無くなれば大我システムに切り替わるだけです。

今もしっかりと大我

自我とは大我の中に現れた現象に過ぎないのですからこれが無くなっても何も問題なく、、世界は動きます。むしろこの便宜上作られた自我が消えた方が、、そのままで安心安全感覚に浸れるのです。ではどうやって消すのか???簡単です、自我の動きを観察する俯瞰するだけです。実は自我システムとは、、、無自覚な状態でこそ発揮できるものであり、、自我の動きを理解されてしまった時点で機能不全を起こすのです。エックハルトはそのことを熟知しているため書籍で詳細に自我の動きを綴ったのです。そして自我の暴走を止めることに成功しスピリチュアルヒーローになりました。

観察力

メッセージ通り

観察力がついてきますと、、悟り系のメッセージが本当にそのままに感じるようになります。苦しみのメカニズムがその通りになっているのが分かるんです。この私のこと、周囲のこと、、、本当にその通りに人は苦しみ、苦しみから逃れ、ストーリーが展開されています。そこには本当に全体からの現象しか起きていないのです。朝起きて「個人」としての活動が始まった途端に緊張が走ります、この緊張が苦しくて人は、、快楽に溺れていきます。

「個人」としての活動

さあ「私」をやろう、、、ここから苦しみが湧きます、、、観察すれば分かるんです。ここで「私」を始めたらダメなんです、、私を観察します、「在る」として。私になるんじゃなくて、、私を観察するんです。「在る」として私をやるんじゃなく、、、、この体をただ観察します。一日中「在る」として観察者として「私」を眺めるのです。すると苦しみが湧きません。

思考

朝起こる思考は「私」に戻すための思考です、、昨日こんなこと言われた、あんなこと言われた、、、です。明日はこれをやんなきゃ、あれをやんなきゃです。「私」を必死になって思い出させ「私活動」に無事戻すような動きが起こるはずです。その思考の起こりを「在る」として観察するんです。思考も観察の対象でしかありません。自我システムを維持しようとする全体の動きを「在る」として観察するのです。

常に瞑想

起きている時間の全て

朝起きて瞑想の時間を取るべきか????取る必要がないんです、、朝起きた瞬間から瞑想が始まります。瞑想とはただ「在る」という状態へのシフトです。起きて直ぐにそこに入れます。なぜならば今目の前に起こる現象を「在る」として観察できるからです。この私の体が現れます、これを観察します。目の前に鳥が、、観察します、「お腹が空いた」という思考を観察します。つまりここは「在る」から現れる現象の場所です。現象観察の瞑想に入るのです。

視界とは

窓の外を見る時、、、見ている私は存在していません。視界だけがあるはずです。この視界が「在る」から現れた現象です。その時この体は存在しません。これを観察します、瞑想します。「在る」として視界に気づくのです。私がこの視界を見ているというのはストーリーです、イメージ、概念です。そこには入らずに、、いまここに「在る」として在るのです。思考が湧いてもその思考を観察します、「在る」として。

感情が湧いたら

感情が湧いても「在る」として感情を観察します、、、その感情に「私」が関わる必要はありません。「在る」として観察します。「私」はこの感情を即座にどうしようかと動こうとしますが「在る」として観察するのです。「私」が動けば私ストーリーに入り込んでいきます。もしも入ってしまってもそのストーリーを「在る」として観察します。

常に瞑想

常に瞑想ってしんどくないですか?????その質問がでる時点で体感がたりません。もしも今ここ「在る」としての瞑想に入りますと、、、その時点で真の安らぎに包まれます。瞑想をしんどいと捉えている時点でそれは瞑想ではありません。瞑想とはその時点で真の安らぎ、真の平和、真の愛です。瞑想したら何か手に入るんですか????という質問が出ている時点で瞑想ではありません。

裁くという意味

個人が裁く???

この世界は勘違いの世界です。この世界に個人が居て、、この個人と環境は別だ、、という大前提が完全に間違っているのです。ですがそこに気づかない人々は平気で環境を裁きます。あれはダメ、あれは良くない、あれは常識外れ、、、などです。世の中には一定のルールがあってそれを破るのは良くないという判断、裁きです。ですがこの裁きが完全に苦しみを生み出す原因は、、「全部が全部自分の現れである」ということです。

自分を裁いて苦しむ

あんなことは絶対にやったらダメだよね!!!この裁きをこの宇宙で発揮しますと、、この裁きが最終的に苦しみを生み出すのです。例えば借金は絶対にしちゃダメだよね、、という裁きをすれば、、、自身が借金をしないといけない状況になって苦しむか、友人に貸さないといけない状況になるか、親戚が借金を抱えることで自身が嫌な思いをする、、、ということになります。こういうことは良くない、、、という裁きは全部こちらに返ってくるのです。

全行為は全体の現れ

全ては全て全体の現れであり、、そこに善悪などはありはずがありません。この理解、悟りがないと、、、起こる現象に善悪をつけ始めます。これは良くない、これは悪いこと、、、、全体から起こる現象に善悪をつけますと、、その善悪によって苦しむことになります。なぜならば悟っていないからです、理解できていないからです。そして人は、、そこから善悪の恐ろしさに気づき、、悟りに向かうのです。そういう意味では善悪をつける人がいても問題ではありません。

苦しみの連鎖

止まらない

この世界は苦しみに満ちています、釈迦は悟りこの世は苦であると説きました。こに世界は苦であるはずですが、、人間は子孫を増やし続けます。この苦しみに解決方法を見出せないままに苦しみを連鎖させます。なぜでしょうか???簡単です、自由意志がないからです。ワンネスはどうやら、、この苦しみを終わらせる気はないのか??????ワンネスに意志など存在しません、、これは全部縁起、自動反応です。

勝手にどうにでもなる

この現象を起こしているのは神ですから、、、誰が神の心配をする必要があるのか???という話です。政治不破、災害、食糧不足、、、全部全部神が起こし神が経験しているのです、、誰が神の心配を知る必要があるのか???という話です。そういう意味では何も問題は起きたことはないしこれからもないのです。神の自作自演に問題が起きようがないわけです。

今の苦しみさえも

今私の苦しみって消せるんです、今消せます、、、この苦しみを味わってるのでは誰でしょうか????私ではないですよ、、私とは現れては消える概念です、、、この苦しみを味わっているのは神しかいません。あなたは孤独に苦しみを感じているつもりでしたが、、それを味わったのは神です。そうです私は神なんです。神ですから今起こっている現象の全ての出現者であり経験者です。この認識が苦しみを根本から消し去ります。

俯瞰

俯瞰できれば万事OK

そうだったんだ!!!なるほど!!これで全部OKになります。とんもない悪口を友人から言われたけれど、、、そうかそんな事情があったんだ、、これで溶けます感情が。なぜでしょうか????なぜか????ただ俯瞰できただけなのに、、、おかしい。。。。そうです、、、おかしいんです、、人はただそのトラブルを俯瞰できるだけで感情が溶けるんです。答えを教えましょう、、我々の本質は俯瞰する存在そのものだからです。究極の俯瞰者が「我々の本質」だからです。だから俯瞰すると感情が解けるんです、本質に吸い込まれます。

俯瞰、俯瞰、俯瞰

成長するということに定義をつけるならば「俯瞰力」です。いかに真実ベースで事実を俯瞰できるかです。小学生の喧嘩を穏やかに見られるのは「俯瞰」しているからです、大人は。つまり俯瞰して見れればこの世界は穏やかになります。いかに事件が連発しても「俯瞰」できれば穏やかなんです、微笑ましく事件を観察できます。悟りとは究極の俯瞰です。

私が居ないという俯瞰

私すら実は居なかった、、これは俯瞰の最終段階です、、自由意志が実はなかった、、これも俯瞰の最終段階です。。今ここ以外実は何も起きていなかった、、これも俯瞰の最終段階です。現象に気付いているのはこの「私」ではなくて究極の存在空だった、、これも俯瞰の最終段階です。。つまり穏やかの最終段階に至っていきます。

加害者と被害者

居心地の悪さ

飲み屋での大喧嘩、、、絡む方と絡まれる方、、、、お互いの共通点は、、、居心地の悪さです。居心地の悪い加害者が、、居心地の悪い被害者に絡むのです。クレームも全く同じ、、居心地の悪いクレーマーがやはり居心地の悪いサービス提供者に絡みます。実は居心地の悪い者同士がプラスとマイナス、陽と陰になってトラブルになります。つまり居心地の悪さを解消してしまえば、、トラブルには巻き込まれないということです。

居心地の悪さの根本

ではこの居心地の悪さとは何が原因なんでしょうか???それは「私が居る」という感覚です、この感覚を所有する限り人は常に居心地の悪さを感じます。ゆえに、、この感覚が強い時期にトラブルに巻き込まれるのです、それは加害者被害者という役を変えながら。ですからここを見抜かないと、、トラブルからは抜けられません。

自分は居ない???

この自分ゲームは残酷で誰もそんなことを教えてくれないままに、、人生は進んでいきます。誰にも本当のことを教わらずに人生はだいたい終わります。TVで偉いコメンテーターがこんな発言をしてくれないわけです。ですから私が今お伝えします「私って居ません」「私」という認識が全体から起こっているのです。「私は怒っている」という認識が全体から起こるのです。だからもう居心地の悪さを終わらせてしまって加害者被害者の輪から外れていいんです。

確信犯

自我は問題解決など求めていない

自我は実は問題解決を求めていません。クレーマーと呼ばれるような人々は、、わざわざクレームできるお店を探し求めています、深い場所で。クレームしたくてしたくてしょうがないのです。そして面白いことにクレーム中は本気で怒っているのです。本気で頭にきています、ですが本心では求めているのです。なぜこんなことになるのでしょうか?????簡単です、、自分という存在から起こる居心地の悪さに辟易しているのです。だから常にどこかで怒りを発散させたいのです。

怒り

旦那さんの浮気が発覚、、、怒り心頭で慰謝料請求、、、、ところが、、その女性の表情がどこか晴れ晴れしています。被害者であるにも関わらず旦那に対し怒りをぶつけれることで晴れ晴れしているのです。どこかでバトルを求める動きが生じています。「自我」という存在をベースに生きますと、、常に居心地の悪さがあり、、この居心地の悪さをどこかでぶつけたい、、その大きな渦が実は旦那とのトラブルを求めます。

自作自演を見抜く

あれ、私っていつもクレームばかり、、あれ私っていつも嫌味なことやってる、、、どこかでここに気づかないと、、この自我の自作自演の罠から抜けれなくなります。自我ありきの居心地の悪さを、、対象で解決しようとしてもエンドレスゲームです。そうではなくこの自作自演を見破るのです、見破るとは理解する、そのことを悟るということです。自我の動きを悟り、、悟りを悟っていきます。

大我の自覚

絶対安心領域

いまここに安らげるようになりますと、、、どこかに行きたい衝動が減っていきます。どこかにいかにと損、今日という1日をもっと大切に、、、、という焦りが起きないのです。だってここに全部があってここで全部が行われているのに、なぜ??どこかに行く必要があるのでしょうか。いまここが満たされないからどこかに行こうとするのです、だったらどこへ行ってもそれは同じです。

高揚感

多くの方が求めるのは実は高揚感です。この私は常に不足しているので、、何かを埋めることで高揚感を味わっているのです。それは安全安心という質のものではなく、、ただの刺激に過ぎないのです。なぜここに安らごうとしいないのか???それは全くここが居心地が良くないからです。でがどうしたらここが居心地が良くなるか???そのためにこのブログは書かれています。

居心地の悪さを感じているのは誰???

ここに気づかなくては一生このままです。居心地の悪さを感じているは誰でしょうか???私ですよね????違うんです、、私は感じられている側で、、、居心地の悪さは、、私ではなく大我が感じているんです。ではなぜ大我は居心地の悪さを、、解消しようとしないのでしょうか???それはこの世界は縁起、、化学反応しか起きないのです。その居心地の悪さに誰がどう反応するかは誰にも決めれないのです。つまりただ不断の現象が起き続けます。

大我には意志はない

つまり「居心地が悪い」を大我は直接解消するような意志はないのです。大我とはただ気づくのみ、、変化反応に気づくだけです。その流れの中で自我がこれを解消するという動きがまた起こり、その期間は居心地の悪さが続くのです。このどうしようもない反応の連続に気づくと、、もう自我が何かを成し遂げようとか、解消しようという発想が消えていきます。大我として全現象を見守るという新しい視点が芽生えてきます。そしてその時、、私はこれを求めていたんだ!!!という感動が起こるのです。

食事から内臓脂肪へ

自我から大我へ

ファスティング時に面白いこと、、それは食事を欲していた体が全く食事を欲しなくなり、、体内脂肪を栄養に切り替える瞬間があるということです。それまでの空腹が嘘のようになくなり、、ただ体内脂肪が減っていきます。体は栄養補給方法を完全に切り替えたのです。自我システムから大我システムへの転換もこれと全く同じです。自我システムで機能していた体が大我システムに切り替えます。自我システムは体が作ったアイデアでありこれは苦しみを伴うのです。

切り替え

空腹をある程度我慢すると体内脂肪消費に切り替わるわけですが、、これには一定の我慢期間が必要になります。これは自我から大我に切り替わる時も同じで一定期間は徹底的に切り替えに集中する必要があります。特に切り替え時期は自我の主張が半端なく強くなり、、シフトを拒む動きが起こります。ここをいかに俯瞰して乗り越えるかは鍵です。

いつでも大我の俯瞰が訪れる安定期

徹底的に自我の動きを俯瞰していきますと、、ある時、、、気付くんです、、あれ????もう完全に大我目線で自我を観察する状態になっている、、、どれほど自我が暴れても、、それを俯瞰する大我が存在するのです。自我目線の思考が慌ただしく起ころうとも、、それをしっかりと見つめる大我を実感するんです。だから常に安心、猛獣がしっかりと綱に繋がっている実感です。好き放題暴れても所詮は綱の範囲であるという実感です。

自我が萎れていく

いつでも大我目線であることに慣れてきますと、、もう今ここに安らぐ居心地の良さがなくなることはありません。どこかに!!!が起きないんです、だってもうここが安心安全領域、、、どこに行っても安心安全領域ならば、、なぜどこかに向かわなくてはならないのか、、です。すると自我は萎れていきます、鳴りを潜めます。